第二章(上洛の雄図)
於福逝去の哀しみに浸る時間は、甲斐守護職には与えられはしなかった。晴信は国内の仕置を済ませ、軍役衆に休養を与えた後、次なる標的を木曾郡に盤踞する木曾義康義昌父子に定め、これを服属させるべく兵を率いて甲府を発した。
木曾氏は遠く治承寿永のころに、上洛して征東大将軍に補任された源義仲の末裔を称し木曾郡に独自の勢力を保っていた。領内の山々に産する杉の木材を、独自の販路を開拓し財に替えていたのである。
晴信には木曾を滅ぼす気はなかった。今となっては真実かどうか確かめようのない血筋の件はともかくとして、従来から晴信は国境に在る国衆の勢力を温存し国境警備に当たらせる方針で臨んでいたからである。
なんといっても、木曾氏が独自に開拓した材木の販路は捨てがたかった。これは木曾にしか運用できないものであり、俄に侵出してきた他国者がどうこうできる性質のものではなかった。
だがいくら晴信が本領安堵を企図しているといっても、標的にされた木曾父子から見ればたまったものではない。それまで営々と独自勢力を保ってきたのだ。服属したとしてこれまでの武田のやり方を見れば本領を安堵される公算が高いのは百も承知であったが、それを了承して降れば今まで何処の誰からも課されることがなかった軍役、その他課役を賦課されることになるのである。承服できるわけがなかった。
木曾父子は武田の侵攻に対して、鳥井峠の大切所に構えて武田を何としても追い払うことに決した。
木曾父子には勝算があった。一旦鳥井峠に兵を籠め、そこに蓋をしてしまえば木曾郡の寸土たりとも武田に手渡さない自信があった。如何に大軍を差し向けてきたとしても、敵は一列になって嶮岨な峠を駆け上がるしか攻め手はないのである。
だが信濃に歴戦してきた晴信にとって鳥井峠の嶮は織り込み済みであって、徒に兵を駆け上がらせて犠牲者を増やすの愚を犯さない。晴信自身は峠の正面に兵を構えたまま動かず、深志城主馬場民部少輔信春を迂回させ、木曾郡に横入させたのである。
思わぬ方角から甲軍の侵入を許した木曾は驚き、木曾の兵団は後衛から潰乱した。晴信は馬場民部の横入が成功したとの報を得て初めて兵を動かし、麾下軍役衆に峠越えを命じた。母屋が危うくなって浮き足だった木曾衆は、我先に持ち場を棄てて遁走した。
木曾父子は甲軍に領内を荒らし回られ絶望した。この上は切腹して果てんと談合し思い定め、両者まさに腹を切らんとしていたとき、晴信使者からその御諚として
「我が娘眞理姫と木曾義昌との婚儀を約し、親類衆として厚遇するので我等に合力せよ」
との降伏条件がもたらされた。木曾父子はこれにより切腹を思い止まり、武田に服属することを決した。
木曾の服属を得たことによって晴信の脳裡にははっきりと上洛への道筋が描かれるようになった。
今を遡ることおよそ四百年前、この山深い木曾から発した朝日将軍源義仲は、信州川中島は横田河原における合戦で越後の平氏方であった城助職を撃破し越後を平定したあと、一気呵成に北陸道を西進し入京を果たしたのである。自らを源義仲に擬し、同じことが出来ないはずがない、と晴信は考えた。
そう思い至ったとき、晴信が全力を傾けて倒すべき相手は一人しかいなかった。即ち長尾景虎その人である。
弘治二年(一五五六)正月、晴信は恒例となっている年始の軍議を開催した。晴信はこの席上、上洛という自らの年来の宿願を初めて諸将に披露した。
諸将は晴信が幕府に奏請して嫡男義信に足利将軍家の通字である「義」の字を賜ったり、その義信に「准三管領」という職名を賜ったことを間近に見ており、漠然と
「嫡男義信公の御代ともなれば武田は上洛し、管領として天下の政務を取り仕切るのだ」
等と考えていたが、晴信がその計画を一気に前倒しして
「信濃経略は順調に進んでいる。木曾の服属をも得て、遂に上洛への途が拓けようとしている」
と発言したことで、そう遠くない将来、晴信指揮下で上洛戦を戦うであろうことをはっきりと認識したのである。そしてその晴信の存念を実現させるためには、どうあっても越後を抜かなければならないことが諸将の間で認識された。軍議は、全力を傾けて越後を攻め、近年中の景虎撃砕を目標とするところで一致したのであった。