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武田信玄諸戦録  作者: pip-erekiban
第一章
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第一章(塩尻峠の戦い)‐二

 軍議によって諸衆一致の結論を見た甲軍であったが、七月十一日に甲府を発してからの行軍は遅々として進まなかった。

 諏方を席巻して甲軍による後巻うしろまきを手ぐすね引いて待ち構える小笠原長時以下仁科道外、矢島満清などは、歩みが滞る甲軍の様子を知って「武田は戦意を喪失した」とか、「いや、裏切り者が出たに違いない」等と噂しあった。その陣中には油断が蔓延し、総大将として弛緩した軍規を引き締めるべき小笠原長時にしてからが

(このまま戦わずして武田が自壊してくれたら、無駄な犠牲者を出さずに済む)

 と考えるようになっていたが、それも無理からぬ話ではあった。

 晴信は甲府発向後、既に八日間も甲信国境の大井森に布陣したまま動かなかったからである。甲軍は、甲府から僅か一日の距離に位置する諏方にすら到達していなかったのだ。

 勝利を確信した長時の関心は、戦後の知行割ちぎょうわりのことへと傾いていた。長時は仁科道外及び矢島満清にそのことを諮問すると、矢島が諏方大社大祝職を望んだことは長時の想定の範囲内であったけれども、道外が諏方領の過半を望んだことは驚くべきことであった。

 長時は最初、道外の希望するところ冗談だと思ってろくに取り合わなかったが、道外は尚も食い下がって諏方領過半の知行宛を望んだので、しまいに長時も怒気を発しながら

「この度の戦勝は仁科殿独りで成し遂げたものではない」

 などと、甲軍を撃砕したわけではないにも関わらずそれを前提にしながら激昂して

「ご不満なら陣を離れられよ。当方はそれでも一向に構わぬ」

 と吐き捨て突き放した。

 いくら望んでも叶わぬとみた道外はこれ以上の布陣に意味はないと考えるようになり、引率してきた一族諸衆を連れて本当に離陣してしまったのだった。

 だが長時は

「仁科如きなくしても味方の勝利疑いなし」

 と飽くまで強気を崩さなかった。したがって仁科が去り味方の諸衆が数を減じ、うすら寂しくなった陣中にあっても、長時は尚も強気に構えてろくなそなえもしなかったのであった。

 弓馬の術に長け、諸侯に抜きんでた勇猛心を持つ長時であったが、個人的武勇と人を使う術に長けていることとは別物であった。長時は、たとえば甲軍の陣中に手の者を放ってその動向を探らせるということがなかった。彼はただ、晴信が甲斐国内に陣取ったまま何日も動きを見せないという目に見える事実のみを拠り所にして、甲軍は小笠原による侵攻に怯え自壊しつつあるという自分の希望するところのみを信じたのであった。なので長時は、甲軍の陣中が道外の離陣後、俄に活気づき、慌ただしく陣布礼じんぶれが出されている状況を全く把握していなかった。

 同じころ晴信は、麾下諸衆に矢継ぎ早に指示を下していた。

「軍は二分する。別働隊の大将は典厩信繁とする」

かくそなえのうち徒士かち侍以上の士分しぶんは典厩率いる別働隊に加われ」

「別働隊の騎馬侍は乗馬にばいを含ませよ」

 別働隊の将に任じられた典厩信繁は俄に発せられた陣布礼を不審に思い、

「選抜した士分のみでは数で小笠原に劣りませんか」

 と懸念を表明すると、晴信は

「劣るであろうな」

 とこたえたあと、

「だが、劣るのは兵数だけだ。兵の練度は数の上での劣勢を覆すに余りある。何次にはこれより別働隊を引率して敵の布陣する塩尻の峠に出張ってもらわねばならん」

「心得ております」

「余は、軍役衆が連れ来たった小者や中間ちゅうげん指物さしもの衆が、急ぐ士分の足手まといになることを危ぶんでいるのだ」

 晴信は勘助が仕官の面接の際に言い放った「甲軍はまるで蟻の群れのようだ」という指摘を図星だと思っていた。これまで甲軍は――信虎の代からそうであったのだが――将の個人的武勇で戦勝を重ねてきた。その代表が板垣駿河守であり、甘利備前守であった。その両名が亡き今、同様の存在をあてにするわけにはいかなかった。晴信はまた、そのような個人技に頼る戦いを今後にわたって繰り返すことは、甲軍が蟻の群れから統制の取れた軍隊に変容するうえで妨げになるに違いないとも考えていた。したがって晴信は、本戦役において練度が高く士気の旺盛な士分のみによって統制の取れた別働隊を急遽編成し、これを優勢な敵に差し向けようと考えたのであった。信繁は晴信の思惑を聞いて

「ではそれがしは、しかと諸衆の働きを見定めなければなりませんな」

 と即座に応じた。

 騎馬侍は引率してきた雑兵の働きを見届け、それを査定する任務も帯びている。その騎馬侍自らが鑓を振るうのであるから、別働隊将である信繁の任務はそういった騎馬侍の働きを見届けることであった。これを疎かにして不平不満が残るような論功行賞に及べば、家中に遺恨を残しかねない。

 信繁の回答は、普段騎馬侍が担っている任務を自分が果たさなければならないこと、また晴信の弟である自分こそがその任務を果たし得る立場にあることを、彼が瞬時に理解したことを意味していた。

 なので晴信は、

(やはり、余のこころざしを遂げるには信繁の存在は欠かせない)

 と改めて思ったのであった。

 信繁は参集した侍共に晴信の陣布礼の意図するところを伝達した。彼らは彼らで、その陣布礼を不審がっていたからである。

 夜襲するに備えて馬に枚を含ませることはよくある話だ。だが寄親寄子問わず、そのうちから徒士侍以上の士分を選抜して一隊を編成するなど、歴戦の彼等にとっても初めてのことであった。

 聞いたこともないこの陣布礼に、軍役諸衆は戸惑った。自らの小者、中間、指物衆を率いて参陣している彼等には、麾下の兵が戦場でどのような働きをしたか見極め、寄親にその手柄を具申するという仕事もあったからだ。だが彼等は、士分のみを以て構成される別働隊に編入されることによってその義務から一時的に解放されたのである。討ち取った敵頸の数が自分の手柄に直結するのだ。最初は数の上で優勢な敵に斬り込むと聞き尻込みした彼等であったが、やがてその事に気付き士気が高揚した。

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