第二章(信玄誕生)‐一
「入道しようと思う」
晴信が典厩信繁に突然語ったのは永禄三年のことであった。
思いつきではない。
四〇を手前にして、晴信は父信虎を駿河に追放してから今日に至るまでの道程を思ったのである。
父の在府中はその意図を父本人に確かめることは遂に叶わなかったが、恐らく父は自分に家督を相続させる気でいた。年始の一番盃を信繁に与えたのも、自分のことを惰弱だと罵ったのも全ては家督相続者としての自覚を促すためではなかったかと思っていた。
今、信濃の過半を得て越後を窺う自身を顧みると、父の代からの恩恵を多分に受けていることに気付かされる。例えば今川家との紐帯がそうであった。父の前半生には対立関係にあった今川家との同盟なくしては、信濃方面への派兵など到底為し得ない話であった。
また上洛というものを意識して改めて思ったのは、自らの正室三条の方のことであった。
三条の方は晴信の後妻であった。最初に娶った正室は晴信が十三の頃に難産で母子共に亡くなっている。三条の方はその後、今川家の仲介で武田に嫁してきた。その妹は一向宗の元締めである顯如光佐の妻である。要するにそれぞれの正妻を介して、晴信と顯如光佐は義兄弟の間柄であった。
もし晴信が越後撃砕に成功してこれを平定し、北陸道西進の途に就いた暁には、一向宗門徒の影響力が強い越中加賀能登などの諸国を、彼等の助力を得ながら進み出ることが期待できた。この影響力の行使は典厩信繁には為し得ないものである。
晴信は、父信虎が甲斐統一という難事を成し遂げた恩恵の上に今の飛躍があるという事実を心の中では否定しなかった。父は次代に北進策という道筋を就けるために必死で戦ったのである。だがその戦いの多くは甲斐国内で行われたものであり、国人にとって内戦は災厄に他ならなかったから信虎はその支持を失った。結果として自分が担ぎ出され、今日まで国主としての地位を保っているのである。
時代が悪かった。
天候不順が続き百姓の民が飢えた。そのことも父が支持を失う要因だった。世上では悪政によって天罰が下り天候不順になるのだ、などといわれるが、人の所業が天候に関係するわけがない。その証拠に飢饉は連年領内を襲い、疫病は流行し、課役に耐えかねた農民が田畑を捨てて他国へ逃散するという事態が頻発していた。
(悪政によって飢饉が耐えぬというなら、自分は父以上の悪政家だ)
晴信は心中自嘲した。
国人諸衆が自分を放逐することなく未だに推戴しているのは、単に武田が強勢を保っているからに過ぎない。一旦弱みを見せればどうなるか分かったものではないのである。
この年、相模では当主北条氏康が嫡子氏政に家督を譲っている。
民衆からは
「領主が飢饉の責任を負って隠遁した」
と受け止められ歓迎された。
家督を相続した氏政は、早速領内において徳政令を発したという。北条のように代替わりするつもりは晴信には未だない。しかし家督者が入道することで、代替わりを擬似的に演出できると晴信は考えた。
晴信は信繁に入道の真意を問われ、このような意図をあからさまにせず次の通り説明した。
「第一に武田家は新羅三郎義光公以来、余の代に至るまで既に二十七代を経、しかも代々戦で功名を挙げているためか、公方様(将軍)が帝の代官として動座された際には二度にわたって武田家居館が宿営とされた。今に至っても武田家館が御所であると言われるのは、このような栄誉に浴したからだ。
そのような栄誉ある家柄を余の代で滅ぼしてしまえば先の二十六代に対して面目ないことである。
つらつら近年の世上を鑑みるに、長く続いてきた名族の家柄が滅び、この武田家もようやく滅びる時刻に至ったように思われる。昔、平相国(清盛)は自身の身命のために発心したそうであるが、余は当家の先祖のためにそうしようと思う」
と一つ目の存念を述べた。次いで
「余の生年の卦は豊である。豊の卦は日中より後に満ち欠けがあると聞いている。人間の寿命は六十年であり、余は既に三十九に達した。即ち日中にたとえれば既に昼を越えて数年を経ている。満ち欠けのある卦ゆえに、頭を剃って短か毛とするのだ」
満ち欠けと短か毛をかけて、半ば冗談ともとれる口調で笑みを浮かべながら言った。
「三点目は」
晴信は徐に姿勢を正した。
「我が住国甲斐は京畿より遠国であり、朝廷にご奉公もままならぬ。それ故に存分に馳走することも能わず、昇任を奏聞すること自体が困難だ。
だが入道して法体となれば、大僧正位まで昇ることを申し出ることも出来よう。
余はそのように極意して入道を決意したのだ」
と言った。