第三章(八幡原の戦い)‐二
信玄は関東出征中の政虎の後背を衝くべく、五月に北信割ヶ嶽城を攻め落とした。しかし城兵の抵抗は激烈を極め、攻略に当たった原美濃守虎胤が重傷を負った。北信海津城将高坂弾正忠昌信の相備として、永年川中島近辺の経略に従事してきた猛将の戦線離脱は、本戦の前途多難を暗示するものであった。
堅城小田原を攻めあぐねていた政虎は、母屋の危うきを見て長期戦の不利を悟り、一旦攻城の兵を引いたので北条氏康は危機を脱した。代わって武田領国の諸衆の間では、新関東管領就任に水を差された政虎が、その怒りの鋭鋒を北信の武田勢に向けるであろうと頻りに取り沙汰され、果たして八月、物見櫓に立つ海津城在番衆は川中島の曠野を南下する毘の旌旗をその目に認めたのであった。
高坂弾正忠昌信は、越軍襲来を報せる急使を躑躅ヶ崎館に派遣するとともに、領内に張り巡らされた連絡網の端緒となる烽火を上げた。甲信の要所に備えられた烽火台は海津城から上がる烽火を南へ南へと伝達し、夕暮れの朱を浴びて薄赤く色付いた烽火は甲信の軍役衆に出陣近しを知らしめたのであった。甲斐府中躑躅ヶ崎館に在った武田信玄は、急ぎ諸将を招集し、四度目となる川中島出陣がここに決したのである。
八月二十四日、分国の軍役衆を率いて塩崎城に入城した信玄は目を疑った。政虎がここに在ることを示す「毘」と「龍」の旌旗は、武田の前線基地である海津城の更に南、妻女山に翻っていたのである。
この様子を見て塩崎における軍議で口火を切ったのは、
「敵領深い丘陵に布陣するとは、政虎も存外兵法を知らぬ者と見得ます。この上は越後と政虎との連絡を断ち、塩崎と海津の兵で押し包んで揉み潰すか蒸し落としてしまいましょう」
という義信の積極策であった。
「あ、いや。待たれよ御曹司」
口を挟まれたのが気に入らないのか、義信が目を剥いて勘助を睨めつけた。
「政虎が何の考えもなくあのような死地に布陣するとは考えられません。自ら背水の陣を敷いたとも見て取れます。塩崎も海津も、ともに妻女山から見下ろされる場所に位置しております。こちらの動きは敵方より丸見え、加えて死兵を相手にするとなると、一敗地に塗れるおそれなきにしもあらず・・・・・・」
勘助がここまでいうと、義信は真っ赤になって
「我が武田が敗れると申すか。控えよ勘助」
と激昂した。これに対して馬場民部少輔信春は
「落ち着かれよ御曹司。勘助殿のお申し出、逐一ごもっとも。あれは越軍にとっては間違いなく死地にございます。既に我ら着陣して四日になり申すが、越軍に動揺の気配が見得申さぬところを見ると、無二の一戦を仕掛けんと準備万端手ぐすね引いて待ち構えておると思わなければなりますまい」
と言った。
「しかしな民部殿」
飯冨兵部少輔虎昌が口を開いた。
「我が軍は海津籠城衆と合算して二万に及んでおる。物見の言では妻女山に籠もる越軍はおよそ一万。数に優る我等が越軍を恐れて攻撃を躊躇したとあれば、外聞の悪い話ではある」
虎昌は義信の積極策に同調した。
通常では考えられない越軍の布陣に軍議は消極策に傾きつつあったが、積極策も根強く結論が出ない。
「兄上、議論百出致しました」
信繁が信玄の采配を請うた。
信玄は身じろぎもせず諸将の議論をただ聞くだけであった。
この一戦の基本的目標は海津城後詰であった。
敵勢がろくに海津城を包囲せず、山上に籠もっているのを徒に恐れて後詰に二の足を踏んだとあれば、武田の威信は失墜し国衆の動揺につながる恐れがあった。
また本隊と海津籠城衆を合算して二万に達する大軍を擁しているとはいうものの、二分されている状況に変わりはない。
各個撃破の憂き目を避けようと思えばこれを一つに糾合したいところであった。
塩崎城から海津城に向かうためには、敵前を東に横断する必要があった。横っ腹を敵に曝さなければならない。危険な瞬間である。だが政虎が下山して攻撃を仕掛けてくる絶好の機会でもあった。越軍下山を予測して、攻め降ってきた敵を包囲殲滅するのも策である。
もっとも、政虎ほどの大将がそのような見え透いた罠に掛かるとも思えないのだが・・・・・・。
信玄は
「明日、籠城衆と合流するため、我等は海津城へと入城する。その上で政虎の動きを見極める。行軍中の警戒を厳にせよ」
と下知したのであった。
二十九日、信玄率いる甲軍本隊は塩崎城を進発して、敢えて脆弱な横っ腹を越軍に見せ付けるように行軍した。だが、結局山上の越軍は押し黙ったまま微動だにしなかった。
無事に海津入城を果たした甲軍諸将は――これは信玄をも含めてのことであるが――いよいよ政虎の真意を図りかねていた。
曾ては犀川を挟み二〇〇日にも及んで対陣したこともある両者であった。信玄には犀川の対陣を繰り返す気はさらさらなかった。その点に関していえば政虎とて同じ考えであろう。
敵の意図がどうあれ、妻女山上の越軍が、味方の勢力圏に深く侵入して孤立している状況に変わりはないのだ。塩崎城の軍議における「押し包んで揉み潰してしまいましょう」という義信の言葉が、信玄の耳の奥にこだましていた。
信玄は海津城の広間に諸将を招集した。
「着陣既に半月を経て両軍未だ動きがない。対陣二〇〇日の再現ともなれば、麾下軍役衆の士気の低下は避けられぬ。また、余自身も越軍との決戦を欲する。その故は、既に越軍との交戦八年、調略による領土の蚕食は政虎出陣のたびに無に帰するということを繰り返してきた。もとより一筋縄では参らぬ難敵ではある。だからこそ尋常一様の戦いようではこれを打ち破ることが出来ぬと余は考えておる。決戦なくして撤収は有り得ぬ。これは、この度の出陣における大方針だ。各人、この大方針に則り、政虎を討ち滅ぼす策を論ぜよ」
軍議の場で信玄がここまで激烈な演説を放ったのは初めてのことであった。川中島を抜いて越後を獲得し、延いては帝都に上らんとする信玄の不動の決意表明であった。軍議の場が極度の緊張に包まれた。これから繰り広げられるであろう越軍との死闘と、虎穴に入ることを厭わぬ信玄の決意に、皆一瞬気圧された。積極策を唱えた義信ですら、顔から血の気が引いて青ざめていた。
ただ一人、勘助だけは不敵ともいえる目で静まり返る一堂を見渡していた。