第二章(知久頼元謀叛之事)‐一
伊那神之峰城主知久頼元は深い懊悩の中にいた。
知久氏は諸国人の割拠する伊那にあって、坂西氏や座光寺氏等と交戦しこれらを服属させ、伊那に一大勢力を築く可能性を秘めていた。だが頼元がその野望を遂げるより先に、甲斐の兵を率いた穐山伯耆守虎繁の侵攻を受けたのである。六年前のことであった。以来不本意ながら武田に服属している。
小なりとはいえ自らの一勢力を統率するのと、大勢力の統率に復するのとで鶏口と牛後ほどの差があった。
武田に降って本領安堵と引き換えに信濃先方衆に名を連ねんか、忠節を尽くすよう常求められ、名誉とは名ばかりの危険な先陣の任を戦のたびに強いられた。しかも乏しい見返りに甘んじなければならない。この時代の国人領主のうち、自らの非力も顧みず大勢力に挑む者が一定数あったのはこのためだ。
だが武田と干戈を交えれば手もなく揉み潰されることもまた明らかであった。信濃において武田に抗し得る信濃守護職小笠原長時と村上義清は既に本領を逐電し、知久氏一党が叛旗を翻したとして、これに後詰を送り込んでくる味方は信濃にない。
「このまま武田の又被官としてこき使われる一生を過ごすのか」
頼元が独りそのような不遇を託っていたころ、越後守護代長尾景虎が村上義清に援兵を貸し出したのみならず、自ら一軍を率いて北信布施まで出張ってきたという報を聞いた。
知久頼元は武田に服属してはいたが、密かに武田が敗北し、その威勢が後退することを望んでいた。武田の衰退を契機として再び伊那に独立の旗を揚げる肚だったのだ。だが布施の戦いにおいて晴信は戦線の遙か後方、塩田城に籠城したまま動かず、結局長尾景虎は越後へ撤兵してしまった。
布施における戦いの帰趨は武田の敗亡を望む頼元にとって不満ではあったが、全く闇夜のように真っ暗だった自分を取り巻く環境に一筋の光明を見たような気がした。武田に抗したとき、越後から景虎が進出し、晴信の後背を衝くことに望みを抱くことが出来るようになったからだった。
実際には伊那と越後では距離がありすぎる。頼れば恐らく景虎は断らないであろうが、共同作戦の実を挙げるには連絡に難がある。それでも鬱屈した日々を過ごしていた頼元にとってはこれが武田の支配を脱する絶好の機会と思われたのであった。
頼元は謀叛の心根を密かに嫡男頼康に諮った。
「それがしも同じことを考えておりました」
頼康は逡巡することなく同意した。
次いで頼元は、曾て激しく干戈を交え、今や自らと同様武田の統制に服している座光寺貞信に対し
「大きな声では言えぬが、軍役が絶えんのう・・・・・・」
と愚痴を装い相手の反応を窺った。
頼元の懐には脇差が隠されていた。貞信が少しでも自分の意に沿わない回答をしたならば、即座に刺し殺して口を封じてしまうつもりでいた。「知久頼元に謀叛の心根あり」などと注進されたらそれこそおしまいだからである。
しかし杞憂であった。
貞信は
「そのことでござる」
と前置きしたあと、信濃侵攻の軍役が重なり諸衆の疲労甚だしいこと、その割には手柄を挙げても見返りが乏しいこと、手柄は高遠城主穐山伯耆守虎繁のものとして計上されている疑いがあること等について不満をぶちまけた。
貞信の不満を知った頼元は徐に切り出した。
「さてその虎繁であるが、今は布施における軍役を終えて甲府に出仕しておると聞く。まもなく高遠に帰還するであろうが、我ら叛旗を翻すとなれば今をおいて他にないと考えるがどうか。上手くいけば越後の後詰も期待できよう」
と謀叛を持ちかけた。
貞信は相手が何気なく振ってきた話題が、実は自分から不満を引き出すための呼び水だったことに気付き
「越後は少々遠うござる」
などと言ってはぐらかそうとしたが、頼元から
「では、このまま武田の又被官として一生こき使われるがよろしかろう」
と突き放されると
「待たれよ」
とこれを引き留めた。
貞信は俯きながらしばらく沈黙していた。その額からぼたぼたと脂汗がにじみ出て滴り落ちた。頼元は懐の脇差にてをやった。回答次第ではこの場で刺し殺してしまわねばならなかった。
その頼元の動きを知ってか知らずか、貞信は開けたように
「合力致す」
とこたえた。
頼元はそのこたえを聞くや、脇差を懐から取り出して傍らへ置き
「それがしの意に沿わぬおこたえであれば、この脇差にて貴殿を刺し殺すつもりであった」
と言うと、貞信は
「丁度良い。互いに起請文を認め、血判を捺し申そう」
と起請文提出を申し出た。
かくして知久頼元は蹶起した。伊那衆のうちで武田に反感を抱く者共に呼びかけ、自らの本拠地である神之峰城に兵を招集したのである。