第四話
第四話
続く攻撃。打者はナイル。超野球少女とは関係の無い立場ならば、死球や暴行を受ける可能性は低い。ただ、全く無い、とまでは言い切れない。ナイルも覚悟だけはしていた。恐ろしく思いながらも打席に立つ。剣が戦うというのなら。剣の意思に従おう。ナイルはただ、剣に尽くそうという気持ちのみで打席に立っていた。また、次に打順を控えている日佳留も同じ思いだった。両者、言わずとも。互いに剣の為に身を挺することを厭わない、と覚悟した。互いの覚悟を理解していた。
来るなら来い。ナイルは白球を待つ。だが、最初に挟まったのは牽制球。二塁方向への牽制。
「剣サン!」
意味は無くとも、叫ばずにはいられない。塁上に滑り込み帰還する剣と、その足へ目掛けて蹴りを入れる二塁手。
「ぐぅッ!」
痛みに膝を押さえる剣。無論、元野球部員は無視。黙ってピッチャーにボールを返球。
「卑怯だぞ! 牽制なんてしないでこっちへ投げるんだ!」
ナイルが叫ぶ。しかし無情にも、再びの牽制。剣への暴行が続く。
「クソッ……何にも出来ないのか、僕たちは。大切な人がどんな酷い目にあっていようと、ここに突っ立っているしかないのか……ッ!」
悔しさから震える声で言うナイル。一方で、日佳留も悔しさに顔を歪めていた。剣が殴られていようが、助けることが出来ない。無理にでもこの試合を辞めさせようものなら、なおさらどんな報復があるか分からない。それを考えると、今は黙って見ているしか無い。
十数球の牽制球。その度に暴行を受け、剣もまた、ラブ将軍のように満身創痍だった。
しかし――立ち上がる。
「ふん、寝ていればすぐに楽になれるものを。無理して立ち上がるから余計に苦しむことになる」
元部長が呟く。そして、ジェスチャーで更なる牽制球の指示。ベースから離れてもいない剣に大して、タッチ。無論、ただ触るだけではなく。腰の入ったパンチのような一撃が鳩尾に見舞われる。ぶっ、と呼気を噴き出す剣。殴られた衝撃で、一瞬呼吸ができなくなる。
「全部、お前自身のせいだ。お前が自分で選んだんだ。こんな苦しい思いをするのも、全部お前がヒットを打ったからなんだよ。どうだ、自分で自分の首を締める気分は」
元部長の嫌味な言い方にも負けず。
「最高だよ」
と、笑って答えてみせる。
「自分で選んで自分で苦しむ。それ以上のことなんて何も無い。いいことだよ。何も選べないままでいるよりずっと。あんたたちよりずっと」
「訳の分からないことを言うな。痛めつけられて頭がおかしくなったのか」
「かもね。それか、元々おかしかったのかも」
言って、俯く剣。顔を上げて話すだけのことでも体力を消耗する。苦しいのだ。
「私は野球が好きだ。何よりも。一番なんだ。それをずっと押さえつけてきた。やっちゃいけないことだから、って。でもやっぱり、無理だった。私は我慢なんて出来ない。大好きだから、例え誰にどれだけ禁じられたって野球をやる。どんなに苦しくっても、あんたたちに殴られてでも野球をやるんだ」
それが最後の言葉だった。剣は崩れ落ちる。立ち上がる体力すら残っていない。報復が一つ完了したのだ。
元部長は、いよいよ勝負に出るように指示を出す。
「もう十分だ! 後のバッター二人を三振に抑えろ!」
言って、視線を真希の方へと向ける。真希は何も言わず。ギリギリと、歯を噛み締めていた。狙い通りだった。真希には、仲間二人が傷つき倒れた後、虚しく最後まで一人で野球をやらせる。そして最後の回に歩かせて抹殺。屈辱を最大限まで味わい、苦しむように。結局、剣の一点以外は元部長のプラン通りの展開だった。
剣もラブ将軍も傷つき、自分は打席で勝負をさせてもらえず、役立たずの素人の放る球を受け、どれだけ屈辱的だろうか。それも当然の報いだ、と元野球部員の誰もが考えた。自分たちの受けた屈辱、失ったものはこんな程度ではない。まだ仕返し足りないぐらいだ、と。
ナイルは三球三振。甲子園出場クラスの投手相手では敵うわけもなく。アウトカウント一つで、最後のバッター日佳留に交代。
「……すまない。僕も何かやりたかったんだが。力及ばずだったよ。せめてバットに当てさえすれば何か変わるんじゃないか、と思ったんだけどね」
かすりもしない。冗談っぽく笑って言うが、気落ちしていることは隠せないナイル。
「――ん、日佳留サン?」
ようやくナイルは気づく。日佳留の様子がおかしいことに。と言っても、悪い意味ではない。瞳に闘志を燃やし、マウンド上の投手を、そして元部長を睨みつけている。
「アタシ、剣の言ったことが分かる」
不意に、ナイルへ告げる。日佳留はそのまま、バッターボックスへと向かう。
打席に立ち、考えた。剣の言葉が突き刺さった。日佳留も、剣にとっての野球と同じものがあった。それは深水剣。日佳留は剣が好きだ。何よりも。一番だった。出来ることなら、剣の力となるために、例え暴行を受けようとも野球をやるべきだった。
しかし、日佳留はそれを禁じた。愚かだと思ったからだ。情熱に身を滅ぼすような真似は、先を考えればやるべきではないと考えていた。
だが――剣は否定した。我慢なんて出来ない。一番だから。例え殴られてでも『最高だよ』と言えるぐらいの情熱に燃えているから。燃え尽きるまで止まるはずがないのだ。自らの魂に宿った炎を滾らせて生きる。それが自分だと。ダイアモンド上で無残な攻撃に遭いながらも宣言した。
日佳留は、正に心を切り裂かれるような思いだった。そうだ。何が先を考えれば、だ。選択肢は無い。胸にある衝動は一つ。剣の為に生きる。剣が野球に死ぬと言うのなら。自分も野球に死んでやる。躊躇い出遅れるぐらいなら、自ら地獄に身を投じようではないか。
「――アタシは剣が大好きだッ! 剣が野球をやるって言うなら、アタシだって野球に全てを懸けてやる!」
叫び、宣言する。バットで遠く天を指し、ホームラン予告。
「力が欲しい……悪魔でも何でもいいから、アタシに野球をする力をちょうだい! 人生を棒に振ってでも、今は剣の助けにならなきゃいけないんだ!」
気でも狂ったか。元野球部員全員が思った。だが、真希は気付いた。日佳留の変調に。雰囲気の豹変に。それは人としてという意味ではなく、野球人としての雰囲気。バッターボックス上に立つ少女から、同じ臭いが漂ってくる。自分と同じ、野球に魂を売った人間の臭みが。
ピッチャー、第一球を投げる。これと同時に――眩しい輝きが日佳留を包む。超野球少女の力が発現したのだ。黄金色の強烈な覇気が弾け、荒れ、凝縮するように日佳留の内太ももへと集まった。ユニフォーム越しからでも分かる、強い輝きで『縮』の字。この瞬間、日佳留は超野球少女へと生まれ変わった。
「当たれエエェェェエエッ!」
絶叫とスイング。まだ慣れない力が自在なコントロールを許さず、バットがボールを叩きつけるようなヒット。ショート方向への速いゴロ。
超野球少女と言えども、所詮努力が無ければこの程度。と、元部長は余裕を持って捕球し、一塁へ送球しようと顔を向ける。
が――これが下策だった。日佳留はこのタイミングで、既に一塁を走り抜けようとしていた。
「――なっ!?」
驚愕の余り、声を上げる元部長。あまりにも速過ぎる。打撃から捕球し、顔を向けるまで二秒弱。
ベンチ側で見ていたナイルも、あまりの出来事に驚きを隠せなかった。日佳留が超野球少女として覚醒したことは無論。ずっとベースランを凝視していたにも関わらず、距離を詰める瞬間が全く見えなかったのだ。走り始めた瞬間に姿が消え、次の瞬間には一塁目前に姿を現した。
「い、今――日佳留サンの姿が、消えた?」
「なるほどな」
不意に、ナイルの背後で声。先程まで部室に一度戻り、怪我の応急処置と休憩をとっていたラブ将軍だった。
「ラブ将軍! 今の日佳留サンのベースランは何だったんですか!?」
「おそらく『縮地法』だろう」
ラブ将軍が語る。
「古来、仙術の一つとして伝えられていた技術だ。素早く走るのではなく、距離を縮めることで一瞬のうちに千里を移動する。――恐らく、それに近い能力が日佳留君には備わっている。実際は千里とまでは言わないが、十数メートル程度の距離を存在しないものとして移動することが可能なのだろう。現に、彼女は一塁までの距離を縮め、二秒弱という恐るべき速さで一塁へ到達した」
「なるほど……それが超野球少女だけがもつ特殊な力、というやつですか」
「ああ。剣君はディープショットという物理法則を捻じ曲げる魔球。真希君は風を操る風神打法。そして日佳留君は縮地法ということだ」
語り終えると、ラブ将軍はバットを手にする。
「さて、次は私の打順だな」
ラブ将軍が打席に立つ。立っていることさえ苦しい怪我。足取りは覚束ない。片手で持ったバットが杖代わりになって、なんとか身体を支えている。
「そんな身体で何が出来る。地力で打席に立つことすら出来ないような腑抜けめ」
元部長の挑発。だが、ラブ将軍は不敵に笑う。
「ああ、大したことは出来ない。貴様らには取ることも叶わないような、大飛球を浴びせてやるのが精々だろうな」
無謀な宣言。ホームランを打つというのか。この状況で。デッドボールや敬遠球しか飛んでこないだろう。それでも、打つのだろうか。
あまりにも現実離れした言葉。だが、元部長は恐れた。立て続けに不可能が可能になってきた。剣のエンタイトルツーベース。日佳留の内野安打。そして今度は、ラブ将軍が。正に不可能そのものへと挑んでいる。
「来い、愚か者共。貴様らの憎悪は生温い。漠然と起こした癇癪同然の感情など、まるで及ばんぞ。真希君、日佳留君、私、そして剣君のような人間には。血肉を燃やし輝く者の前で、圧倒的な力の前で、猿知恵など役に立たんということを教えてやる」
ラブ将軍は、元部長、元野球部員達を煽る。どこからこの高慢な態度がでてくるのだろうか。誰もが疑問に思った。不気味にさえ感じるのだ。誰の目にも、戦えるような状況ではない。それでなぜここまでのことを言えるのか。力の差は、むしろ逆転しているのではないか。ホームランなど夢の話、スイングすることさえままならないのではないか。
様々な疑念が渦巻く。元部長もまた同じであった。唯一つ、安全策は敬遠以外に無いと考えた。ラブ将軍が何をしようが、バットが届かなければホームランなど打つことは不可能。一方で、デッドボールのコースでは既に剣のエンツーという前例がある。敢えて死球を狙わずとも、再び塁上で傷めつけてやればいい。
「――敬遠しろ!」
元部長は叫ぶ。投手、そして捕手もまた、それしか無いと考えていた。頷く。捕手が立ち上がり、十分な距離を取って手を上げる。情けないミットへ向けて、投手はゆっくりと、山なりの敬遠球を投げる。
――その瞬間だった。ラブ将軍は地面に突いたバットを持ち上げ水平に保つ。そして、まるでハンマー投げでもするかのように回転を始める。
「待っていたぞ! この緩く遅い敬遠球をッ!」
ラブ将軍は十分な回転により強い遠心力をバットへ与える。そしてボールが近づいてくるとバットを手から離し、投げ飛ばした。瞬間的に手首のスナップを加えることにより、バットまでもがプロペラのように回転。
そして、白球を捉える。バットの芯が直撃。ラブ将軍の回転と手首のスナップにより、バットに与えられたエネルギーが、白球へと伝導していく。
これがラブ将軍の狙いだった。遅く緩い敬遠球相手であれば十分な回転時間が取れる。エネルギーも十分に蓄えられる。また、白球に狙いを定めやすい。ふらつく足でも、回転運動であれば遠心力で体重が支えられ、立つことに労力を費やす必要もない。
見事に捉えられた白球はぐんぐんと伸びていく。外野が慌てて追いかけるが――無念。白球はギリギリで仮設フェンスを超えて着弾。完全なホームランとなる。
「――ふん。この程度の飛距離では誇る気にもなれんな」
ラブ将軍は皮肉を言って、それが強がりだと誰の目にも分かるぐらいの危なげな足取りでベースラン。二塁上に倒れる剣は日佳留が抱え、全員がホームへと帰還する。一挙四点。現在五対〇で、点差を五点とした。今回は五回までの十点差でコールドゲームとなるので、残り五点で試合終了となる。故に、この満塁本塁打は勝利へ大きく近づく一打となった。
元野球部員が呆然としている間にも、次の打席。真希がバッターボックスへと入る。
「おらシャキッとせえやボケナス! おどれらウチを殺すんと違うんかい!」
この怒鳴り声で多くの部員がハッとする。だが、半数以上は戦意を喪失していた。暴力に訴え、ボロボロになるまで殴り、倒したと思った相手に浴びせられた満塁本塁打。心に響かないはずが無かった。また、既に超野球少女は三人ではなく四人。敬遠するだけでは戦えない状況にある。
「――構うなァ! 試合に負けてでも、奴らを殺せェッ!」
元部長の絶叫。だが、誰も言うことを聞かない。
「私らには絶対に譲れないものがあるだろうが! これぐらいで黙るな! もう計画も何も無い! 超野球少女は全員歩かせて、一塁上で死ぬまで殴り倒せェッ!」
「でも――」
反論の声を上げようとしたのは投手。だが、元部長が続きを遮る。
「いいから投げろ! そんなに奴らを殺したくないなら、私が一塁で直々に手を下す! 黙って敬遠だけしてろグズ!」
「……分かったよ」
元部長の怒りを止める手段など、元野球部員側にも持つ者が居ない。仕方なく、敬遠に入る。キャッチャーが立ち上がり、真希から離れて手を上げる。今度は前回の反省を活かし、普通にストレートを投げて敬遠。
「――無駄や」
真希が呟く。その瞬間、緑色の闘気が吹き上がる。風を操る打法。風神打法の力を発揮する合図。
バットへ風が集まる。だが――違う。今までの風神打法と異なる。風はバットの周りを渦巻くのではなく、まるで周囲の大気がバットへと吸い込まれるかのように集まっていた。
白球が打席へ近づく。すると、奇妙にも白球は曲がる。そう、風に引き寄せられたのだ。真希のバットが風を吸い寄せることで、インパクト不可能なコースを無理に捻じ曲げた。
「これが新奥義ッ! 『風神乙番打法』や!」
言いながら、真希は白球を捉えた。見事にストライクゾーンへ吸い寄せられた白球は、真希にとって容易く捉えられるもの。今日一番の大飛球。フェンス超えなど確認するまでもない特大アーチ。六点目、真希のソロホームラン。
ダイヤモンドを一周し、ベンチへと戻る真希。真希のことを全員がハイタッチで出迎える。
そして、真希はラブ将軍の顔を見て、言う。
「ラブ将軍、サンキューな。あんたのお陰でウチはこの打法を思い付いたんや。あんたが死に物狂いで一発もぎ取ったからこそ、この一発が打てたんや」
感謝の言葉を述べた。ふん、と恥ずかしそうに鼻で笑うラブ将軍。
一方で、元野球部員チーム。対照的に暗く沈んだ雰囲気がグラウンドを包んでいた。これが力の差。元部長以外の全員が、よく理解した。不意打ちだからこそ出来た暴行だったのだ。二度目は無い。超野球少女は天才。野球であれば、例え邪悪邪道をゆく野球であっても、見事に対応してくる。それも、正義正道に立つ野球のまま。
絶望的な状況。敬遠も、デッドボールも対応された。超野球少女は四人。コールドゲーム成立まで残り四点。例えば今から野球の皮すら被らない形の暴力を振るうならば、いくらでも殴り放題だろう。しかし、誰もが殴ることを目的としてはいなかった。超野球少女という、野球に全てを懸けた人間へ絶望を。野球という枠の中で理不尽な敗北を。野球の枠の中で苦しみを与えることだけが目的であった。仮に今、暴力に訴えたならば。それは超野球少女の勝利を証明すること他ならない。
この点に関しては、元部長も同じ考えだった。ただ、元部長だけは敗北感を与えて終わることを良しとしていない。可能ならば、野球をやることで野球を奪ってやる。それも一生野球が出来ない、というようなレベルで。野球が原因で野球ができなくなることほど、超野球少女にとっての絶望は無いだろう。そう考えていた。
だからこそ、諦めていなかった。まだチャンスはある。奴らから野球を奪うチャンス。偶然を装い、選手生命を奪うチャンスが。
その後、続く打順は剣。気を失っている為、無条件でアウトカウント一つ増やして、ツーアウト。四番打者のナイルも三振に倒れ、攻守が交代。
「やっぱり、ここは一番元気なアタシがやるべきだと思う」
日佳留は言って、自分の足を触る。内太もも。自身の字、縮の字が刻印された部分。
「さっき超野球少女に目覚めたばっかりで、自信は無いよ。でも、他の誰も投げられるような状況じゃないよ。だったら私が剣の代わりになる」
だが、ラブ将軍が首を横に振る。
「こう言っては悪いが、内野守備を君に任せたいという気持ちの方が私は強い。打たれる分はどちらにせよ仕方ないだろう。だったら、私一人で内野を守るよりは日佳留君が守ったほうがいいはずだ」
「せやけど、将軍かて元気ちゃうやろ。マウンドに立てへんのやったら消去法で日佳留ちゃんやと思うわ」
「あの……僕がピッチャーをやるという可能性は?」
ナイルの一言。無論、全員が首を横に振って否定。
「申し訳ないがナイル君、危険な目に遭うリスクが高いマウンド上に君を立たせるわけにはいかない。それに、さすがにこの怪我でも超野球少女だ。素人よりはマシな球を投げるさ。日佳留君は言うまでもないだろう。君はピッチャーという選択の内に居ないんだ」
ラブ将軍が言って諭す。ナイルは、この言葉に逆らえなかった。
そして、いよいよ試合再開。ピッチャーマウンドには結局、内野守備を重視した結果、ラブ将軍が立つ。さすがの超野球少女でも、ここまでボロボロになれば剛球を投げることなど不可能。ラブ将軍の第一球は、ストライクゾーンを大きく外れた遅い棒球。元野球部員の面子でも、ストライクゾーンを通れば打てるレベルの球だった。
打者は四番。元部長。憎しみで壊れたか、引きつった笑みを浮かべ、ラブ将軍を睨んでいた。
続く第二球。ラブ将軍の球は真ん中高めへ。無論打ち頃の球、元部長は逃さない。白球は引っ張り気味、レフト方向へ上がる。たとえナイルが走ったところで間に合うはずもない。確実な長打コース。
(――クソッ、僕だけがお荷物か)
ナイルは悔しかった。自分だけ役に立たないことが。剣の助けとなってやれないことが。日佳留が超野球少女に目覚め、剣の為に野球をやる一方。ナイルはただの数合わせ程度に過ぎない。
走る。たとえ届かないとしても。少しでも、剣の為に。いや――自分の為に。
ナイルは日佳留と自分の違う部分を一つ理解していた。日佳留は、愛を剣の為のものだと考えていた。だが、ナイルは違う。愛とは自分のもの。愛に生きるとは己の為に生きるということ。剣を愛するということはまた、同時に己を愛することだと考えていた。
剣の為、というのは結局のところ方便。ナイルが真に抱くのは、自信が強く生きるということ。剣を愛しいと思ったのなら、己の力の全てでもって愛する。そうして強く美しく生きることこそが、己の為の行いだと思っていた。
そして今、剣の為、生命を削り野球道をひた走る友人達の為、己の全ての力でもって答えなければいけない。それが自分の為に生きるということ。美しく、強く生きていたいという願いを抱く、己の為の野球道。
――だが、ここで追いつけもしない自分の何が美しいというのか。何が強いというのか。例え泥に塗れようが、肌に傷を受けようが。結果も残せず、努力だけで己を美しいと、強いと言えるのか。
否、とナイルは否定する。自らの人生,わずか二十年分にさえ届かない薄い辞書を引いて、ノーという答えを出した。
戦いに全てを懸け、満身創痍になっても結果を出し続ける。そんな化け物、超野球少女を知ってしまった。理解せざるを得なかった。今までの自分では足りない。ここで白球を取れなければ、弱い人間だ。美しくもない。
ここで追いつけなくとも、以前なら満足していただろう。だが、今のナイルは違う。人生の辞書の最後には、豪快に書き綴られた、超野球少女の――野球人生の一ページ目が刻まれている。まだ足りない。この先を、自分自身の力で埋めていかなければならないと感じていた。
「僕は――今、追いつかなければいけないッ!」
引き返せない。これほどまでに情熱的で、熱く滾る人間を見て。今までと同じような、薄弱な意思で生きていくことなど出来るものか。
ナイルの魂が燃え上がる。刹那、眩い銀色の光が弾ける。超野球少女のオーラだった。そして、ナイルの両手の平に集まり『銃』の字を形作る。
「届くッ! いや、届く以外の結果など、存在させてはいけないんだッ!」
そして、ナイルは、前方へと飛び込むようにジャンプ。掌を地面に付け――強く跳ね上がる。体操競技のような動き。腕で地を弾き、身体を捻りながら、超野球少女の闘気を放出。その勢いで、ナイルはまるで弾丸のように加速し、まだ落下する前の白球へ追いついた。難なく捕球し、ノーバウンドでのキャッチに成功。ワンアウト。
「僕は――僕自身の信念の為に目覚めた。超野球少女として、強く美しく生きることを覚悟したんだ。これからは僕が居る限り、外野のどこにも白球が転がることはないッ!」
ナイルは、堂々と宣言した。自身の超野球少女として生きる為の覚悟を。その後、返球。真希、日佳留、ラブ将軍が、手を振って、ナイルの覚醒を歓迎した。仲間だと。目的こそ違えど、負けず劣らず魂を緋色に燃やす、情熱の輩であると。
四番、元部長がレフトフライに倒れ、アウトカウント一つで元野球部の攻撃は続く。ナイルの超野球少女としての覚醒が手伝い、勝負の流れは超野球少女軍の側にあった。
随分と楽な状況にはなった。だが、かといって手は抜けない。ラブ将軍は全力で投球し、身体が砕けようとも、この回を抑えてみせるという覚悟だった。
――だが、不意に異変に気づく。誰か、のそり、のそりとグラウンドへ向かって歩く姿が視界の隅に。方向は、己が軍、超野球少女チーム側のベンチ。
全員が気付いた。超野球少女軍も。元野球部軍も。一斉に視線を向ける。
そこに立っていたのは――深水剣。
髪も土に汚れ、乱れ、額から血を流し。宛ら赤い涙を零しているかのような様相で、剣は立っていた。グラブを付け、グラウンドに向かって闘志を瞳に宿し、マウンドを一直線に見つめていた。
「――剣君!」
ラブ将軍は言葉に迷った。もう大丈夫なのか。マウンドに立つ気なのか。まだ、休んでいた方がいい。様々な言葉を思案したが、先に剣が言ってしまう。
「代わってください、ラブ将軍。私が後は抑えます」
有無を言わさぬ物言いに、ラブ将軍も黙って頷く。
静まり返るグラウンド。マウンドで、青い闘気をちらつかせる剣。ラブ将軍は三塁側へ移動し、剣を見守る。同軍の誰もがそうだった。日佳留も、ナイルも、真希も。剣が何をしようというのか。分かっていながらも、不安で、見守らずにはいられなかった。
「……真希、受けてくれるよね?」
剣は問う。だが、真希は首を横に振る。
「なんでや。なんでそこまでしてマウンドに拘るんや。そんなボロボロになって、何の理由があってまだ自分を虐めるんや」
これは、一同全員が思うことだった。怪我を考えれば、超野球少女と言えども投球可能な状態ではない。それでも、現にマウンドに立っている。その理由は何なのか。
「私は、負けるわけにはいかないんだよ」
剣はぽつり、と呟くように。瞼を閉じて言う。
「本当なら、私は野球をやってはいけない人間なんだ。そういう業を背負ってる。だから、ここに立っていることは悪いこと。――でも、私は野球をやりたい。戦いたい。そして勝ちたいって思ってる。だから、私は生命を燃やす。業に逆らって生きるには、どこまでも熱くならなきゃ駄目だ。こんな怪我ぐらいでマウンドから降りるような、生温い生き方は許されない。例え死んでもここに立つ。それぐらいの覚悟でなきゃ、私の業は振り払えないんだよ」
「その業っちゅうもんが、何なのか教えてくれへんのか」
真希が、重ねて問う。だが剣は首を横に振る。
仕方ない。それが、剣の選んだ道。その肩に背負ったものに見合う生き方をする。だったら――受け止めよう。
真希は覚悟を決め、ミットを構える。
「来いや、剣! お前が業に殉死するっちゅうんやったら、付き合ったるわ! 両腕千切れようが、何百何千球やろうが、無理にでも白球投げさすからな! 覚悟しとけ!」
真希が叫ぶ。剣は真希の言葉に安心した。ようやく。今までの自分を清算することが出来る。己の魂が命ずるものに逆らい続けた日々。野球を否定し、遠ざけていた日々。それらとここで。ようやく向き合える。
全て、同じチームで戦う四人のお陰だった。真希が野球をやるよう願っていなければ、この場には立って居なかっただろう。ラブ将軍が暴行に屈することなく野球を続けなければ。その情熱に触れていなければ、己の情熱は燻り続けていたままだっただろう。日佳留、そしてナイルの超野球少女としての覚醒。解き放たれた闘気が、意識を失った剣を呼び起こした。真っ暗で何も無い中、二つの力が剣を立ち上がらせた。戦うという強い意思を持った輝きが剣の力となった。
全て、マウンドに立っているのは、仲間がいたからだった。助け合い、などと腑抜けたものではなく。それぞれが独立した情念に身を焦がし、生きるからこそ、剣もまたそれに並び、超えるような情念を抱くことが出来る。己が為の強烈な意思が、五人それぞれにあったからこそ、このマウンドに立っていられるのだ。
剣は白球を強く握る。これから、戦いが始まる。己の白球に魂を乗せて。肩に掛かる業を振り払う戦いが。