第四章(信玄上洛を宣す)‐二
前の二者と比較して遙かに軽輩の近習武藤喜兵衛は、それでも臆することなく信玄に質問を投げかけた。
「その信長と当家は縁戚を取り結び同盟を締結しております。これと干戈を交えるとなれば盟約違犯の誹りは免れません。如何にお考えか」
信玄は
「喜兵衛の言うとおり、当家と織田家とは盟約を結ぶ間柄にはあるが、これなど俄仕立てに過ぎん。余が家康を攻めれば信長は旧誼に則り必ずや家康に加勢するであろう。余は家康との合戦のうちに、信長が家康に加勢した証拠を取った上で信長との盟約を破棄するつもりだ」
とこたえると、朋輩の武藤喜兵衛が声を上げたことに力を得たのか土屋右衛門尉昌続が信玄に問うた。
「もとより我等、御屋形様の御下命あらば一命擲つ覚悟はとうにできております。しかし信長とて易い敵ではございません。濃尾をはじめ五畿内の衆を束ね大軍を擁しております。勝算はございますか」
「なるほど信長は数多軍勢を擁しており、如何に武田が大を成したとはいえ数の上ではこれには到底及ばない。だが、この信玄がかかる相手に無策で挑むと右衛門尉は思うか。
人数のみを以て戦するにあらず。信長が諸方に敵を抱える今こそが、彼を撃砕する好機なのだ」
信玄がこのようにこたえると、土屋昌続は
「御屋形様に策あらば、我等そのご采配に従って存分に暴れ回るのみ。帝都への発向、今から腕が鳴ります」
と言った。
信玄は、今この場で一堂に会する老若の諸将を見渡した。或いは信玄と共に幾多の戦場を駆けめぐった歴戦の勇者であり、或いは芝を踏んで間がない若武者がそこにいた。信玄と共に実戦の中で采配の妙、兵馬の駆け引きを体得した老巧の将、或いは夜話と称して信玄の軍略を語って聞かせた若武者など、いずれ劣らぬ猛者が犇めく様は壮観であった。
信玄はこのときばかりは自身の身体を蝕む病を忘れた。否、病を忘れたというよりは、今眼前に集うこれら諸将に信玄の薫陶が行き渡り、たとえ信玄が病に倒れ死んだとしても、これら諸将のそれぞれが小信玄として必ずや上洛の軍兵を率い、その目的を果たしてくれるであろう。そして、そのあかつきには信玄が望みとする正しい政を執り行ってくれるに違いない、という確信を得たといった方が正しい。
そのように思い至ると信玄は
「皆、臆することなくよくぞ余の存念を訊ねてくれた。嬉しく思う。信長と家康を相手に合戦を行い勝利して、信長の居城国に働き入って汝等諸将をその城に置き治めれば、余は即時に死んでも悔いはない。我が意は必ずや汝等が遂げてくれるに違いないからだ」
という言葉が、自然と口を衝いて出た。
信玄は鍛え上げられた軍役諸衆と綺羅星の如き諸将を引率し、瀬田において朝廷の貴人、将軍以下幕閣歴々の出迎えを受け、王者の如く入京する自らの姿を容易に想像することが出来たのであった。
だが信玄が斯くの如く高らかに上洛の意図を明らかにしてからなお十ヶ月にわたりその軍を発向しなかったのは、実に信玄の病状がそれを許さなかったからである。
昨年末の軍議において、信玄亡くとも各々が小信玄として上洛を達してくれるであろうと確信した信玄であったが、現実の問題として国主を欠いた状態での上洛戦が不可能であることは誰の目にも明らかであったし、信玄自身、自らの入京を強く希望したためであった。
元亀三年(一五七二)七月下旬、闘病の床にあった信玄の許に、彼を勇気づける報せがもたらされた。甲斐国内に庇護した天台座主覚恕法親王からの親書であった。親書には信玄の権僧正任官が正式に決定した旨が明記されており、同時に信玄に三緒の袈裟が贈与された。信玄は天台座主覚恕法親王、延いては仏法の庇護者として、叡山再興のために上洛するという恰好の名分を得たわけである。そしてこのことは、今を遡ること十三年前に、信玄が発心して入道に及んだ所期の目的を達したことを意味していた。
信玄が極意したとおり、甲斐から朝廷への官位奏請は容易ではなかった。自ら仏法に帰依し、諸寺に庇護を加えてきた地道な活動が、権僧正任官という目に見える形で結実したのである。
信玄は病床にありながら、早速国内軍役衆に九月末の帝都発向を発令しそのための諸準備を命じながら、ここに至るまでの苦難の道程を振り返った。
上杉謙信によって北陸道西進の野望は破砕され、外交方針の転換を迫られた挙げ句嫡子義信を弑せざるを得なかった。駿河侵攻に伴い今川北条との永年の同盟が破れ、繰り広げられた甲相の角逐に少なからぬ戦費と時日を費やしもした。しかしこの日あることを信じ、弛まず進み続けた結果、信玄の目の前に海路の日和ともいえる上洛の好機が遂に訪れたのである。