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武田信玄諸戦録  作者: pip-erekiban
第四章
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第四章(三方ヶ原の戦い)‐四

 その時である。家康は戦慄した。

 勢いに乗じてなおも突進しようという石川隊、本多隊、松平隊に対して、甲軍の新手が横入よこいれしたのである。

 甲軍の新手。

 これぞ諏方大明神をあらわす「大」の小旗を掲げた武田四郎勝頼を物頭ものがしらとする一隊であった。徳川勢は勝頼一隊によって稲穂が強風に吹かれるように続々なぎ倒されていった。前線において小山田隊、山県隊など武田右翼部隊を追い詰めつつあった徳川勢の陣立てが、あっという間に横殴りに打ち崩されたのである。

「武田四郎が軍兵、左翼から横入」

「本多忠真殿、御討死(うちじに)

「松平家忠殿、御討死」

「織田御家中衆平手汎秀(ひろひで)殿、御討死」

 家康本営に次々と麾下将兵の戦死がもたらされ始めた。家康の許にもたらされたのはそれだけではなかった。旗本衆が一人、またひとりと家康本営に届き始めた甲軍の矢弾に倒れ始めたのである。甲軍が本営間近に押し寄せていることは明らかであった。

 申の刻(午後三時から午後五時)に始まった合戦は、僅か一刻(二時間)あまりで大勢が明らかとなった。

 家康旗本衆の一人、夏目信吉は危急に臨んで家康に言った。

「もはや御味方の総崩れを止める手立てはございません。お逃げなされ。それがしが殿軍しんがり承りますゆえ」

 夏目はそう言うと、鑓の柄で家康乗馬の尻を思い切り叩いた。夏目は、馬上の家康が何事か叫ぶ声を聞いたような気がしたが、それが主命かなにかであっても聞き返すために敢えて家康を追うつもりはなかった。迫り来る甲軍が、日没迎えてもはっきり視認出来る距離にまで肉迫していたからだ。勢いに乗る甲軍は、崩れゆく三河勢を次々と鑓の錆にしている。

 夏目は大音声にこう呼ばわった。

「我こそは三河守徳川家康である。討ち取って手柄とせよ」

 夏目は自身の生還を期してはいなかった。ここで死ぬつもりであった。

 家康を名乗る者が討ち取られたとあれば味方の士気を大きく削ぐことになるであろうが、家康本陣がそこに在ることを示す旗は既に倒れているのだ。どうあがいても味方の士気は恢復が見込めないだろうし、総崩れするのを押し止めることは不可能である。しかし、どれほど大崩れしようが家康さえ生き残れば、主の手腕次第であとはどうとでもなると夏目は思った。

 家康を名乗る騎馬侍の声を聞いた甲軍は、徒武者かちむしゃ騎馬武者こぞって夏目信吉の元に蝟集した。そのために、家康の逃走方向を指向する甲軍の数ががたっと減ったことを確かめた夏目は、敵の重囲に陥りながらこれを限りと暴れ回り、主家康を危急から離脱させたことを殊勲として群がる甲兵にその頸を授けたのであった。

 甲軍に対する復讐の念に燃える本多忠勝など一部の三河勢は敗勢が明らかでありながら驚異的な奮闘を示したが、それも戦場の一角で起こった小事に過ぎない。忠勝は味方のふがいない崩れっぷりに歯嚙みしながらも、退却を余儀なくされた。


 一方家康主従の生き残るための戦いは依然続いていた。家康は時折馬を止めては矢をつがえて放ち、迫り来る甲州勢の何人かを射落としたと伝えられているが、焼け石に水とはまさにこのことである。

 家康を殊の外震え上がらせたのは、本戦に先立つ三年前に信玄から三河攻略の密命を帯びて以来、この日あることに備えていた穐山伯耆守虎繁を物頭とする伊那衆の攻勢であった。家康は穐山一隊に幾度も肉迫され散々追い回され、そのたびごとに旗本衆の一をその場に死兵として残置し、時間稼ぎをさせながら逃げた。もちろん残置された家康旗本は一人として生還しなかった。

 虎繁一隊から逃げ回っている最中、家康は騎上にあって尻に久しく覚えなかった不快を感じていた。強いて気にするまいと家康は思ったが、それは確かにあった。馬に激しく鞭を入れ、鞍の上に揺られるので、尻と鞍の間で磨り潰されたそれはなんともいえぬ臭気を放った。家康は追い回される恐怖のあまり、馬上にて脱糞してしまっていたのであった。

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