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武田信玄諸戦録  作者: pip-erekiban
終章
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終章(一)

 内外に上洛を喧伝し、三遠及び東濃で猛威を振るった甲軍は斯くして北へと転じた。これはあまりに唐突であったから、各地の諸大名は

「信玄の身に何かあったのではないか」

 とその死を疑い、或いは重病を疑った。

 武田と上杉に両属していた飛騨の江間輝盛は、早速上杉家重臣河田豊前守宛に信玄死亡疑惑を報じた。実に信玄死去の僅か十三日後、四月二十五日付の書状である。武田首脳部が秘匿に努めたにもかかわらず、かなり早い段階でその死が疑われるほど甲軍の撤退は不自然であった。

 上杉謙信は江間輝盛からの報せを聞くや、

「吾れ好敵手を失へり、世にたこれほどの英雄男子あらんや」

 と食事の箸を落とし、落涙しながら嘆じたという。また領内に服喪を布礼ふれて、その期間は楽器の演奏を禁じたり、

「今こそ武田攻めの好機」

 と勧める群臣を

「勝頼風情にそのようなことをしても大人げない」

 と退けた、という逸話が遺されている。

 しかしこれらは江戸時代に成立した「日本外史」を典拠としたもので信用に値しない。この段階では信玄死去は疑惑でしかなく、謙信が領内に服喪を布礼るほど確度の高い情報を持っていたとは考えられないからである。

 なにしろ弥彦神社に「武田晴信悪行のこと」と題する願文を捧げ、信玄による信虎追放劇や信州攻略を口を極めて罵った謙信である。おおっぴらではないにしても、その死を喜んだのではないか。

 また謙信は、信玄が上洛の軍を起こしたと聞いた際、重臣に宛てて

「信玄運の極みか」

 と書き送ってもいる。東海地方において泥沼の戦線に足を踏み入れた信玄を、背後から嘲う謙信の姿が目に浮かぶ内容である。

 上洛戦を契機として武田の目が南方に向くことは、越後にとって国防上好ましいことであった。武田攻めの建議を退けた、という出来事が事実あったとしても、それは逸話にあるような

「大人げないから」

 などという理由からでは決してなく、今後にわたり甲濃の抗争が継続することを期待してのものだっただろう。

 信玄義信間の離間策をきっかけとして三国同盟を瓦解に導き、その帰結として武田を南進策に転じさせた謙信の知謀こそ当代随一であった。


 上洛戦に当たり、友誼の証として援兵二〇〇〇を送り込んでいた北条氏政の許にも、信玄死去の風聞が流れ込んできた。

 甲軍の快進撃を間近に見ていた国内軍役衆からの復命を得た氏政は、その情報の一つひとつが信玄の死を示唆しているように思われてならなかった。

 氏政は病と称する信玄に見舞いの使者を遣って真偽を確かめることにした。同盟国からの見舞いの使者という名目ならば、これを断ることは出来ないであろうという底意地の悪さが透けて見えるやりようである。

 勝頼は信玄遺言で

「必ず裏切る」

 と予言された氏政を欺くために、叔父の逍遙軒信綱を信玄影武者に仕立てた。

 信綱は部屋を薄暗くして簾を垂らし、直近に近づけることなく北条からの使者板部岡(いたべおか)江雪斎(ごうせつさい)を迎えた。低くしわがれた声と御簾の奥に見える陰影は、江雪斎が以前面会したことのある信玄そのものであったという。江雪斎はまんまと騙された。主君氏政に信玄生存を復命し、かえって北条家中を混乱させている。

 

 勝頼は、信玄花押を据えたくだんの判紙を活用して、各地の大名に宛て信玄勝頼連署の文書を発給し、信玄生存を懸命に演出していた。その上洛を待ち侘びる京畿周辺の諸勢力との連携を保とうと必死だったのだ。

 信長に敵対する勢力は、武田から送られてきた

「篤い病に臥しているが、平癒すれば再び上洛の途に就く」

 という書状に一喜一憂したことであろう。

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