第四章(最後の戦い)‐一
信玄の帰国を願う心根を、既に当の信玄に見透かされていた山県三郎兵衛尉昌景などは、もはやその心底を信玄の前では隠さなくなっていたので、信玄に対して
「信長は我等に降伏したも同然です。一旦御帰国なされ、療養なさるべきです」
と、頻りに帰国と休養を勧めた。
その昌景に対して信玄は、
「馬嫁を申すでない」
と息も絶え絶えに言った。
昌景はそれでもなお
「しかしその有様ではお命が危うい」
と食い下がったが、信玄は
「だからこそだ」
と西上の軍を進めることに拘った。
もとより信玄とて、このような篤い病が俄に恢復するなどと信じてそう言ったものではない。寧ろその逆であった。恢復の見込みがないことを自覚していたからこそ、一刻も早い上洛を望んでいるのである。
長征のために消費した物資も相当な量に及んでいる。それに見合った成果を得られなければ、大軍を動員した意味がすべて失われることになるのだ。信玄はそれを恐れた。
三方ヶ原戦勝後、寒風吹く首実検の席で吐血して以来、食が咽を通らない状態が続いていた。そのために体力が落ち、病状は一層悪化していた。何とか体力を取り戻そうと無理に食べて呑み込んでも吐き戻してしまう。戦陣に立つどころの話ではない。床から上体を起こすことすらやっとの状態であった。
だがこの刑部村における休養の間も、信玄は右筆を召し寄せては手紙を幾通も認めさせ、三方ヶ原大勝を各方面に喧伝している。分散する諸大名の力を、反信長の一点で結集させる肚づもりであった。
明けて一月初旬、刑部村で越年し、体力がやや持ち直して恢復傾向を示した信玄は、しかしそれ以上休養することなく
「野田城を攻める」
と下知した。
北三河の要地を占める野田城を陥れることが出来れば、西上作戦の過程で武田に転じた東美濃岩村城と結合して、信長と家康に更なる圧迫を加えることが出来る。徳川による三河支配が瓦解の危機に瀕するだけではない。岩村城の南方が安定し、そこからの兵が岐阜城下を脅かすことが可能になるわけである。
だが信玄が野田城攻略を命じた最大の理由は、西上の軍を間断なく動かし続けることによって、各方面に逼塞しているであろう潜在的反信長勢力を刺激しようという思惑からであった。
諸将は信玄が野田城に狙いを定めたことに感嘆した。病身とは思われない確かな戦略眼であった。
その野田城。
「藪の中に小城あり」
と称されるほどの小城砦である。城将菅沼定盈は僅か五〇〇ほどの城兵と共に籠城を決意して、武田からの降伏勧告を一顧だにしなかった。
勝ち味が薄かった、というよりは全くなかったにもかかわらず野田城が武田に抵抗する意を明らかにした所以は、主家康が三方ヶ原において果敢にも信玄に挑み掛かったという事実にこそあった。家康の果断が、寸手のところで三遠諸将の徳川からの離反を防いだのである。その意味では三方ヶ原における惨敗も、家康にとっては大いに意味のある敗北だったというべきであろう。
定盈が恃みとする野田城は北に桑渕、南に龍渕が天然の濠を形成し、西から順に大手、三の丸、二の丸、本丸と続く連鎖式の城郭である。攻口が西の大手方面に限定されており、守るに易く攻めるに難い。寡兵ながら籠城を決意しただけのことはある。
だが如何に要害を成してはいても、三万になんなんとする甲軍の前にその運命が風前の灯火であることに変わりはない。城の周囲は忽ち割菱の旗で埋め尽くされた。
雲霞の如く押し寄せた甲軍の本陣。
その奥深くに、急ごしらえの粗末な陣屋が建てられていた。
多少持ち直したとはいえ信玄の病状が予断を許さない状況であることに変わりはない。宿老達は信玄に対し、城攻めは自分達に任せて、御屋形様は陣屋にてお体を休めて戴きますようと、乗物(駕籠)中にあって城攻めの指揮を採ろうという信玄に勧めた。
信玄は
「では試みに問うが、あの城如何にして落とすか」
と宿老達に下問すると
「力押しにひと揉みすれば、一両日持ちますまい」
という声を聞いた。典厩信豊であった。
信玄は
「汝の父であればそのような安易な攻め方はしまい。先は長いのだ。無駄に兵を損じるわけには参らん。勝頼とよく談合せよ」
と信豊を叱って、陣屋で休むことに難色を示した。




