第四章(天台座主沙門信玄対第六天魔王信長)‐一
信玄が織田徳川連合軍を撃砕した三方ヶ原の戦いに先立つ十二月三日、近江方面において信長包囲網の一端に齟齬が生じていた。近江において織田勢と対陣しこれを釘付けにしていた越前朝倉義景が、兵の疲労と積雪を理由にして帰国したというのだ。信玄はその報せを、三方ヶ原戦勝後に入手した。信玄は十二月二十八日付で義景に宛てて再度の出兵を促す外交文書を書き送っている。俗にいう「伊能文書」である。
使僧より状況を聞き、その意を得た。
二股城の普請をしている最中に三河へ出陣して、家康が人数を出してきたので去る二十二日に三方ヶ原において一戦を交え、勝利を得て三遠の兇徒並びに岐阜の加勢衆を一〇〇〇人あまり討ち取った。本意を達したので安心なるべきである。
巷間の噂では、そちら(越前)の衆の過半が帰国したと聞いて驚いている。兵を労るのはもちろん大事であるけれども、今は信長滅亡の時期が到来しているところであって、そのような悠長な備えでは労あるばかりで功がなく、分別を誤るべきではない。
使者の口上によっても附言する。
恐々謹言
壱弐月廿八日 信玄(花押)
謹上 朝倉左衛門督殿
再度の出兵を催促はしたが、もとより義景の如き退嬰的な人物を頼みとする信玄ではない。義景が一廉の人物であれば、将軍義昭がその懐に飛び込んできた時を好機として疾うの昔に上洛を果たしていたはずである。
信玄が北進策を諦めたのは上杉謙信にその野望を打ち砕かれたためであって、そういった事件がなければ今ごろ義景など苦もなく捻って屈服させていたはずの相手であった。信玄が義景などあてにしていなかったことは、その後四ヶ月にわたり三河攻略を継続したことでも窺い知ることが出来る。
兎も角も、三方ヶ原戦役において信長が家康に援兵を派遣したことは、外面的には平穏を保っていた甲濃間の正式な断交を意味した。それでも信長は自身の置かれている窮地を何とか脱しようとして信玄に書簡を書き送っている。
家康が若気の至りで間違いを犯してはならないと考え、家康を扱うつもりで当家の家中の者を遣わしたところ、信玄公御旗の前に罷り出でて理解しがたい合戦に及び、これを成敗なされたのは尤もなことです。
信玄公に対する信長の誠意の証に、信玄公が成敗された家中衆は跡目を立てず断絶させます。
病床の信玄は、信長から寄せられた書簡を山県昌景に示しながら言った。
「信長は、露骨な時間稼ぎに走っておる」
信長書簡には、家康との断交や嫡子信忠を信玄猶子とすること、望みどおりの人質を差し出すことなどが書き添えられていた。どれも、到底信じることが出来ないものばかりであった。
だが昌景は、書簡の内容よりも、それを差し出した信玄の手に浮いた青黒い血管と骨相を見て驚愕した。
化粧を施しているのかと思われるほど顔色が白い。だがそれが化粧ではないことは、白く乾いた信玄の唇や暗く落ち窪んだ眼窩を見れば一目瞭然であった。頬骨が突き出ているようにみえるのは頬が急激に痩けたからである。明らかに、府第を発したときよりも衰え、顔がひとまわり小さくなっていた。
(これほどまでに・・・・・・)
昌景は驚きを隠すのに精一杯であった。
(もはや一刻の猶予もならぬ。御帰国願わねばお命が危うい)
昌景は、書簡の内容を信長からの降伏申出と解釈して信玄に帰国を願い出ようと考えた。
もはや昌景にとっては、上洛よりも信玄の命を保つことの方が重要であった。今回の戦いが無に帰したとしても、三遠に打ち込んだ楔は今後の戦略にも活かされるであろうし、何より信玄さえ存命であれば遠からず再度上洛の機会が訪れるはずだというのが、その思惑であった。当の信玄が死んでしまえば、甲軍上洛の機会は永遠に失われてしまうであろう。