第一章(和睦交渉)‐二
村上義清との和睦交渉開始が決すると、晴信は穴山伊豆守信友をその責任者に任じた。
信友の妻は信虎次女にして晴信の姉である。また信友自身、晴信より十五ほども年長で、他国との交渉に際しては棟梁たる晴信の意志を代弁する者として他国に認識される立場にあった点がこの人選理由の一つにまず挙げられた。さらに信友率いる河内衆は主に伊奈方面での軍役に従事していたので、北信諸衆との遺恨がない点においても交渉責任者として適当と考えられた。
晴信は信友に対して
「今回の村上との和睦交渉においては、我が意のあるところをよくお伝え下さい」
と申し含めた。
晴信がこのように謙ったものの言い方をしたのは、棟梁といえども一族の年長者に対しては辞を低くして依頼する形をとるのが常識だったからである。
こういった経緯で責任者に任じられた信友であったが、しかし和睦交渉に先立ち村上方全権と酒席を開いた際、自らも強かに痛飲し熟柿のような顔をしながら寝込んでしまったのであった。更に坂木に赴いてからも、交渉に伴う酒席で
「累年干戈を交えた相手と、このように酒宴を開くことはまことに愉快である」
と真っ赤な顔をしながら大酒をあおり、あまつさえなれなれしく義清の隣に座して自らの領内から持参した酒を勧めた。
信友に悪意はなかったが義清近臣は
「我が主に毒酒を呑ませるつもりか」
と色めき立ち、あわや斬り結ぶかという狂態を演じて交渉は一旦御破算となった。
義清は坂木を発つ信友一行を見送る際、駒井高白斎に
「あのような狂騒の者を差し越されて、晴信殿はまこと当家との和睦を成立させるおつもりがあるのか」
と皮肉を飛ばしたほどである。
晴信は一旦頓挫した和睦交渉の席に再度義清を引き摺り込む必要から軍事行動を再開せざるを得ず、郡内衆の小山田信有を佐久に出陣させた。
信有は、父信虎期に武田に与した甲斐有力国人であるとともに、武田と姻戚関係を有する御一門衆でもある。去る天文十六年の志賀城攻めの際にも佐久方面で活躍したので、地理にも詳しいことが信有出陣の主な理由であった。
晴信は出陣前の信有に対して
「この度の佐久出兵は、村上義清を脅かして和睦交渉開始席に引き摺り戻すためのものでありますゆえ、敵頸を過剰に討ち取ることは不要です」
と下命していた。
信有もそのあたりは心得ていたので
「左様に謙ったものの言い方をなさらずとも良うございます。何事も屋形の意のままに」
と応じたので、晴信は安心して佐久出陣を見送ったのであるが、一旦戦場に出てしまえば信有は草の根まで引き抜かんばかりに諸方を荒らし廻り、略奪して廻ったのであった。