第一章(和睦交渉)‐三
信有に軍規違犯の故意があったわけではない。彼にとって、戦場において敵の抵抗がないということは、好き勝手に振る舞っても良いということなのであった。これは当代の多くの武士と同じ考え方であり、信有だけの独善的思い込みではなかったのである。
したがって晴信は、これ以上の略奪狼藉は村上との和睦交渉の妨げになると判断した場合には、逐一伝令を郡内衆の陣中に飛ばして「これ以上の前進は不要」とか「分捕品は持ち帰って良いが、拐かした人は帰せ」などと事細かに命令する必要があり、晴信信有双方にとって甚だ窮屈な軍役となったのであった。
晴信は、共に一門衆として家中で重きをなす穴山信友と小山田信有が、自分の真意を汲むことなく好き勝手に行動する様を見て、磯部龍淵斎に
今川殿より一宮殿が遣わされ、去る
七月七日坂木へ派遣したのだが、伊豆守
は大酒を振る舞うだけで話合いは整わな
いし小山田を佐久へ遣っても全く意志ど
おりに動いてくれない。困ったことだ。
などと愚痴を書き送っており、この手紙は現存している。
このように全く思うに任せない村上義清との和睦交渉に業を煮やした晴信は八月、遂に自ら佐久出陣を決意した。晴信は同二十六日には佐久桜井山城に入城し、二十八日には御井立に放火、翌月一日には鷺林に着陣して同四日には平原城を占拠している。武田方の怒濤の押し出しを前に、村上方の佐久支配は危機に陥ったのであった。
このために村上義清は九月十四日、再び武田方の和睦交渉に臨まざるを得なくなった。義清は武田の八月攻勢で失陥した佐久諸城の返還と、武田との恒久和平を望んだ。これに対して武田方は上田原での敗戦と、来たるべき小笠原との戦いを控えているという情勢もあって佐久諸城の返還には応じたが、和平の期間は長時を林城から放逐するまで、と時限を設けることを主張した。
交渉はさして紛糾しなかった。今川の影に怯える義清が、高白斎が示した条件での妥結を早々と了承したからであった。妥結はしたが義清は高白斎に対し
「正直申して不満ではある」
と包み隠さず心境を吐露した。
連年武田の侵入を許している佐久には、既に武田の息のかかった者が多数扶植していた。晴信がその気になれば、武田はいつでも佐久を奪還できるのである。そのことは八月攻勢の結果を見ても明らかであった。
義清は出来れば恒久和平を実現して晴信の北進策を封じたかった。だが当の晴信にその気がないのである。こちらの条件に拘泥して交渉が決裂した後のことを考えると、義清には武田の和睦条件を全面的に呑むより他に選択する途は残されていなかった。
長時が林城を失陥するのは時間の問題であった。義清はその限られた時間内に出来ることを考えた。そう多くはない。小県の前線基地である砥石城の防備を強化することくらいであった。
一方の晴信にとっても、義清との和睦交渉を巡る一連の騒動は先が思いやられるものであった。
塩尻峠においては士気の高い侍衆を選抜して思うさま軍を動かした晴信であったが、この度の交渉を巡っては一門の年長者に強くものを言うことが出来ず、好き勝手な振る舞いを許してしまった。結果として同じことを二度も行わなければならず、少なくない時間を浪費したのである。
晴信にとって幸いだったことは、この一門衆の両名に板垣駿河守のような謀叛の心根がないことであった。要するに悪気なく晴信の足を引っ張ったのである。それは晴信にとって幸いなことでもあり、厄介なことでもあった。
晴信は
(一足飛びに齢を重ねて一門の長者になりたいものだ。そうすればこのような苦労をしなくて済むのに)
秘かに溜息を吐いたのであった。