第四章(最後の戦い)‐二
信豊から信玄との遣り取りについて聞いた勝頼は合点がいった様子で
「父は土竜攻めせよと言いたいのであろう」
と言った。
信豊は改めて信玄に土竜攻めの実行を献言すると、信玄はようやく我が意を得たりといった様子で、供廻りに抱えられながら乗物を降り陣屋の床に伏すことを了承した。
信玄が強攻めを嫌ったのは無為に兵を損なうことを恐れただけではなかった。圧迫に堪えかねた家康が再び後詰の軍を編成して出張ってくるか、信長との友誼を排して武田に靡くことを期待してのものだった。そのために、わざわざ真綿で首を絞めるような攻め方を勝頼と信豊に選択させたわけであった。
金山衆は本丸の北一箇所、南二箇所から坑道を掘り進めた。
城方は
「これが噂に聞く金堀人夫の土竜攻めか」
と感嘆しつつも、迫り来る見えない敵に恐怖して坑道に出入りする金山衆に向かって盛んに矢弾を射かけてきた。
甲軍はこれを竹束で防ぎつつ、時折応戦しながら金山衆を護衛した。金山衆が掘削を開始してから旬日を経ないうちに、水脈は断たれた。
「城将菅沼は良将と見える」
信玄は水の手を断たれてなお頑強に抵抗を示す敵将を讃えた。なので、遂に堪えきれなくなった菅沼定盈が開城を申し出てきたとき、
「城兵の命と引き替えに腹を切る」
と息巻く定盈に対して
「当初の降伏勧告を無死して抵抗に及んだことは赦しがたいが、良将殺すに惜しい」
という信玄のひと声によってこれを助命し、捕虜にしている。
甲軍は野田城を破却した上で長篠城へと向かった。行軍中、信玄は諸人が野田城の柵や櫓を引き倒す様子を眺めながら
(或いは、これが余の最後の戦となるか)
とひとりぼんやり考えていた。
顧みればここに至るまで、幾たび戦陣を踏んできたことであろうか。
兵を孫子に学び、子飼いの良将と強兵を育て上げ、今や日本国中で甲軍に匹敵し得るのは越後の上杉謙信ただひとりと言ってよかった。
あと一戦、ただそれだけでよかった。
伊勢長島では信玄の要請に応じた顯如が門徒に呼びかけて構を構築していた。濃尾の一向宗門徒も蜂起の気勢を示していたし、槇島城では将軍義昭が反信長の旗を揚げた。大和信貴山の松永久秀久通父子も信長に対して謀叛の兵を起こしている。江北の淺井久政長政父子は小谷城に健在であるし、その盟友朝倉義景は領内に出陣を布礼廻っているとの情報がもたらされていた。
信長が、強いてこれら諸勢力の掃討に向かえば、信玄はその時を見計らい三万に及ぶ甲州勢を西に傾けるよう采配すればそれで良かった。濃尾の兵は跡形もなく撃砕されてしまうであろう。
流石信長もその信玄思惑に気付いており、これら京畿周辺の諸敵にかまけるの愚を犯さない。しかし、この窮状を脱する妙案が信長にあるのかと問われればそのようなものはなかった。京畿周辺の諸敵を放置して東に向かい甲軍と事を構えれば、信長の権力のよすがともいえる京畿の支配は瓦解して敵が岐阜城下まで押し寄せるであろうこともまた明らかだったからである。徳川家康が依然として信長を見捨てることなく、その盟約を破棄していないことが不思議に思われるほどであった。