第二章(長尾景虎登場)‐二
一方、村上義清が葛尾城を棄てて越後に遁走したと聞いた晴信は、信繁と勘助の同席を得て越後から帰還した透破衆に
「長尾景虎とはどんな人物か」
と問うた。
「身の丈は五尺余り、痩身で顔貌色白く、女人のようにすら見えるほどです。栃尾城初陣の話もあり、雷鳴のような大音声の御大将かと思っておりましたが、なかなかどうして涼しげな声の持ち主でした」
如何にしてそこまで接近したものか、透破衆は景虎の声音の特徴まで言い当てて見せた。だが信繁は
「そのようなことを聞いているのではない。もっとなにかこう、目新しい政策を実行しているだとか、人心掌握のためにこういうことに気を配っていただとか、他にないのか」
と口を差し挟むと、晴信はそれを制して透破衆に報告を促した。
「よい信繁。余は景虎の全てを知っておきたいのだ。続けよ」
晴信は、景虎がどのような形をして、どのような物を好んで飲食するのか、どんな些細なことでも知っておきたかった。何しろ言葉を交わしたことも、会ったことがあるわけでもない相手だ。これから干戈を交えようという相手でなのである。その癖の一つに至るまで知っておきたかった。
透破衆は晴信に促されたことで気を取り直したように報告を再開した。
「景虎殿はご酒をたいそう好みます」
「どれほど呑むか」
晴信の問いに
「毎晩一升(約一・八リットル)は呑まれます。夜ごと塩や梅干しを小皿に盛り、それを肴にちびちびと時間をかけて呑むやり方でございました。馬上杯などと称する自分用の酒杯を戦場にまで持ち込んでるとか」
信繁と勘助はその話を聞いて、呆れたような笑みを浮かべたが晴信の表情は真剣そのものであった。晴信は聞いた。
「馬上杯の話は噂なのだな」
「噂です。しかし越後では有名な話で、事実と考えてよろしいかと」
「他にないか」
晴信の問いに透破は
「景虎殿は出師に先立ち軍議を開きません。代わりに何日も城内の毘沙門堂に籠もられます」
とこたえた。
何日も毘沙門堂に籠もり続け、やっと出てきたかと思うと突如出師を言い出すということであった。
「群臣に諮らんのか」
信繁が驚いて訊くと、透破は
「見た限り群臣を招いての軍議といったものはありませんでした。景虎殿は重要な事柄は全て独りで決めているように見えました」
と結んだ。
晴信主従の間に沈黙が流れた。
景虎が毘沙門堂に籠もって重要な事柄を全て自分一人で決める、というやり方は、軍議において諸衆に諮り、その意見を聴取して一致した意見の元に軍を動かすという晴信のやり方とは全く逆であった。
「存外に古いやり方の将とお見受けします」
信繁はこき下ろしたが、晴信の評は違うものであった。
晴信は言った。
「余が思うに、世の人には愚者と賢者、そして真の賢者の三種類がいる。愚者は賢者の振りをして分不相応の振る舞いを行い、そこを見透かされるが故に愚者と評される。
翻って賢者は、愚者の振りをして人を謀り、自らの存念を果たそうと考える。他に妨げられることを恐れるから愚者を装わなければならないのだ。
だが真の賢者にはそのように人を誑かす必要がない。真の賢者であるが故に、他から加えられるであろう妨げなど端から恐れてはいないのだ。
余は父を駿河に逐うにあたり、愚者の振りをした。余の家督相続に反対する者共の妨害を恐れたためだ。だが思うに景虎は真の賢者である。毘沙門堂に籠り、全てを独りで決するという遣りようがその事を物語っておる。余のやりようと逆であるからと侮るなかれ。景虎は毘沙門堂に何日も籠もり続け、計策を練り、自らの存念を果たすのであろう。彼の鋭鋒を躱すのは容易ではあるまい」
と言った後、
「これは、相当な強敵かもしれん」
と呟いたのであった。