終章(七)
もう一つ守られなかったのが
「我が骸に甲冑を着せて諏方の湖に沈めよ」
という遺言であった。
俗説では死没直後、信玄遺骸は駒場村或いは浪合において荼毘に付されたなどとされるがそれは正しくない。亡骸は諏方湖に沈められることも荼毘に付されることもなく、勝頼や重臣達とともに躑躅ヶ崎館に帰還して、府第の一角にある塗籠に安置された。
出陣前に信玄が予感したとおり、生きて再び居館に還ることは出来なかったわけである。
天正三年(一五七五)四月、信玄の三回忌法要が躑躅ヶ崎館で執行されたが、この様子が内外に公開されることはなかった。
「死後三年は喪を秘すこと」
その遺言に従い、近親者や一部の重臣達によってごく小規模に躑躅ヶ崎館内で執り行われたに過ぎなかった。
野辺送りの葬列は、躑躅ヶ崎館の敷地内をうろうろと歩いただけであった。
本来野辺送りというものは、死者の棺を抱えて諸方を巡り、立ち止まっては回り道をすることで、死者の魂が再び現世に迷い出ることがないようにするための儀式である。
だがこの時執り行われた法要では、野辺送りの葬列が府第の敷地内を出ることはなく、信玄の遺体は壺中に収められ塗籠に安置されたまま執り行われた。葬列を行く龕(棺)の中に、信玄の亡骸は入っていなかったのである。
喪主として形ばかりの野辺送りを歩く勝頼の脳裡に一瞬、ふと或る考えが過ぎった。
(このようなやり方では、父の霊魂は府第に止まり続けるのではないか)
そういった考えが過ぎったが、勝頼は強いてその考えを振り払った。
既に織田徳川との決戦を内に布礼て、無二の一戦を決意していた勝頼に、死者の霊魂の所在を気にかける余裕などなかったのである。
亡父の三回忌法要を終えた勝頼は、手練の軍役衆一万五〇〇〇を引率し、同月中に北三河攻略を目ざして甲府を発向した。だがその一軍に、信玄在世当時の団結はなかった。
重臣の内、最後まで長坂、跡部とのわだかまりを解くことが出来なかった内藤修理亮昌秀は、北三河長篠城攻略へ向かう陣中、既に生還を期してはいなかった。彼はただ、間近に迫った大戦で華々しい戦死を遂げ、冥土において旧主信玄に再びまみえて、御家に忠節を尽くした上での自らの最期を信玄に報告すること、そして生前の信玄より得た称賛の言葉を再び賜ることのみを目標にしていた。
山県三郎兵衛尉昌景もまた同様であった。
(勝ち味の薄い戦いで死闘することこそ、主に対する諫言となるのだ)
長篠城に向け行軍中の昌景の胸に、砥石崩れの敗戦の中、殿軍をつとめ戦死した横田備中守高松の遺訓が去来していた。横田備中と同様の運命が自分にも迫っている、と秘かに昌景は考えていたのである。
馬場美濃守信春は既に敗戦を予感し、大崩れするであろう味方を如何にして救うか、その算段を頭の中で必死に組み立てていた。信春の頭には
(信長を討ち取ろうと思えば、他国に出て討つ必要はない。能う限り信濃の領国深く引き込み、諸人一致団結して一撃を加えよ)
という信玄遺言がこだましていた。
信春は信玄遺訓に従い、戦勝の勢いのまま追撃してくる信長を伊那方面に引き込んで、難渋するであろうその一団の退路を塞いだ上で撃滅することを考えていた。
(その戦術や良し。では、自分は如何に身を処するか)
そこへ考えが至ると、信春もまた他の重臣と同様、その殲滅戦の中で華々しく散って、先主より賛辞を賜るということを考えていた。
原隼人佑昌胤や土屋右衛門尉昌続、真田信綱昌輝兄弟等主だった重臣達も皆似たり寄ったりの考えを秘めていた。先代信玄の薫陶を受けた重臣層にとって重要なことは、当代勝頼に忠節を尽くすことではなかった。彼等は先代の遺言が破られたということ自体に、多かれ少なかれ不満を抱えていたのである。
越後上杉に対する抑えとして北信海津城に残置されていた高坂弾正忠昌信も既に敗戦を予感し、
「どうにかして御先代の遺訓を後世に伝えなければならない」
と焦慮していた。
昌信は自身の甥春日惣次郎と家中衆大蔵彦十郎を召し寄せた。文盲だった自身に代わって、この二名に信玄遺訓を口述筆記させたのである。昌信は信玄の口から語られた言葉を一つひとつ思い出し、ときにその言葉に感涙を流しながら語った。
武士たる者の心構えや人の使いよう、軍法の詳細から治世の経綸に至るまで、信玄の言葉を借りて、まるで、勝頼に、或いは長坂跡部両名に語りかけるかのように口述した。年次の詳細になど拘泥している暇はなかった。兎も角もその遺訓を後代に伝え、武田家の守りとすることだけが執筆の動機だったからである。
後世、これが「甲陽軍鑑」と銘打たれ、武士の教科書としてもてはやされるなど、昌信には知る由もなかった。
情勢の変化を看破して信長に対する決戦を決意した勝頼もまた、知らず知らずのうちに信玄の霊に取り憑かれていた。
本戦に勝利して内憂外患を一挙に解決し、
「余の死後、一度は必ず帝都に攻め上るようにせよ」
という遺言を実現しようと考えていたのである。
だが、その野心が果たされることはなかった。




