第四章(上洛の夢――或いは妄執――の果て)‐一
甲軍は長篠城を北に向けて発向した。
確かに長陣ではあった。昨年の十月に甲府を発向して以来、三遠東濃に転戦すること一五〇日に及んでいた。だがその分、軍役衆にとっても得るところの大きい戦役であった。今を遡ること十八年前に犀川で長尾景虎と対陣した二〇〇日は、領土、分捕品その他、何ら得るところがなかったが、今回は連戦連勝で領土を大幅に拡張することが出来たし、得た分捕品も多数に上っていた。日数も犀川の対陣と比べればまだ余裕のあるものであった。それが突然帰国を命じられたのである。
その理由を知る由もない末端の侍たちは、もはや陣を組んで敵に当たる必要もなく私語を禁じられることがなかったので、口々に
「大方、目的を達せられたということなのであろう」
とか
「ひと月ほど休んで、再び出陣が告げられるに相違ない」
と噂し合っていた。
帰国の隊列の中にあって、ひときわ厳重に守られた本陣の、更に中心部に、信玄の姿はあった。泰然として馬上に揺られるその姿は、信玄そのものであった。何も知らされてはいなかった諸衆は
「戦勝を重ねられ益々軒昂」
とその姿を仰いだが、これは信玄ではなかった。味方の目をも欺く、信玄実弟逍遙軒信綱であった。
誰もが信玄ここにありと信じた本陣の遥か先に、従者数名と駕籠引きに守られた乗物が、信濃の山々を見渡す道を行く。これこそ信玄が座乗する乗物であった。
帰国の途次すがら、乗物の中で揺られていた信玄の頭脳からは往時の明晰さは既に失われていた。引き戸の垂れから差し込む微かな光が、信玄には夢とも現実ともつかなかった。
不意に、昔よく聞いた懐かしい声が聞こえてきた。
「諦めて御帰還召されるか」
「勘助か」
「左様でございます」
「久しいのう」
「久しいのう、ではございません。数多人を殺しておいて、上洛もせず諦めて、のこのこ御帰還召されるのかと聞いております」
「寿命が尽きようとしているのだ。地獄で待て。鬼にでも打ち据えられながら、そこでゆっくりと話をしよう」
信玄が呟くと、山本勘助の声はそれ以上聞こえてくることはなかった。
信玄は道中、同じような幻聴を何度も耳にした。その中には典厩信繁の声もあった。
「兄上は西上を諦められるか。それがしの死を無駄になさるおつもりか」
信繁は信玄を詰った。
「信繁か。何故死に急いだ。汝が生きておれば今ごろ・・・・・・」
今ごろ、このような病に蝕まれることもなかったであろうに、と叫びたい気持であったが、呼吸もままならず声も出ない。信玄が何事か発しようと口の中でもごもごするうちに、信繁の気配は消えていた。
次に聞こえてきたのは三条の方の声であった。その声は、前二者にも増して怒りに満ちたものであった。三条の方は、義信に先立たれ、二年前に失意のうちに亡くなっていた。
「義信殿を弑してまで天下を求めた結果がこれですか」
「仕方がなかったのだ。余は間もなく地獄へ参る。それを以てせめてもの慰めとせよ」
聞こえてくる声は全て幻聴のはずであったが、どれも信玄の抱える暗部を衝いて鋭かった。
もし今、於福の声が聞こえてきたら、あれはどう自分を詰るであろうか。信玄はそれを思うと、戦慄を禁じ得なかった。於福は絶対に自分を赦すことはないだろう。信玄は確信を持ってそう断言することが出来た。




