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武田信玄諸戦録  作者: pip-erekiban
第一章
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第一章(上田原の戦い)‐五

「上条織部、板垣駿河守を討ち取ったり!」

 信方の首級を挙げた村上方の侍の大音声だいおんじょうは戦場を伝播でんぱして晴信本陣にも届けられた。

 板垣戦死を知っても、だが晴信には安堵しているいとまはなかった。勢いに乗った村上勢が続々と本陣付近に姿を現していたからである。それは点でばらばらという印象ではなく、統制の取れた一隊として晴信の目の前に現れた。戦勝に奢って我先に手柄を争う様子がない。鑓の穂先を揃え、横隊おうたいを保ったまま整然と押し出してくる。要するに隙がない。

 一方の甲州勢は、家中に武名を轟かせた板垣駿河守の戦死を聞いて明らかに浮き足立っていた。敵勢に討たれ、或いは戦域から脱して一人また一人、くしの歯を引くように数を減じていく。

 義清は自ら旗本衆を率いて甲軍を襲撃した。崩れ立つ甲軍の背後を襲い、阻む者がないと確信した義清は騎馬を一層励まして、晴信本陣がそこに在ることを示す割菱わりびしの旗が視認できる距離にまで接近したその時である。壊乱し脆くも崩れたってゆく他の部隊とは、明らかに抵抗の度合が異なる一隊と遭遇した。

 その敵部隊は白地に赤胴の旗印を掲げ、長柄を斜めに構えて槍衾を築いていた。仔細しさいに見れば諸人鑓の石突いしづきを地面に押し立てているので、少し押した程度ではこの一隊を打ち崩せそうにないと直感した義清は迂回して、別方面から晴信本陣を狙った。すると今度ぶつかった白地に山道の旗印を掲げる別の一隊も、先ほどの部隊と同様槍衾を構え、義清の猛進を阻んだのである。

 義清はこれまで自領に流れてきた諏方、高遠或いは佐久の敗残兵から甲軍の様子を聞いて、「個々の武力は抜きんでているが付和雷同し統率が行き届いていない」という弱点を知っていたので、この戦役において甲軍前衛板垣駿河守を撃砕した以上、甲軍はろくな抵抗も示さず壊乱し、主君晴信を見捨てて敗走するに違いないと考えていたところ、案に相違してこの強力な二隊に遭遇したことから甚だ戸惑いを感じたのであった。

 晴信は味方二隊が防戦に努めている間に戦域を離脱した。

 晴信は村上勢による甲斐府中侵攻を防御すべく、本戦で戦死した甘利備前守虎泰の子昌忠に対して手勢を率い甲府に出仕するよう下命した。昌忠は速やかに従い、甲府防衛の軍を出動させて晴信より賞されたのであった。


 余談であるが、同じく父を失った板垣信憲は、父の戦死後その名跡を次いで武田家中の最高責任者である両識りょうしきの一を担うこととなったが、勤めに身が入ると言うことは遂になかった。

 信憲は信濃において一旗ひとはた挙げた父の後継者となることを当然のことのように考えていた。

 それが一転、父の戦死によって武田の被官として一生を終えることが確定的となったのだから勤めに身が入らないのは当然の成り行きであった。信方は父のように、内心晴信を軽んじ、出仕を懈怠けたいするようになった。采配の方は父に遠く及ばなかった。

 やがてその悪しき心を見透かさ、晴信によって甲斐長禅寺に押込おしこめとなり、将来を悲観して自ら腹を切ったとも恨みを抱く者に生害しょうがいされたとも伝わるが、それは本戦役の九年後、弘治三年(一五五七)のことである。


 ともあれ信方を除くことに成功した晴信であったが敗戦には違いない。腹背常ない信濃諸衆がこれを契機に晴信に叛旗を翻すことが容易に予想された。そのため晴信はしばらく甲府に軍を帰さず、在陣は二十日間に及んだ。

 ようやく甲府へ帰ったのは、晴信が母大井夫人より帰府を促す手紙を受け取ったからであった。

 晴信は表面上、戦死した板垣駿河守の碑を建立するなどしてその死を惜しむかのような態度を示したが、謀略により宿老を除いたことを家中衆に勘付かれないための狡知こうちに基づくものであった。


 甲軍を破り破竹の進撃を続けていた武田を止めたことで、義清の武名は大いに上がったが、義清は戦場において俄に出現した頑強な二隊によって晴信に決定打を与えることが出来ず、晴信本人に二箇所の浅傷あさでを与えたものの戦場からの遁走とんそうを許してしまったことを後に激しく悔いることとなる。義清は戦後、武田家中に詳しい者を召して、上田原で出くわした強力な甲軍二隊の旗印をそれぞれ説明し、それが何者だったのかを問うと、彼は

「白地に赤胴は工藤源左衛門尉祐長の旗印で、祐長は信虎の勘気を蒙り武田家中を追放された工藤虎吉の子である」

「白地に山道の旗印は馬場民部少輔信春で、元は教来石きょうらいし景政と名乗る小身の侍であったが、近年晴信に見込まれて馬場の名跡を継いだ者である」

 と回答した。

 いずれも他国に聞こえる大身の将とはいえなかった。聞いたことのない名前であったが、義清はこの両名が存在するという一点において、これまでの甲軍に対する認識が間違いなのではないかと疑い始めたのであった。

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