第三話
第三話
ベンチ側に五人が集まる。真っ先にラブ将軍が口を開いた。
「すまない真希君っ……! 私が判断を間違った。まさか奴らがここまでするとは思っていなかった。君の傷は私の責任だ。もし望むなら、君の気が済むまで私を殴ってくれて構わない」
ラブ将軍は言いながら、真希に土下座して頭を下げた。が、真希は困ったような表情で受け答える。
「ええって! 顔上げてくれや、ラブ将軍。あんたに頭下げられてもどうにもならんって。それに、軍の大将がそんなみっともないことしたらあのクソッタレ共にナメられてあかんわ」
「それもそうだな……償いは打席と塁上でやらせてもらおう」
頭を上げ、立ち上がるラブ将軍。バットを手にして、そそくさとバッターボックスへと向かう。
ラブ将軍は考える。恐らく相手は敬遠してくるだろう、と。だが、キャッチャーは座ったまま動かない。ピッチャーはマウンド上で足を上げた。
(勝負に出るつもりか?)
半信半疑ながらも、ラブ将軍も身構える。打ってやろう。彼方まで白球を運んでやる。そして放たれた白球を睨み、目で追った。気付いた時には――遅かった。
無情にも、勝負をする気ではなかった。白球は真っ直ぐ、ラブ将軍の頭部へ向かって直進する。油断していたラブ将軍の額に硬球が直撃。ラブ将軍は倒れる。
「そんな、ラブ将軍!」
剣がベンチから声を上げた。心配から駆け寄ろうとする四人。だが、ベンチから出る前にラブ将軍が立ち上がる。
「そういうことか……」
額から血が流れる。ラブ将軍の顔を。ユニフォームを。血が真っ赤に染め上げていく。
「どこまでも汚いな、外道共が! 敬遠どころか、意図的な死球か! 見損なった、野球人として最低だよお前たちは!」
怒鳴りつけるラブ将軍。だが、もう元野球部員チーム側も止まらない。どれだけ暴力に怒ろうが、復讐心は消えない。
「何と言われようが、私達はあんたら超野球少女を許さない!」
ショートの守備位置に立つ、野球部の元部長が声を張り上げる。
「お前らは他人の努力を踏みにじる畜生だ! どんな理由があるか知らないが、私らが続けてきた野球部がめちゃくちゃにされたのは事実だ。そんなの、許せるわけがあるか! たとえあんたらが正しかろうが、私は絶対に許さない。復讐してやる。あんたらも野球ができなくなるぐらいの酷い目に合わせてやる!」
第三者、観戦者の居ない勝負。どれだけ暴力的な手段に出ようとも、野球部員全員が口裏を合わせればどうとでも隠蔽出来る。となると、元部長の言うことはあまりにも現実的な話だった。復讐に怒り狂った集団を相手にするのだ。例え後々悪行を裁かれることになろうとも、今この場に邪魔が入りさえしなければ、復讐は最後まで成し遂げられるだろう。真希、そしてラブ将軍は、無残にも暴力に蹂躙されることになる。
「……許さない」
剣は声を漏らした。
「私、こんな野球は絶対に許さない……っ!」
怒りに拳を握る剣。微かに青い光が立ち昇る。
「まあ、抑えてくれや剣ちゃん」
真希が剣の肩に手を置く。表情は、剣同様険しい。だが、どこか落ち着いているようでもある。
デッドボールの為、ラブ将軍は出塁。まるで元野球部のどす黒い憎悪に抗議するかのように。血で汚れた姿のまま、堂々と塁上へ。
続く打者、阿倍野真希。
「――お前らがどんだけウチらを憎いのか知らんが、甘ったれるなよ。おどれら無力やからウチらに負けたんや。戦いに敗れたもんは全てを奪われる。居場所も、人生も、未来も。何もかも失うんや。それが勝負ってもんやろ。それぐらい分かっとるやろ。真剣勝負は、一球一打に精魂込める戦争なんじゃ! 雁首並べて突っ立っとる以上、奪われるだけ奪われるのは分かっとるやろうが! それで壊されたやのなんやの言うて、今さら被害者面するなよ。お前らも、ウチもおんなじや。奪い潰し合う加害者同士やないか!」
バッターボックスの中から、グラウンドへ向けて挑発する真希。これに、元部長が声を貼り上げて答える。
「黙れ! 恵まれて生まれてきた人間に何が分かるか! 必死に努力して、どうにか形にしたものが全部壊される。あんたらみたいな才能に恵まれた人間が、まるでゴミクズみたいに努力を皆殺しにする。生まれてからずっと奪う側でいた人間が、奪われる側の人間の気持ちなんか分かるわけない!」
「どこまでも阿呆か貴様ら。ほざくなよ! 才能に恵まれとろうが、奪われる時は奪われる。全ての頂点におる人間以外は全員同じ地獄の釜で茹だっとるんや。知ったような口を聞くな! お前らが当然のように持っとるものを捨てて、捨て尽くして、それでどうにか超野球少女やってんねん。ただ生まれてぼーっとしとっても才能ありゃあ勝てる、なんて大間違いやで!」
「ふん、それでいい。そうだよ。お前たちも奪われるんだよ。野球でどんだけ勝ち続けようが、最後には何もかも失う。私達と同じようにな。――やれェッ!」
元部長の絶叫。マウンド上のピッチャーが頷き、セットポジションを取る。真希は、恐らくデッドボールが来るだろうと身構えた。来ると分かっていれば避けようもある。
だが、予想は外れる。不意にピッチャーはプレートから足を外し、一塁側へ送球。牽制だ。負傷したラブ将軍はリードもしていないのに、何故。という疑問も一瞬。誰もがすぐさま意図を理解した。憎悪と悪意に満ちた元野球部の考えそうなこと。――牽制球を捕球するフリをして、ラブ将軍に暴行を加えようというのだ。
「逃げろ、ラブ将軍ッ!」
真希の叫び。無論、ラブ将軍も身構える。だが、何の意味があろうか。塁から離れることは出来ず、かと言って反撃することもままならない。殴られる覚悟以上の何が出来ようか。
牽制球は高めに飛ぶ。一塁手はこれをジャンプして取り、わざとらしくラブ将軍の足を狙って着地。脛をごりごりと削るようにスパイクが滑る。
「ぐぅッ!」
ラブ将軍は、痛みを堪える。暴力に決して屈するものか、と。情けない悲鳴を上げることを自身に許さない。
牽制はアウトにならず。だが、暴行自体は成立してしまった。一塁手がピッチャーへと返球し、再びセットポジションに。
今度こそ自分へのデッドボールが来るかと思った真希。だが、ピッチャープレートから足は外れた。再び牽制球。一塁手は塁から離れており、助走をつけてベースカバーへ。ボールを捕球しながら、逃げることの出来ないラブ将軍へ膝蹴り。崩れるように倒れこむラブ将軍。だが、それでも塁から離れなかった。執念で塁上に張り付く。
「やめろやァ! これ以上殴る必要がどこにあるんや!」
真希が叫ぶ。怒りと、悲鳴の叫び。だが、元部長は皮肉に笑う。
「いくらでも殴るさ。あんたたちから奪えるだけ奪い尽くす。これはそういう勝負だろ、 超野球少女さん?」
「こんなん勝負ですら無いわ! 殴るならウチを殴れ! 正々堂々、ウチを殺しに来いや卑怯もんが!」
「お前も後で殺してやる。あの女がボロ雑巾みたいになった後でな」
引き続き、牽制球。一塁手はやはり、わざと塁から離れていた。助走を付けての暴行。避けることも出来ないラブ将軍は、一方的に暴行を受けるのみ。そしてまたボールは返球され、また牽制。延々と繰り返される暴力行為。グラウンド上で異様なプレイが続く。
十数球ほどの牽制が繰り返され、ラブ将軍は立っていることも出来ないほど痛めつけられていた。
「こんな――ひどいよ。見てられない! 先生を呼びに行こうよ、剣!」
日佳留がベンチで訴える。だが、剣は首を横にふる。
「無理だよ。どうせ、グラウンドの周りで野球部員が見張ってる。そんなことしたら、日佳留やナイルさんまで酷い目に遭う」
剣は言いながら、元野球部員側のベンチを見た。明らかに人数が少ない。グラウンドに出ている人間と合わせても二十人程度。仮にも甲子園出場レベルの学校である深水学園で、この人数はあり得ない。グラウンドを通りかかろうとする人を遠ざける、また、グラウンドから逃げようとする人間を片付ける目的で、大勢が出払っているのだろう。いくら野球部の個別練習グラウンドだからと言って、一向に誰も通りかからないのは不自然。
「それに……」
剣は続けようとして、言葉に詰まる。
「それに? 何か理由があるっていうのかい?」
ナイルに促され、剣も観念する。押し黙り流そうとした言葉の続きを口にする。
「私、分かる気がするんだ。あの二人が、あそこまでして野球を続けようとする理由」
「そんな――」
わけが分からない、という顔。声を漏らした日佳留も、黙って話を聞くナイルも。同じような表情で剣を見た。
「今、もしも誰かに助けを求めたら、この勝負は二度と成立しない。あいつらに勝つ機会を失うんだよ。勝ち続ける未来に向けて生きる人間にしてみれば、一寸の敗北さえ一生の恐怖。ましてや、こんな暴力的な邪道野球に屈したまま、なんて恐ろしいよ。どれだけ自分の魂を縛り付ける鎖になるかも分からない。だから戦うしか無いんだ。例え一生野球の出来ない身体になるとしても。正面からぶつかって、自分の野球で勝つしか無い。そうでなきゃ、どっちにしろ未来は無いんだよ。だから、絶対に勝負を避けたりしない」
「おかしいよ、そんなの。剣の言ってることがアタシ分からない」
日佳留は首を横に振り、言う。
「そんな捨て身の生き方、気でも狂ってなきゃできっこないよ」
その言葉に、剣は頷いた。
「私もそうは思うよ。おかしくなきゃ、あんなになるまで野球は出来ない。でも、あの二人は狂ってしまうほど野球に全てを懸けてるんだ。だから出来る。だから――あいつら、元野球部はそこにつけ込んで暴力を振るう」
三人、俯いて顔も上げられない。陰鬱な空気。グラウンドでは、ようやく真希が敬遠されるところだった。三球大きく外して、飛び上がっても打てないようなところに投げ込まれた。最後の一球も、やはり同じコースへ。
「――行ってくるよ」
剣は言って、バットを手にする。
「剣、行かないで!」
日佳留が剣の手を取って引き留めようとする。だが、剣は日佳留の手を叩いて払いのけた。
「行くよ。私は、あいつらを許さない」
それだけを言って、グラウンドへと向かった。
真希が一塁。負傷して歩くことにも苦しむラブ将軍が二塁。例え満塁になったところで、足で点を入れるのは不可能だろう。
ピッチャー、第一球目。悪意に満ち溢れた放球。軌道は真っ直ぐ――剣へと向かってくる。
二度目ともなれば予測できる事態だった。剣は白球を寸でのところで回避。どうにかデッドボールを免れる。
「そんな!」
ベンチ側から叫び声。日佳留だった。
「なんで剣まで報復されるの!」
怒りと涙に震える声。剣が傷つけられようとしている現実が響いている。
「剣サンは貴方たちに何もしていないだろ! 何故剣サンまで巻き込むんだ!」
続けてナイルが怒りの声を上げる。これに、元部長が反論する。
「部外者は黙ってろ! これは私らと超野球少女の問題だ。超野球少女なら全員同じだ。許すわけにいかない。だからこの女もボロクズにしてやる! 例外などあるものか!」
見さかいの無い、醜い憎悪。日佳留もナイルも、これを止める手立てを持たなかった。言い返してやりたいのも山々だが、だからと言って剣が無事に出塁出来るわけではない。無意味に試合を長引かせるのは、負傷したラブ将軍にとって毒。悔しさを噛み締め、押し黙る。
「……貴方たちは分かってない」
不意に、剣が口を開いた。静かで、怒りよりも、悲しみに偏った声。
「こんなことをして何になるんですか。奪われる側の人間だと言うなら分かるでしょう。奪われることの苦しみが。なのに、何でこんなことをするんですか」
「それはお前らの仲間が肯定したことだ。勝った人間が負けた人間から奪う。それが勝負の世界だと言ったのはあのキャッチャーだ」
部長の反論に、剣は首を横に振る。
「そんな話じゃない。奪う側に居て、貴方たちは平気なのかと聞いているんです。苦しい思いをしたんですよね。だったら奪うということがどういうことか分かっているはずです。それでも、こんな邪道野球で私たちから勝利をもぎ取ろうというんですか」
「知ったようなことを言うなよ! お前も突然現れて私らの練習、努力を全て否定した悪魔の一人だ。分かるわけがあるか、この憎しみが。青春を奪われた絶望が、地獄が理解できるはずがあるか!」
「地獄を知らないのは、貴方たちですよ」
剣は、変わらず冷たい声で語り続ける。
「地獄は、奪われることだけで出来ちゃいない。奪うことも地獄なんだ。貴方たちは自分から地獄に落ちようとしている。邪道の先にあるのは勝利じゃなく、地獄へ続く奈落ですよ。第一、貴方たちはまだ地獄にすら落ちていない。それでもまだ邪道野球を続けるなら、馬鹿だとしか言えません」
言葉を受け、元部長は怒りのままに反論を叫ぶ。
「バカはお前だ! 奪うことも地獄だというなら、とっくに人間はみんな地獄の中だ!」
「そうですよ。人は、生きる限り何かの勝負をしなければいけない。奪うことも、奪われることも繰り返して生きる。人生は、人により程度は違っても、みんな地獄だ。私たちは誰でも、苦しい思いをしながら生きる」
言うと剣は、バットを掲げる。そして、遠く空の彼方を指すようにヘッドを向けた。ホームラン予告。
「だからこそ、正道から外れた奪い方をしたら駄目なんだ。邪道邪悪に落ちたら。自分だけが地獄に生きると勘違いしたら。そこからが本当の地獄の始まりなんだよ」
剣は語り終えて、バットを構える。これからデッドボールを投げられるであろう。にも関わらず、打つ気力を漲らせ、戦う意思の宿った瞳でピッチャーを睨む。
元部長は舌打ちをする。どうせ才能に恵まれ、生まれてから一度も理不尽な敗北を経験したことなど無い人間の言うことだ。戯言に他ならない。
やれ。とピッチャーに命じる。結果は変わらない。例えデッドボールを避けようとも、四球で塁上に出れば暴力に抵抗など出来ない。ラブ将軍が負傷した状態で三塁が埋まっていれば不可能なのだ。故に真希も歩かせた。生意気に講釈を垂れた二人、纏めて身を砕いてやろう。
部長の計画に従い、剣を狙っての放球。剣は打つ気満々でテイクバック。誰もがデッドボールを確信した。このスイングも、ホームラン予告も。今まで真希やラブ将軍がやってきたような、抗議の一つと考えられていた。
だが――剣は違った。
テイクバックから前足をバッターボックス一杯外側に開いて踏み込む。それと同時に背面へと倒れこむ。まるで白球から逃げるような動き。だが違う。体幹はしっかりと維持したままの倒れ込み。故に、まだバットはスイング出来る。
白球は死球を狙って放たれた為、ちょうど倒れこむ剣の正面を通過する。これが狙いだった。前足を外へ運び、後ろへ倒れ込むことで擬似的に白球をインパクトゾーンへと誘いこんだのだ。
無論、剣も超野球少女。体勢を崩したからといって空振りするような人間ではない。バットは見事に白球を捉えた。そのまま勢いを殺さず、地面を殴るようにスイング。後ろ足を浮かせながら、バットで地面を叩いた瞬間に手を離す。地面からの反動と、バットを離すことで運動エネルギーを制御して身体を起き上がらせる。
白球は伸びていく。外野の頭を超え、ワンバウンド。そして仮設フェンスの外側へと入り込み、ツーバウンド。レフト線ギリギリのエンタイトルツーベースだ。
唖然。元野球部員全員が、信じられないという顔で白球を追い、そして剣を見た。
「――進んで! 真希、ラブ将軍! これで一点だよ!」
剣は笑顔だった。真希とラブ将軍に言いながら手を振り、二塁まで進塁していく。真希は二塁を少し離れて剣の到着を待った。
「ホンマ、ようやってくれるやないか! あんたホンマに最高やで剣!」
真希は喜びのあまり、剣にがっしりと抱きつく。
「もう、そんなことより進塁。あと、報復は来るだろうから覚悟してね。本当はホームランで全員無事に帰りたかったんだけど」
言いながら。剣はラブ将軍の方へ顔を向ける。ちょうど、どうにか歩いてホームベースを踏んだところだった。日佳留とナイルが肩を貸し、ベンチへと引き返していく。最中、ラブ将軍は剣を見て、笑う。やってくれたな、剣君。今にもそんな声が聞こえそうな表情。
「とにかく、ここからだよ、真希。私も真希も、これからあいつらの報復を受けることになる。でも、勝負を捨ててわざと盗塁死するつもりも無い。――でしょ?」
「へっ、よう分かっとるやないか」
「まあね。でも、もう何の策も無い。だからここからが本番だよ。どうやってホームまで無事に生還するか」
真希は剣の言葉に驚く。ホームまで生還する。それはつまり、点を取るつもりでいるということ。この状況で、まだ点を取る意思を失っていない。真希でさえ、無事に『ベンチ』へ生還することを考えていた。
最高や。愛しとるで、剣ちゃん。真希は頭の中に言葉を留め、三塁へと向かう。