第四章(天台座主沙門信玄対第六天魔王信長)‐二
「昌景」
信玄の呼びかけに、昌景が我に返る。
「どれひとつ取ってみても、信のおける約定とは思えませんな。下手に信用して兵を引けば、掌を返したように反故にすることは間違いございません」
昌景の口を衝いて出た言葉は、心底とは裏腹であった。本意とは異なる意見を口にして、昌景自身が自覚したようにその焦点が傍目にも分かるほど泳いだ。
「昌景。取り繕うでない。余の急激な痩せように驚いているのであろう。しかし帰国の儀は無用」
信玄は一語を発するにも息を吐いた。心底を見透かされた昌景は思わず俯いた。
「今をおいて信長を打倒する機会はない。病はきっと、抑え込むことが出来る。右筆を」
信玄は信長に対する断交の書簡を送るつもりなのだ。内外に織田家との断交を宣言し、諸方の味方を励ますつもりなのである。
信長は若輩ではあるけれども、本国が都に近く、また生来の幸運のためか、将軍義昭公を奉じて上洛し、天下にその名を轟かせた様を間近に見た。しかしながら汚い欲求によって裏切り行為を行い、累年の弓箭の名誉を捨ててまでよこしまな思いにふけり、善政を夢にも知らなければ、必ず天道に見放され、信長が身命を失い末代まで悪名を得ることは疑いがない。
今後は信玄と信長、二度と相通ずることはないと宣言する。
ここまで発した信玄は、右筆に対し
「書簡の包みには、天台座主沙門信玄、と認めよ」
と命じた。
焼討の憂き目を見た比叡山の、覚恕法親王を甲斐に迎え、その弟子として信長に仏罰を下さんとの決意の表れであった。
信玄からの断交の書簡が届けられた織田家中には、
「信玄との決戦近し」
との不安と緊張が漲っていた。
諸侍が信長在所を駆け巡り、備を厳重にしていた。そのために信長身辺は大変な喧噪に包まれていた。偶然信長の許を訪ねていた宣教師ルイス・フロイスは何の騒ぎかと不思議に思い直接信長に訊いた。信長はフロイスに信玄から届けられた書簡を示した。
「これよ。信玄坊主が当家に対する断交を宣言しおった」
異国の宣教師に手短に告げた信長の表情は憤怒に満ちたものであった。
無理もあるまい。
自らの養女を人質同様に武田に入輿させ、年七度の膨大な贈り物を贈与し、時には信玄の要望に従って甲越和与を斡旋したこともある信長である。表立って信玄に敵対したことなど一度としてなかった。信長からみれは、「汚い欲求による裏切り行為」を行ったのは信玄の方なのである。
フロイスは目の前に座するこの男信長が、五畿内を武力によって平定した豺狼の如き兇暴なこの男が、甲斐の武田信玄の名を聞いたり口にしただけで、野山の兎のように神経を尖らせ、途端に不機嫌になることを知っていた。
そこでフロイスは示された書簡の表書
「天台座主沙門信玄」
の意味を、信長に訊くこととした。
それは、神経質となり不機嫌の極みに達しているように見える信長に対して、フロイスが漢字に疎く、文字の読み方という純朴な疑問を信長に示すことで、彼の不機嫌な気持を紛らわせようという心根に基づく行為であった。