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武田信玄諸戦録  作者: pip-erekiban
第三章
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第三章(八幡原の戦い)‐五

 夜半、越軍は騎馬のいななきをばいによって抑え、密かに千曲川渡河を成功させた。

 八幡原の甲軍本陣に在った信玄以下武田の将兵は、濃霧の中にあって南方の妻女山から湧き上がるであろう鬨の声に耳を澄ませた。

 だが霧が晴れると共に甲軍が見たものは、信玄の上洛を妨げる、文字どおり天魔鬼神の如き越軍であった。眼前の軍兵が越後勢であることを確信した前衛部隊の伝令は、信玄座する本陣に躍り込んで

「眼前に越軍あり」

 と報じた。

 だが信玄に動揺はなかった。、

 たとえこのような状況に置かれたとしても、自分がなすべき役割が予め分かっていたからだ。

 信玄は各隊に

「急ぎ鶴翼の陣に開け。

 その場にいわおのように座り込んで決して動じるな。別働隊の到着まで持ち堪えることが出来れば必ず勝てる」

 と伝令を飛ばした。

 信玄は続いて筒衆に発砲を命じた。空振りに終わった妻女山攻撃隊に対し、本隊の危急を知らせるためであった。

 甲軍が放った炮火が合図となり、越軍は真っ黒なひとかたまりとなって、乳白色の濃霧を押し破るように突進してきたのであった。

 越軍は柿崎和泉守景家(かげいえ)を先手として、工藤源左衛門尉(げんざえもんのじょう)祐長すけなが隊に打ち掛かった。

 工藤隊は信玄命令をよく遵守し、長柄ながえ隊を前面に押し出して鑓の石突きを大地に押し立て斜めに槍衾を作る者と、長柄を振り下ろして敵勢を払う者とを交互に配置して、守りに重点を置きつつ柿崎隊と交戦する。

 同僚の苦戦を見た飯冨三郎兵衛尉昌景は、すかさず柿崎隊に対し横矢と鉄炮を射かけ、或いは石礫いしつぶて投擲とうてきしてこれを援護した。

 その飯冨隊に対し、新発田しばた尾張守長敦(ながあつ)が討ち掛かる。

 飯冨隊を支援するために河内衆穴山信君隊が更にこれへと討ち掛かった。飯冨と穴山は合力して柿崎、新発田両隊を押し返したが、越軍は新手の色部勝長隊を投入し飯冨、穴山両隊に横入よこいれした。

 奇襲を受けた形となった甲軍は全体として押され気味であったが、鶴翼に開き越軍をよく受け止めて即座に潰乱する様子がない。甲軍に、陣を固くして動じる事なかれという信玄の威命が行き届いている証拠であった。

 政虎は甲軍が横隊の利を活かして繰り出した新手を柔軟に受け止め、その行く手を阻む様を見て

「甲軍の鶴翼に穴を開けねば我が策なりがたし」

 と直感した。

 政虎は政虎で、当たった相手が容易に崩れる様子がないことに焦りを生じたのである。甲軍別働隊の八幡原到着までに信玄の頸を獲らなければ、今回の出陣もまた徒労に終わるのだ。

 政虎は瞬きもせず戦場の全体を見渡した。

 土埃つちぼこり立ち上がる戦場の、自軍の向こう側にある甲軍各隊をつぶさに観察すると、中にひときわ華美な一隊を従えた将が満々たる闘志を剥き出しに前線に出張っている姿を見た。

 そこで政虎は、これと交戦する味方部隊に伝令を飛ばし訊ねると

「あれなるは信玄嫡子太郎義信の一隊と見得みえ申し候」

 との回答を得たので、政虎はさながら垂涎すいぜんていを示しながら

「では本陣を前進させよ。太郎義信に我が隊の横っ腹を見せ付けるようにな」

 と下知したのである。

 太郎義信は、政虎本陣の指物さしものが前面に押し出す様を見て麾下将兵の内から手練の侍衆を選抜し

「敵将政虎の首級を討ち取れば褒美は思いのままだ」

 と訓示すると、自らこの一隊を率いて長く伸びた蘆草に身を隠し、秘かに政虎本陣に忍び寄った。そしてこれが政虎の罠とも知らず、

「持ち場を堅持して巌のように動くな」

 という信玄軍規に違犯して陣を崩し、やにわにこれに討ち掛かったのである。

 防御に徹し別働隊の到着を待つつもりだった信玄は、途端に自軍の一角が崩れ綻びつつある様を見るや、百足衆むかでしゅうを飛ばし戦況を報告させた。

 百足衆から

「太郎義信様、政虎本陣に肉迫」

 との復命を聞いた信玄は、太郎義信が軍規に違犯して自陣を離れ政虎本陣に襲いかかった挙げ句、敵の重囲に陥りこれを救おうとする甲軍各隊が陣を乱しつつあることを悟り

「あの、粗忽者そこつものめが!」

 と、この戦域に到着して初めて我を喪い怒号したのであった。

 信玄は

「義信救出の儀は不要。政虎は義信を殺しはしまい。我がそなえを崩すための策略だ。

 持ち場を堅持するよう、各隊に改めて通達せよ」

 と伝令に申し含めたがとき既に遅かった。御曹司の危機を救わんとして甲軍諸隊が続々陣を崩し始めていたからである。

 前線は忽ち整理不能の混乱の巷と化した。

初鹿野はじかの源五郎忠次殿御討死(おうちじに)

室住むろずみ豊後守ぶんごのかみ殿御討死」

 陣営に乱れが生じてから、大身たいしんの将の討死が相次いだ。

 入れ替わるようにして

「太郎義信様、敵の包囲より脱出」

 との報が甲軍本陣にもたらされたが、信玄に安堵の表情はなかった。

 義信突出を契機に敗れた陣を立て直すのは容易ではない。この危機を脱し一挙に形成を跳ね返すにためには、もはや各隊の粘りを信じ別働隊の一刻も早い戦域到達に期待するよりほかなかった。

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