第一章(於福入輿)‐一
「私は参りません」
再興された上原城西曲輪に建つ館の一室で、於福がそう発した。何者にも屈しないであろう、強い口調であった。諏方攻略戦の過程で晴信に降った諏方満隣や実母麻績未亡人が入れ替わり立ち替わってその利のあるところを説いても、於福の意志は一向に傾く気配がなかった。甲府からの使者を待たせているので、説得に当たる二人が必死ならば首を縦に振ろうとしない於福もまた必死であった。凍てついた諏方湖面にうっすらと降り積もる雪のように白い於福の顔は、このときばかりは屈辱のためか真っ赤に染まり、果ては
「強いて婚姻というならこの場にて自害します」
とまで激情を発したので、麻績夫人も満隣も遂にこの日は説得を諦め、武田の使者に帰府を願わざるを得なかった。於福がここまで激情を発するのも無理のない話であった。父頼重を滅ぼした武田家から、親の敵である晴信との婚姻の申し出を受けたからである。
晴信の思惑は明快であった。頼重の死を契機にして途絶えた諏方惣領家、大祝職の継承者を、晴信と於福との間に生まれた男児に継がせようというのである。そうすることによって武田による諏方支配はいよいよ盤石のものとなり、両家の紐帯がより一層強まろうというものだった。
諏方衆からすれば晴信が諏方大社の実質的庇護者として君臨している以上、その申し出を断ることは不可能であったし、何よりも両家の血を引く男児が惣領家を継承するというのであれば、将来にわたり一族の安寧は約束されたも同然なのであるから、悪い話ではなかった。
激情家特有の怜悧な頭脳を持つ於福には、そういった両家の思惑が透けて見えた。於福にとって晴信は間違いなく父の敵なのである。女とはいえ武門の一族に生まれた以上、父の敵をと秘かに思い詰めていたところに、仇討ちの先陣を切るべき満隣やそれを後押ししなければならない立場にある母麻績未亡人等の眷族が、あろうことかこぞって武田に与し、晴信との婚姻を勧めてきた事態が於福を孤立させ追い詰めた。
孤立はその心を一層頑ななものとした。
一族諸衆が「於福様は何故利のあるところを分かってないのだろう」と苦慮している同じ頃、於福は於福で「一族は何故仇討ちの軍を起こしてくれないのだろう」と思い悩んでいたのである。
躑躅ヶ崎館大広間にて、来たるべき高遠攻めに向けて招集された晴信麾下諸将は婚姻受諾の返事を得られぬままに帰府した使者の口上を聞き
「諏方の姫にとっては父の仇なのだ。無理もあるまい」
「寧ろ良かったではないか。御屋形様はご執心だったようだが、相手が断るというのであればそれ以上輿入れを強いるわけにも参らんからな」
「左様、褥にて寝首を掻かれる心配をせずとも良い」
等と異口同音に申し立てているところへ、晴信が広間に現れたのである。使者の口上を聞いた晴信は
「余は諏方との紐帯を重視しておる。諏方の支配さえままならんのに、信州を領することなどできようか」
なおも於福との婚姻を望み、
「勘助、汝はどう考えておるか」
と訊いた。家老衆がこぞって反対意見を表明していたなか、晴信は賛成意見を陳べてくれるであろう勘助の意見を求めたのである。勘助は
「両家発展のためにも於福様のお輿入れは実現あるべし」
と晴信の期待どおり賛意を示したので、晴信は重ねて
「では勘助、汝を上原に遣わしたとして、来たるべき高遠攻略戦より前に姫を説得できるか。余は本年中にその軍を起こそうと考えておるのだが・・・・・・」
と問うと、勘助はこたえた。
「たとえ御婚約が成立したとしても、それがしは頸を賭けることになりそうです」
晴信は
「説得に失敗して腹を切るというなら分かるが、成立しても頸を賭けるとはどういうことか」
首を傾げた。居並ぶ諸将は「また勘助の大言壮語が始まった」とばかりの表情である。勘助は言った。
「姫を口説き落とすにはそれほどの覚悟を以て臨まなければならないという、ものの喩えでござる」
とはぐらかしたのであった。




