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武田信玄諸戦録  作者: pip-erekiban
第一章
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第一章(小田井原の戦い)‐三

 信方は佐久小田井原に陣取る西上野衆を前にして全身の血が沸き立つ如く武者震いした。

 未だ両陣営は二三町(約二二〇メートルから約三三〇メートル)は離れており、到底敵兵の顔貌を視認できる距離にないはずであった。

 だが信方には敵兵の瞬く様や頬を伝う汗の一滴に至るまでがはっきりと見えた。見たこともないはずの鳥の視点を以て敵陣を見下ろし、その布陣する様を手に取るように見渡すことすら出来た。

(いつもと同じだ)

 そう確信した信方は、馬上から前進の采配を振るった。板垣手勢は並足で進む大将の歩速に合わせ、塊となって押し進み始めた。敵陣から放たれた矢弾がまばらに着弾し、味方の兵を打ち倒し始める距離にまで接近すると、そのうちの一本が信方目がけて飛来し、反射的に躱した矢が信方の兜の吹き返しに命中したが、信方は進むことを止めなかった。

 それこそ互いの表情、一挙手一投足に至るまではっきりと確認できる距離にまで近づいたとき、信方は

「かかれ!」

 と大音声だいおんじょうを発しながら自ら鑓を振るい敵陣中に一の鑓を入れると、後続の麾下将兵はそれを合図にどっと上州勢先手に躍り掛かったのである。

 細かい采配などはもはや関係がなかった。信方麾下はただ敵中に乗り入れる大将の後に続いてその目の前にいる敵兵をなぎ倒していけばいいだけの話であった。突出した板垣勢に負けじと、帯同した甲軍各将も一斉に上州勢に打ち掛かる。数の上で優勢だった上州勢は、猪突する甲軍を前に次第に押され、一人また一人と武具や指物を棄て戦場から退いていった。

 多数が背を向けている一隊を発見するや、信方はその隊目がけて馬を飛ばし背後から突き掛かる。するとその敵部隊は恐慌を来し、踏み止まって戦おうという者を飲み込んで蜘蛛の子を散らすように壊乱した。別の上州勢一隊は、隣に布陣する味方部隊がにわかに崩れ立った様を目の当たりにして、その恐慌が伝播でんぱしたかのように浮き足だった。更に、先手が崩された様子を見た上州勢本陣からも脱走兵が続出し、あっと言う間に関東管領軍の敗勢が定まったのである。 

 あとは殺戮だけであった。

 いつもならば崩れ立った敵勢を深追いしない信方も、この日ばかりは追いまくって一つでも多くの敵頸を獲ることにこだわった。それは、多数の敵頸を持ち帰ることによって手柄ある者を多数輩出し、戦後晴信による知行宛行ちぎょうあてがいを困難たらしめんという策謀に基づくものであった。この戦役で切り取った志賀城周辺の領域では到底賄いきれないほどの手柄を挙げ、知行宛行に窮した晴信の権威を失墜させようという策謀であった。

 したがって、案に相違して敵方を大いに破り、抱えきれないほどの敵頸を持ち帰ってきた信方を、晴信は言葉の上では激賞したのであるが、その手柄の裏に信方のいやらしい策謀があることを敏感に嗅ぎ取り、前後の知行宛行のことも考えずに三〇〇〇もの敵頸を討ち取って「目にも身よ」と言わんばかりの老将に対して

討死うちじにどころか勝って帰ってくるとは恐るべき武力だ。しかも厄介なことをしてくれた)

 と非常な不快を感じていた。

 その怒りの矛先は志賀籠城衆に容赦なくぶつけられた。

 晴信は信方が持ち帰った敵頸を志賀城周辺に並べ立てた。籠城衆は上州に縁者を持つ者も多かった。そういった者は並べられた頸の中に自らの親戚のそれを発見し、上杉による後巻は敗れ去りもはや救援の見込みがないことを悟って

「この上は一同死兵と化して討って出るべし」

 と決した。

 晴信は信方に対する鬱憤を散じる心持ちもあり、これら討って出た志賀城兵を蟻の這い出る隙もない包囲陣の中に囲い込み、自軍にも多数の死傷者を出しながら全滅に近い打撃を与え、城将笠原清繁を切腹に追いやって遂に志賀城は陥落したのである。

 晴信は城内の残余の兵やその妻子等を甲府に連行し、奴婢ぬひとして一人二貫文から十貫文で売り飛ばした。その収益を手柄のあった者に分配するための窮余の策である。武田家中の矛盾を解決するための戦争相手に選ばれた志賀城兵にとってはとんだ迷惑であった。郡内衆小山田信有などは、城将笠原清繁未亡人を自らの妻に望み、これを自領に連れ帰っている。夫を喪い自らの意志も関係なく拐かされた清繁未亡人の悲嘆、察するに余りある。

 知行地不足を補うためとはいえ、かかる苛烈な処置は城を脱出した数少ない志賀城兵生き残りの者によって北信村上義清等晴信の敵対勢力にもたらされ、武田による信濃経略に大きな禍根かこんを残すことになる。

 信方排斥の策が不発に終わった勘助は、晴信に謁してその不首尾を詫びた。

「信方様の武威を見誤りました」

 頭を下げる勘助に、晴信はにこりともせず言った。

「この度の戦勝により信方の武名は家中において不動のものとなった。もはや一刻の猶予もない。次で必ず仕留めよ」

 晴信の冷厳な言葉を聞いて、勘助の背中に見る見る汗染みが広がっていった。

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