第四章(三方ヶ原の戦い)‐一
一方只来城を陥れた別働隊の馬場美濃守信春は十月十六日、二俣城を包囲した。
二俣川と天龍川の合流地点に位置する二俣城は、この二本の川を天然の濠として、切り立った崖上に立地する要害である。城将中根正照は、一言坂まで出張って後詰の意図があることを明らかに示した家康と、この天然の要害に信倚して籠城を決し、他国の侵略者に対して飽くまで抗い抜くことを決意した。遠州乱入以来無人の曠野を征くが如き甲軍に、徳川勢として初めて男らしい抵抗の気勢を示したわけである。
信玄は、先行して既に二俣城包囲陣を形成していた馬場信春に合流した。自ら二俣城の周囲を巡検したとき、同城が井楼より下ろす釣瓶により天龍川の水を汲んでいる様を見た。岩盤が堅固であり、城内に井戸を掘ることが出来ないための措置と思われた。この城を抜こうと思えば、川の上流より筏を幾筋も流して井楼を破壊すればたちまち窮すると見抜いた信玄であったが、家康後詰が再度押し寄せて信玄と無二の一戦を挑んでくることに期待して、即座にその作戦を実行することはなかった。
しかし包囲攻城二カ月、遂に家康は二俣城に後詰の援軍を送って寄越すことはなく、城を落とすことを決意した信玄はかねてからの計画通りに上流から筏を流し井楼を破壊して、十二月十九日に二俣城包囲戦に決着を着けたのであった。
二俣城陥落の報はその日のうちに浜松に在城していた家康の許へと届けられた。信玄は二俣城の仕置を早々に済ませ、一両日中にも軍を発進させる様子である、という物見からの報告もあった。だが翌日には、甲軍の進路が必ずしも浜松を指向していないことを示唆する報告が届けられた。
家康は軍議の席で、物見からの報告を聞きながら頻りに爪を嚙んでいた。
領内の軍役衆は既に払底しており、老若かき集めても八千人程度が関の山であった。信長からの援兵は一万人を数えていたが、領内の防御拠点に分散配置していたので浜松在城の織田援兵は三千人にとどまる。
(もし武田が浜松を囲まず素通りするというのであれば、もっけの幸いではないか)
家康はそのように、まず籠城を考えた。
甲軍がこのままの進路を保ち浜松を素通りしたならば、それに越したことはない。転身して浜松に向かってきたとしても、城を頼めば相応の時間は稼ぐことが出来るはずであった。
但しそれは、信長がその間に近江の仕置を終えて、後詰に出張って来てくれることに期待しなければならないということであり、自分の運命を他人任せにすることを意味していた。家康には、朝倉義景の後詰を得ている淺井の小谷城が、そう簡単に陥落するとは思われなかった。
(では、野戦か)
だがその案には諸将がこぞって反対するだろうと思われた。数において倍を越える甲軍を野戦によって撃滅するとなると、余程の幸運に頼まなければならぬ。
「殿、そのように爪を嚙むのはおやめなされ」
家康の癖を見かねた酒井忠次がそのように申し向けると、家康は慌ててその手を下ろした。
「討って出ようと思うが・・・・・・」
家康は試みに、そう問いかけてみた。
「勝算は万に一つもござらん」
「信長公の後詰を待って・・・・・・」
「浜松籠城こそ、信玄の最も嫌がる戦法でござろう」
諸将からは案の定、一斉に反対の声が上がった。予想していたこととはいえ、こうもあらかさまに反対の声が上がると家康は苛立ちを禁じ得なかった。
「汝等は籠城などと申すが、既に三遠の諸城は信玄によって落とされ、当家はろくな後詰を出したためしがない。このまま浜松素通りを許せば、三遠の国衆が雪崩を打って敵方に靡くであろう。そうなった場合、汝等如何致すか」
家康が発した言葉に反駁する者はなく、皆沈黙した。家康の怒声に押されたというのもあるし、その言葉が真理を衝いていたというのもあった。軍議を凝らし足りない諸将が、
(この大将を如何に説き伏せるか)
と考え沈黙している隙に、本多平八郎忠勝が
「然らば、野戦ということで・・・・・・」
と口にして強引に軍議を野戦の方向に引っ張ってしまうと、もはやその方針に異を唱える者はいなくなってしまったのであった。
野戦と決した徳川諸将及び平手、佐久間の織田家中衆は、一斉に軍議の席を立ってそれぞれの持ち場へと帰っていった。その際、佐久間信盛は本多忠勝に対し
「汝が如何に武勇を誇ろうとも信玄相手には蛮勇に過ぎず、蟷螂の斧に等しい。このことは帰って信長公に必ずや申し上げよう」
などど憎々しげに毒づいたが、領内を無遠慮に荒らしまわる甲軍への憤怒に燃えていた忠勝は動じなかった。
(この怒りを叩き付ける相手は甲軍以外にない)
そう密かに心に誓っていた忠勝の耳には、佐久間の如き小心者の言葉は届いていなかった。




