第四章(長い遺言)‐二
ここまで言うと、信玄の言葉が詰まった。義信のことを思い出したのだ。病は義信との軋轢の中で信玄の中に生まれ、静かにその臓腑を蝕んで、今や手のつけようがない信玄最大の敵にまで成長してしまったのである。
もし義信があの時、駿河攻めに賛同してくれていたら、自分の寿命には今少しの猶予が与えられていたはずだという想念に、信玄は囚われた。そういった想念に囚われ始めると、たとえここで寿命が尽きたとしても、義信が今この場に存命であれば、引き続いて上洛の軍を引率し、我が望みを叶えてくれたのではないかという考えか脳裡を過ぎったのである。
それはもはや考えても仕方のないことであった。考えても仕方がない想念に囚われている自分を情けないと思った途端、病床に臥する信玄の目尻から涙が一筋流れ落ちた。諸将には、その涙の理由が、上洛の夢を果たすことなく帰国の途に就かざるを得ない悔悟に起因するもののように見えた。
信玄は浮かんでは消える想念を強いて振り払い、続けた。
「甲府に帰着すれば余の書斎にある硯箱を開けよ。余の花押を据えた判紙(白紙のこと)八〇〇枚を既に準備しておる。他国への書状はこれに勝頼花押を並べて据え、送るが良い。諸敵の目を欺くことが出来よう。
四郎勝頼に申し付ける。
家督は我が嫡孫信勝に譲ることとする。ただし信勝幼年ゆえ、汝がその陣代を務めよ。勝頼に孫子旗、将軍地蔵旗、八幡大菩薩旗の使用は認めぬ。大の旗をこれまでどおり使用せよ。諏方法性兜の着用は認めるが、信勝元服の後はこれに譲れ。法華経の母衣は典厩信豊に譲る。
そうだ。典厩信豊、穴山信君は近くにあるか。
二人は余が頼みにしている者ゆえ、余亡き後は勝頼を屋形と思いよく盛り立てて欲しい。
七歳ではあるが信勝のことを信玄のように重んじて、十六歳になれば家督に据えよ。
余の葬儀は無用である。三年後の命日に、余の骸に甲冑を着せ諏方湖に沈めよ。それを以て葬儀とする。
勝頼は何事につけても思慮、判断、将来の見通しなど、余の十倍も配慮せよ。決して軽々に大戦を起こしてはならん。決してならんぞ」
信玄はそこまで言うと肩で息を吐くほど憔悴した。
だが長篠に入城して以来、日に日に衰弱の度を増していた信玄が、ここまで明瞭な言葉を発したのは久しぶりのことであったから、宿老達はその病が快癒することをこの期に及んで信じ、
「もしかしたら」
という希望を抱いた。
遺言を信玄が口にした以上、信玄は帰国を了承したものと見做すことが出来た。帰国さえかなえば、信玄の病は快癒するに違いないと彼等は信じた。
信玄が家督を相続して以来、自らの藩屛を築こうとして育て上げてきたのが、現在の武田家を支えている宿老達であった。彼等が主君に身分を保障され、重用されているのは法に基づく契約などではない。謂わば信玄と個々の宿老との間に醸成された信頼関係に拠るものであった。宿老達がこの期に及んで信玄の恢復を信じたのは、自らの身分を保障してくれる最大の根拠を喪失したくはないという願望があったからだ。
信玄は臥しながら居並ぶ諸将の不安げな顔を見渡した。
自分が生涯を賭けて育て上げてきた歴戦の武将達の表情は、今まで信玄が見たこともないほどうちひしがれていた。上洛戦に先立つ軍議において彼等が見せた表情とは、もはや同日に語ることが出来ないものであった。
この宿老達の取り乱した有様。
信長を引き摺り出すために仕掛けてきた挑発の数々。
信玄は病臥しながら
(果たして自分は正しかったのだろうか)
と自問するとともに、
(今のうちに何か打てる手はないか)
と一瞬考えたが、すぐにそれを止めた。
もうすぐ自分は死ぬのである。これ以上何かを言い遺すことは家中に混乱を来すだけだ。
信玄は、静かに目を閉じた。