第三章(八幡原の戦い)‐一
関東管領上杉憲政が、永年打ち続いた小田原北条氏との戦いに敗退を繰り返し、遂に上州平井城を失陥して越後春日山に逃れたのは永禄元年(一五五八)のこととされている。憲政を自領に迎え入れた長尾景虎は、永禄四年三月、関東諸将十一万余を糾合のうえ小田原城を包囲し関東にその威勢を誇示した。
閏三月、政虎は上杉憲政の猶子となり、その偏諱を得て上杉政虎の名乗りを上げ、古式に則って鎌倉鶴岡八幡宮において関東管領就任式を挙行したのであった。敵の勢力圏を縦断しての就任式挙行に、新関東管領の威光はいや増しに増した。武田家麾下にあった真田幸綱など関東に縁の深い家中衆までが、政虎の関東管領就任に対して祝の太刀を贈ったと記録されている。
「不味いことになったな」
氏康からの援軍派遣要請を受けて開かれた軍議のあと、諸将が解散した大広間で信玄は偽らざる心境を勘助に吐露した。それは、口の中で呻吟するような、力のない呟きであった。
「御屋形様。不安にございますか」
勘助は信玄に追い打ちをかけるように言った。
「関東管領といえば墜ちたりとはいえ鎌倉公方の執事にして幕府要職。形式的には甲信両国の守護職を兼ねる御屋形様の上位に、政虎が立ったことを意味します」
甲斐守護職を担ってきた武田家は、本来鎌倉に出仕して鎌倉公方の統制に服する存在である。関東管領といえばその鎌倉公方の執事であり、家格でいえば一国の守護職を凌駕してその上位に立つ役職であることはいうまでもない。如何に信玄が甲信二ヶ国の守護職を兼ねるとはいえ、その事実を覆すことは出来ない。
信玄は顔を顰め不快の表情を隠さず
「分かっておる勘助、汝の言うとおりだ。この下剋上の世、関東管領職に如何ほどの威勢があろうかと見くびっておったが・・・・・・」
そう言葉尻を濁すと、勘助が信玄の言葉を継ぐように
「皆、こぞって力ある者に靡き申した。これも武士の世の常。政虎という力ある大将のもとで、関東管領という黴の生えた権威が蘇った観がございますな」
と言った後、
「この上は軍議で決したとおり、氏康公の要請に応じ信越国境に出兵するのみでありましょう。十一万もの大軍に攻められれば、如何に精強な武田の将兵といえどひとたまりもございませんが、幸いにして小田原包囲陣に従う関東諸将が武田攻めに加わる大義がございません。結局川中島を巡る合戦は、御屋形様と政虎の一騎打ちとなりましょう。その折は…」
と信玄の決意の程を確かめるように、言葉を句切った。
「武田の死命を決する大戦となろう」
信玄の言葉に、勘助は深く肯いた。信玄の覚悟のほどを改めて確認し、そうでなければならぬ、と思ったからであった。
北信を巡り、初めて政虎と干戈を交えてから既に八年の歳月を閲していた。越後を獲得し北陸道へ進出することが出来れば、この間の遅れを一気に取り返すことが出来るに違いないのである。衰えた幕府に再び力を与え、世に秩序を取り戻し、王道に則った政を執り行うのが信玄の望みであった。
自分は何が故に生まれ、何が故に衣食に事欠くことがない立場にあり、何が故に文武の研鑽に励んできたのか。
幼少の頃、領内に打ち続いた冷害、飢饉、疫病。
幼子を亡くしたのか、憔悴しきった両親が小さな棺を抱えて野辺送りの葬列を行く風景を目にしたことがある。
これら百姓の民の苦しみを救わんがためではなかったか。そのためにはこの戦乱を一刻も早く終わらせる必要があった。
信玄は仏法、王法、諸侍の作法を定めて正しき政を行う自らの姿を想った。だが信玄は、すぐにこの白昼夢のような想念を自ら振り払った。
夢を見る前に、どうしても倒しておかなけらばならない相手がいる。
政虎だ。
我が知略の限りを尽くしての攻勢をことごとく斥けてきた稀なる強敵だ。
信玄は
「一騎討ち、一騎討ち」
とゆっくり呟いて瞑目したのであった。