第二章(上野原の戦い)‐三
景虎は晴信のそのような動向を知らず、川中島方面のいずれかの城――葛山城なり尼飾城なり――に晴信が在城しているものと考えた。今までがそうであったのだから、今回もこの方面に出張ってきていると考えるのが妥当であった。しかし景虎は、晴信が出張ってきているとして、川中島に散在する甲軍のいずれに彼が在陣しているか、確信を得ることが出来なかった。
景虎はまず、先年の犀川対陣の折に自らの要求で破却した旭山城を再興した。既に葛山城は武田の手に落ちており、これに対する付城として再興したのである。
しかる後に、晴信による後詰派遣を呼び込むために尼飾城を攻撃しているが、籠城の武田方はよく持ち堪えた。
いくら囲んでも晴信は後詰に現れないと確信した景虎は、甲軍別働隊が高梨政頼居城飯山城攻略を目ざして北上しつつありとの急報に接して尼飾城包囲を解き、一旦飯山に兵を退けている。
七月五日、甲軍の小谷城攻撃隊は山中を行軍してあっさりとこれを陥落せしめた。馬場民部少輔信春の策が図に当たったのである。
流石の景虎も慌てたが、そのまま本国に引き揚げることなく川中島を荒らし回り、遂に八月二十九日、上野原においてまとまった数の甲軍一隊と交戦した。
越軍はこれを打ち破っているが、この敵部隊があまりに脆弱だったために、景虎はこれが晴信本隊とはどうしても考えられなかった。
北信に行方をくらました晴信は越軍を右往左往させ、殆ど戦果を得ることが出来なかった景虎は九月に入り川中島から撤兵した。越軍の撤兵を見届けた晴信も、十月に入り兵を甲斐に返した。
実は景虎には帰国を急がなければならない理由があった。将軍義輝から上洛を促す御内書を賜っていたからである。
このとき義輝は三好長慶等の専横を抑えることが出来ず、自らを推戴して公儀の権威を発揚すると思われる人材に対し頻りに上洛を促す御内書を発給していた。その一人が景虎だったのである。
義輝は景虎上洛を熱望し、その調整のために甲越和与工作まで行った。
景虎上洛を指を咥えて見過ごすこととなるので晴信は停戦に消極的であったが、粘り強い幕府からの折衝に対して遂に折れ、
「では、和与に応じるので信濃守護職を賜りたい」
と義輝に突きつけた。
晴信の要求を受けて義輝は悩んだに違いない。天文二十二年(一五五三)に景虎が初めて上洛した際、景虎に対し
「信濃守護職小笠原長時を信濃に帰還させるよう支援せよ」
という内容の命令を下していたからである。、
もし晴信の要求を容れて、彼を新たな信濃守護職に補任したならば、先に景虎に下した長時帰還支援命令は間違いだったことを将軍自ら認めることになる。晴信の要求を容れることが妥当かどうか、幕閣は相当悩んだものと思われる。
しかし結局要求は認められ、晴信は信濃守護職に補任された。義輝は前言を翻してでも景虎の上洛を熱望したのである。
兎も角も、晴信が馬場民部の献策を容れて小谷城攻略を目指し、目論見どおりこれを抜いたにも関わらずこの方面からの攻勢が持続しなかったのは、将軍家の甲越和与工作による。
以後武田家は小谷城方面から越中に進出し、松倉城主椎名康胤等に影響力を行使することとなるのだが、景虎に対する牽制の域を出ず、越後に対する攻勢はやはり表玄関である川中島方面から企図され続けることとなる。
一方景虎は上洛に当たって、雪で街道が閉ざされている時期を避けたり、街道通過のために沿道の軍事勢力と調整を行ったためであろう。実際に上洛を果たしたのは、上野原戦役の一年六カ月後(永禄三年四月)のことであった。
景虎は軍兵五〇〇〇を引率して入京した。
前年の永禄二年には、上州平井城を失陥した関東管領上杉憲政が越後に遁走しており、景虎はこれを領内に受け入れている。
憲政は後に景虎を猶子に迎えて関東管領職を譲っているが、これが憲政の自発的なものだったかどうか、明らかにはなっていない。
いずれにしても景虎が後年、上杉の家督を相続して関東管領職に就いたのは僭称などにあらずして実を伴うものであった。関東管領職就任に先立つ永禄三年時点の上洛において、公儀から内諾を得ていたものと考えられる。
幕府より信濃守護職に補任された晴信と、関東管領職就任の内諾を得た景虎の争いは、双方にとっていよいよのっぴきならない段階に進展しようとしていた。