第二話
第二話
少女は、名前を深水剣と言う。深水が姓で剣が名。高知県室戸岬沖に建設された海上研究都市『深水島』に住まう高校一年生。深水財閥と同じ姓を持ちこそすれども、剣の家系に権力は無い。姓を捨てるほど遠くもないが、一族の末端である。と、剣は父から聞かされている。父は名を藤四郎という。深水財閥近縁企業の研究者であり、男手一つで剣を育ててきた。
「どうしたんだ、剣。元気ないぞ」
藤四郎の言葉に、首を横へ振る剣。
「ううん、眠いだけだよ」
否。剣は、確かに気落ちしていた。昨日の放課後、野球部グラウンドでのこと。意地を張って野球をしてしまったことはまだ構わない。だが、大切な友人である日佳留に隠し事がばれてしまった。中学一年の冬に深水島へ移り住んでからの親友。気まずくなるのは避けたいが、今更自分からどうにか出来ることも無い。今日会って、日佳留がどんな反応をするか。考えるだけで朝食もぎとりと重くなる。ちなみに焼き魚だ。
「何か困ったことがあったら、何でも俺に言うんだぞ。いいな、剣?」
「うん。分かってるよお父さん」
「おはよ!」
日佳留は至って普通だった。いつもの調子での挨拶。剣は安心して、片手を上げておはよう、と返す。
「ねえ剣」
「なあに?」
「昨日はごめんね」
心配など、必要なかった。剣は途端に自分が馬鹿だと思った。そして、日佳留のことを大切にしようとも。
「ううん。私も、ごめんね」
互いに謝りあう二人。日佳留は、無理に剣を野球の方へ引っ張って行ったこと。剣は隠し事のこと。
これでチャラ。二人は並んで歩く。学校に向かう。
教室に着くと、見慣れた人物。
「やあ、剣サン。おはよう!」
そこに居るのは、日本人離れした顔立ちの少女。
「おはようございます、ナイルさん」
剣は呆れたような口調で言う。この少女、名を船原ナイルと言う。日本人とメキシコ人のハーフで、高校二年生。剣のことが好きで、毎朝口説きに来る。日佳留はこれを快く思っておらず、いつも二人は対立する。
「今日も剣サンは可愛いね。君は百合のように気高い花だ。何度僕が声をかけたってそっぽを向いたまま。気があるふりすらそぶりに見せてくれない」
「はぁ。まあ、だって気がないですから」
「そんな君の心を僕の色で染めてあげたいな。どうやれば、君は僕の言葉に頷いてくれる?」
ナイルの様子をみかねて、日佳留がついに声を上げる。
「もう、ナイル先輩! 何度来たって無駄ですよ。剣は渡しませんからね!」
「まあまあ、そう言わないで。君がなんと言っても、全てを決めるのは剣サンだからね。僕と一緒になりたい時は、どんな妨害だって無駄に終わるよ。君も同じさ」
「あーもうっ! アタシの剣がナイル先輩なんか選ぶわけないもの! ほら、剣は後ろに隠れて!」
「うん」
言われたとおり、日佳留の後ろに控える剣。
「くたばれ!」
日佳留はナイルに向けて蹴りを入れる。陸上部で鍛え上げた足からの一撃。平凡な女子ならば耐えられないだろうが、相手のナイルも運動部。体操部でレギュラーを務める実力者。避けもせず、受け止めて日佳留にウインクを返す。
「僕はくたばらないさ。剣サンの愛を手に入れるまではそうそう死ねないからね」
言って、ナイルは日佳留の足を引っ張り、投げ飛ばす。日佳留も陸上では一年生でレギュラーを張る天才。空中で体勢を立て直し、綺麗に着地。一連の動きを見ていたクラスの野次馬から拍手喝采。
「――なんや、楽しそうやな!」
不意に、聞きなれない方言が教室に飛び込んでくる。声の方へ、全員が視線を向けた。そこには見慣れぬ生徒。いや――剣と日佳留は知っていた。昨日の放課後、野球部で見た超野球少女だ。
「あぁ~! アンタ、昨日の超野球少女!」
「おっ、なんや分からんけど知っとってもらえたみたいやな」
日佳留の反応に驚く真希。昨日剣と一緒に居た少女が日佳留だと気づいていないのだろう。
「で、何しとるんや?」
「剣サンを二人で奪い合っているんだ」
ナイルが言って、日佳留を指す。真希が剣に確認の視線を送ると。剣も頷いて、ナイルの言うことが真実であると伝える。
「なんや、ホンマにおもろいことやっとるやないか」
言って、真希は剣に近寄り、肩に手を置く。ぽん、と優しく触るように。
「せっかくや。その勝負、ウチも混ぜてもらおうか!」
その後、三人の話し合い――というよりもいがみ合いの結果。放課後、何かしらの方法で正式に勝負をして、その結果如何で剣を自由にして良い、ということに。
「なんで私が同意もしてないのに……」
剣はぼやく。場所は食堂。一人で昼食。放課後のことを考えると憂鬱になるが、今は食を優先。ぼやきもほどほどに、黙々と食べる。品目は学食の定番、期間限定の中華そば。あまり美味しくない。
「――おっ、剣ちゃん!」
不意に、剣を呼ぶ声。同時に肩を叩かれる。顔を向けると、そこには真希が立っていた。
「隣座ってええか?」
「やめてもらえますか」
「じゃあ座るわ」
真希は無理に隣へ。真希の昼食はからあげ丼。学食のメニューの中では比較的美味しい方。
「ところでな、剣ちゃん。ちょっとお願いがあるんや」
一方的に話し続ける。剣は話を聞きたくないので、返答せずにラーメンを食べる。美味しくない。
「野球部入ってくれへん?」
単刀直入。剣は口の中のものを咀嚼し飲み込むと、即座に返答する。
「嫌です。もう二度と野球はやりません」
「なんでや。あんたも超野球少女やろ?」
「野球は嫌いなんです」
「嫌いやのに、わざわざグラウンドに立って勝負したんかいな」
「貴方が危ないってことを認めなかったからですよ」
「そんなめちゃくちゃな。嫌いなんやったら、そんなんこだわらんでええやろ。口で適当言うても、取り繕えへんもんがあるで。あん時の剣ちゃんを見たら誰でも分かるわ。あの拘りよう、あの魔球。見りゃあ分かる。どんだけマケて見積もったところで、剣ちゃんは野球のこと気になってしょうがないんやろ」
鋭い指摘。だが、当然の結論でもある。剣は後悔する。あの時、自分の拘りを捨てられなかったから事態が厄介になってしまった。嫌いだ、という嘘は通用しない。かといって、全てを話すことも出来ない。
「……私は、野球をやってはいけない人間なんです」
言ってラーメンを食べる。もう話したくないという意思表示。だが、真希は構わず言葉を浴びせかける。
「やったらあかんってどういうことや。そんなことあるかいな。野球やりたいんやったらやりゃあええんや。誰かに止められとるっちゅうことか? 親に辞めろとでも言われたんかいな。そんなもん無視せえよ。本当は、剣ちゃんは野球がやりたいはずやろ。どんなしがらみがあろうが、構うな。放りたいだけ白球を放れ。ウチが全部受け止めたる」
「ごめんなさい。それでも、私は野球はやれません。そんなこと、出来るはずが無いんですよ」
剣は泣きそうな、震える声で言った。どうも様子がおかしい、と真希も悟る。これ以上要求したところで逆効果だろう。
「……すまんな剣ちゃん。そんなに無理なんやったら、しゃあないわ。今回は諦める。でもな、もし野球がやりたいっちゅうんやったら、ウチはいつでも味方になるで。剣ちゃんがボール投げるんやったらウチが受ける。投げへんのやったら、しゃあない」
それで話は終わりだった。その後、昼食が終わるまで。真希も剣も、一言も発さなかった。先にラーメンを食べ終えた剣の一言が、沈黙を破る。
「……あんまり美味しくない」
これに、真希が吹き出す。
「そら災難やな」
「まあ、分かってて注文したんですけどね」
「なんでや。不味いんやったら頼まんでええやん」
「だって期間限定ですから。つい頼んじゃうんです」
そんなやりとりをして、二人は別れた。
放課後。剣は日佳留とナイルに囲まれ、真希の指定した決闘の場所、野球部グラウンドへと向かうところ。
「アタシは、剣のことどうしようとか考えてないよ? ただ他の二人から剣を守りたいだけ。私が勝てば今まで通りで、しかも余計な二人から手出しもされなくなる。だから剣は心配しなくていいよ♪」
「うん、まあ日佳留に関しては心配してないけど……他の二人が」
「何故なんだい剣サン! 僕はこんなにも君のことを思っているのに。その僕がこの勝負に勝ったからといって、無理に君へ迫るわけがないさ。まずは邪魔者に消えてもらって。それからゆっくり、君に僕の良さを教えてあげるのさ。心にも、身体にもね」
「ナイルさんはやっぱり負けて下さい」
「何故!?」
やりとりを交わしているうちに、野球部グラウンドへ到着する。見ると、グラウンドの隅で真希と愛子が何か言い合いをしているようだった。三人はそこへ近づいていく。
「――おお、来たか! すまんな、ちょっと厄介なことになってしもうたんや。勝負はまた今度にお預けってことでええか?」
「厄介? どういうことかな」
ナイルが話に割り入る。
「いや、実は来週、他県の高校と練習試合する予定やったんやけどな。急にウチの部員が全員揃って退部届出しおったんや」
「退部届? なんでそんな急な話が……」
「――反抗だ」
愛子が口を開く。
「私や真希君のような人間に部を荒らされ、最後の夏という青春を壊された腹いせ、と言ったほうがいいだろう」
「そんで、今野球部は二人っきりっちゅうわけや。加えて元野球部の面々からも勝負突きつけられてな?」
真希は肩をすくめてため息を吐く。
「今日この後ウチらと元野球部員で試合して、勝った方が負けた方の言うことを何でも聞く。そういう条件で、野球の試合を申し込まれたんや。それでこの人と言い合いになってな?」
言って、愛子のことを指す。愛子はふん、と鼻で笑って。
「言い合いも何も無い。こんな勝負受ける必要も無い。人員はどうやってでも補充可能だ。あんな愚か者に拘る必要は無い」
「そんなこと言うても、さすがに二人じゃ来週の相手はキツイで! そもそも全打席敬遠されたら勝負にもならへんやろ。せめて4人は必要や!」
愛子と真希の言い争いが続く。見かねた三人がその場を離れようとしたところ。誰かがグラウンドに近づき、声を上げる。
「勝負の時間だ! 答えを聞かせてもらおう!」
そこには、野球部のユニフォームに身を包んだ人物。元野球部員の代表者――恐らく部長だろう。
代表者はバットを片手に真希へと近づいていく。ただ野球をするだけにしては妙に殺気立っていて、雰囲気がおかしい。
「ちょっと待ってくれや、部長さん。こっちかていろいろ考える時間が欲しいんや」
「いい加減にしろ! そう言われて猶予をやってから、もう半時間は経った。勝負するかどうかぐらいでそんなに悩むことがあるか!」
乱暴に、バットで地面を殴りつける部長。
「そう怒らんといてや。ウチかて勝負は受けてやりたいんやけど……」
「だったら早く準備をしろ!」
部長は怒りのまま、バットを振って真希を威圧する。今にも殴りかかろうか、というような勢い。これに反応したのが――剣だった。
「あの、すいません」
言いながら。剣は距離を詰めて、バットを手で握って抑える。
「そうやって、バットを振り回すと危ないですよ」
「関係無い奴が口出しするな!」
怒りに狂った部長は、剣を力づくで振り解く。これが気に入らなかったようで、剣は部長を睨む。思いもよらない反抗に、部長はなおさら怒りに震える。
「関係があればいいんですね」
言って、剣は真希の方へ歩み寄り、腕を取って組む。
「今から、野球部に体験入部します。それで――試合の申し入れ、受けます」
と言ってみせた。驚いたのは部長だけでなく。真希も愛子も、日佳留もナイルも。場の全員が呆気に取られる。
何が剣にここまで意固地な態度をとらせるのか。理屈がさっぱり分からない。だが、味方には変わりない。真希はそう考えて、ぐいと剣を引き寄せ抱擁する。
「ホンマか剣ちゃん! よう言うた! ウチ嬉しいわ。昨日からずっと思うとった。君と野球やれたらどんだけ楽しいかってな!」
「うん、とりあえずよろしくお願いします」
言いながらも、手早く真希の抱擁から抜け出す剣。
「でも、野球をやりたくて味方したわけじゃないですからね。私はあの部長さんが気に入らなかっただけです」
「――それが剣サンの気持ちってことだね」
不意に、ナイルが口を挟む。
「だったら、僕は剣サンの味方をやらせてもらうよ。つまるところ、よろしく、ということだね真希サン」
「ホンマか! そら助かるわ。三人じゃあさすがに厳しいもんがあるからな」
「だったらアタシも! 剣と一緒に野球するよ」
続いて、日佳留まで名乗りを上げる。盛り上がる真希、ナイル、日佳留の三人。ワイワイと、状況に関わらず騒ぎ出す。
剣は、味方の誰のことも眼中に無かった。静かに、部長を睨みつける。剣の内に秘めた強い感情に押されてか。部長も怒りのまま態度を決めるようなことはせず、冷静に通告する。
「……決定だ。すぐに支度をしろ」
言い残し、部長は五人に背を向け、グラウンドから立ち去って行った。
一度、五人は部室に集合する。野球をするため服を着替え、作戦会議と顔合わせ。
「とりあえず、名前も知らんってのは面倒やからな。自己紹介からいこうか」
最初に名乗り出たのは真希だった。
「ウチは阿倍野真希。高校一年生や。超野球少女で、キャッチャーやっとる」
よろしくな、と片手を上げて話を締める。真希は愛子の方へ視線をやって、続けるように促す。
「私は越智愛子。私も一応、超野球少女ということになる。野球部プレイングマネージャーで、三年だ。これから試合となるので言っておくが、私のことは先輩、監督、マネージャー、ましてや名前そのままに越智だの愛子だのと呼ぶな」
「えっ、じゃあ何て呼べばいいんですか?」
日佳留が間の抜けた声で尋ねると。愛子はこれでもかというぐらい不敵な笑みを浮かべて答える。
「将軍だ。名前の一文字、愛を取ってラブ将軍と呼ぶのがなお良い。諸君は少なくとも、今後私を呼ぶときは必ず将軍、あるいはラブ将軍と呼ぶように」
「は、はい……」
引き気味の日佳留とナイル。呆れ顔の真希。そして、どうでも良さげな剣。次は君だ、と愛子――もとい、ラブ将軍が命ずる。剣は、はいと答えて簡素に名乗り上げる。
「深水剣です。一年です」
言って、すぐに視線を隣へ。日佳留の方へ送る。これを受け、頷いてから口を開く日佳留。
「アタシは剣と同じクラスの、宇佐見日佳留です。もう陸上部に入ってるので、野球部は今日お手伝いするだけになると思います。――ね、剣?」
日佳留は剣に確認する。剣も野球部に入るつもりは無いのだろう、と。剣も同じ気持ちだ。頷いて、日佳留の問いに答えてみせる。
「最後は僕だね。船原ナイル。二年だよ。僕も体操部だから、野球部に入部するわけじゃない。そこのところよろしくね」
「え、あんた二年やったんか」
「今更だね真希サン」
こうして、全員が名乗り終える。ここからが本題。どうやって野球部の九人チームと戦うか、という作戦の話。
「では諸君。まずはポジションの話から始めよう」
ラブ将軍が早速、といった様子で話しだす。
「言うまでもないが、真希君はキャッチャーだ。そして、ピッチャーは剣君に頼もうと思う。それで良いね?」
「はい、そのつもりです」
どういうこと? と、ナイルが日佳留に小さい声で尋ねる。が、この件は日佳留もあまり話したくはない。まあまあ、と押し留める。
「そして私が二三塁周辺を守る。サードとショートの守備範囲を一人で担う。一二塁間、セカンドは日佳留君に守ってもらう。無論最低限しか期待していない。ファーストのベースカバー、センター方向寄りの遅いゴロの処理は全て剣君に任せようと思う。そして外野だが、こればかりはカバーしきれない。ナイル君に全域を守ってもらう。何もアウトを取れと言うわけではない。一打ランニングホーマーだけ防いでくれれば十分だ。白球を拾ってこちらに返す。それに専念してくれ」
ラブ将軍の指示を受け、日佳留とナイルも頷く。これで守備の話は終了。続いて、攻撃の話。
「最後に、打撃についてだ。打順は一番が私、二番が真希君、三番が剣君。四番にナイル君、五番に日佳留君だ。五番まで回ったら、そのまま一番まで戻る。打者が塁上に居て打てない状況にあるのであれば、アウトカウントを一つ増やして次のバッターへ進む。今回はこういったルールに則って試合を行う。故に、三番までで点がとれなければほぼ自動的にチェンジになったも同然だ。恐らく向こうは勝つために手段を選ばない。三番までを敬遠してくるのも自然な話だ。そうなれば、未経験者の四番五番にヒットは望めなくなる」
「せやな。それで、どうやって点取るつもりなんや?」
「ふん。一点にヒットは要らん。奴らが満塁になるまで敬遠してきたところで、ヒットエンドランを仕掛けてやればいい。例えナイル君や他の誰かがアウトになろうとも、私が生還すれば一点になる。例え二人がボールに触れなかろうが、我々の足と体力なら無理やりホームに帰ることも可能だ」
「なるほどな。そら確かにそうや」
「以上が今回の試合における作戦内容だ。各人、役割を忘れるな!」
ラブ将軍の呼びかけに、一同がはい、と威勢よく答える。作戦の伝達は終わった。野球部部室からグラウンドへと向かう。
グラウンドに整列し、礼。先攻は、元野球部チームから。
「剣ちゃん、頼むで。例の球、投げてくれや」
「でも、あの球は連投するのは厳しいから。一回に一球、多くても二球が限度かな」
「そうか……それなら仕方ないな。一発目からアレ受けて見たかったんやけど。とりあえず、ここはバシっと抑えてさっさと終わらそか!」
剣と真希がマウンド上で会話する。真希がキャッチャーボックスへ入り、プレイボール。
独特なモーションから入る、剣流のアンダースロー。放たれる球速は百四十を超える速球。打者はかすりもせずに空振り。
真希は続いて、内角低めの球を要求する。剣も頷く。振りかぶり、第二球。白球は見事に真希のミットへと吸い込まれていく。
――だが、次の瞬間だった。真希の頭蓋を強烈な衝撃が襲う。激痛、視界の暗転。それでも白球をこぼすまいと、真希は必死に白球を抱え込んだ。前のめりに倒れこみながらも、ボールは落とさない。
原因はバット。打者のスイングが不自然な軌道を泳ぎ、真希の頭部をインパクトした。防具を付けている為、致死の外傷こそ無かったものの、それでも負傷、退場までありうる。
「真希さん!」
信じられない事態に、剣が叫び、駆け寄る。ラブ将軍、ナイル、日佳留は、唖然としたまま動けなかった。
剣は真希の状態を確認する。呼吸があり、うめき声を上げている。一応無事だったとはいえ、苦しそうだ。何故こんな酷いことを。理由を求めるように、打者を睨む。
「被害者ぶるなよ」
打者は言う。
「お前らは人間じゃない。人間の敵だ。生まれつきの才能があるんだか知らないけど、それで私らの三年間を無駄にしていいわけがあるか。当然の報いだろ。その罪を、この手で償わせてやる! 覚悟しとけ!」
「そんな、だからってバットで殴っていいわけないじゃないですか!」
剣の反論が出た瞬間。元野球部員側ベンチから罵声が無数に飛び交う。てめえらが人間なわけねえだろ。殺されないだけありがたく思え。黙れ化物。理不尽な非難を轟々と浴びて、剣は怒りに打ち震える。
「……気にすんなや、剣ちゃん。大丈夫や」
不意に、真希が声を上げる。ゆっくりと、苦しそうに起き上がりながら。剣の目を見て笑いかけた。
「でも、バットで殴られたんですよ! 試合どころじゃないです!」
「ええから」
真希は剣を手で制止し、打者と正面から対峙する。両者睨み合う。先に口を開いたのは真希から。
「覚悟すんのはお前らやで」
言ってから、胸ぐらを掴む。打者を威圧しながら真希は続ける。
「何が三年間や。ふざけたことぬかすなよ。こちとら一球一打に人生懸けとんねん。三年だか何だか知らんが、ちまい数字出してイキんなよボケナス!」
怒鳴りつけながら、真希は打者を突き離す。強く力を込めたわけでもなく、軽く押し返す程度のこと。だが、打者はたじろいでいる。真希の鬼気迫る勢いに押されていた。
「お前らがそういう野球やるっちゅうんやったらかまんわ。好きなだけやりゃあええ。ウチを殺すつもりで来いや! 正面正直に、野球で叩き返したるわ!」
最後に言って、真希は剣へ向き直る。
「すまんな剣ちゃん。ほら、ボール」
剣へ直接、白球が手渡される。剣は心配で顔を悲しく顰め、真希を見返し、提言。
「真希さん、危険です。この試合はもうやめましょう」
だが、真希は首を横に振る。
「ホンマにすまんな。でも、ウチはやめへんで」
「どうしてですか! バットで殴られるだけじゃない、他にどんなやり方で傷つけられるか分からないんですよ! 危険すぎます!」
「そんなん分かっとるわ。でもな、もう背中向けられへんねん。あいつらしょうもない奴らやけど、しょうもないなりに全部掛けて突っ込んできとるんや。叩き潰してやらにゃ酷な話やで。それが勝負の世界っちゅうもんやろ。剣ちゃん、あんたも超野球少女なら分かるやろ。どんだけ昔の話かしらんが、あんたも野球で真剣勝負をしとったはずや。勝負ってそういうもんやろ。あいつらがあそこまでして、外道に落ちてまで勝とうとする理由が分かるんちゃうか?」
「それは……」
剣は自分の心に聞く。確かにそうだ。剣は超野球少女。野球経験もある。勝利にこだわる人間の気持ちも十分すぎるほど理解できる。無論、外道に落ちることを剣は良しとしない。だが、落ちることで勝利しようという、意地のようなものは誰にも共通なものだろうと考えていた。時に勝ちを得るため、人は邪道正道を選ばない。一歩選び違えただけで、誰もが邪道を走ることになるのだ。
「でも、だからって許せない! あんな野球、私は認めない!」
「そうや。だから叩き潰したろうや。ウチらの力でな」
言うと不意に、真希は剣を抱きしめる。そして、剣の背中を擦る。
「あんたの背負う、水の字に誓え。ウチも右肩の風の字に誓う。野球に生きるんや。野球に生きて野球で死ぬ。それだけのことに魂懸けようや」
剣は、心臓が脈打つのを感じた。野球に生きる。魅力的な言葉であった。だが、剣にも野球をやるわけにはいかない理由がある。本心は、野球をやりたい。しかし無理だ。剣は自分が野球をやるわけにはいかない、と考えていた。
だがそれも、真希の言葉を聞いて変わる。自分は野球から逃げられない。現に邪道を見過ごすことが出来ず、ダイヤモンドの上に立っている。
「……分かった。投げるよ。私、野球をやる」
認める。剣は白球を強く握る。言葉を聞いて安心したのか、真希は剣から離れ、キャッチャーボックスへと戻っていく。
「次からはスイングも避ける。せやから気にすんな。剣ちゃんは思いっきり投げてくれたらええ」
真希の言葉を信じ、剣もマウンドへと戻る。試合再開。
剣の第三球。青い光の煙が立ち昇る。揺らめくそれは、剣の超野球少女の力の証。これから、魔球を投げようという証。
「真希さん。私、投げるよ。今投げられる精一杯の球『ディープショット』を」
言ってから。剣は投球に入る。胸に含むような深いテイクバックの後、放球。変わらぬ剣流アンダースロー。そこから放たれる魔球に宿る蒼光が軌跡を追う。白球は唸りを上げ、轟々と砂煙を立ち上げ、地面を這うかのような低い軌道を進む。打者の眼前で強烈に変化。立ち上り、膝元低め一杯へ決まる。飛沫のように光が弾け、散乱する。打者も必死にスイングするが、まるで狙いも定まらず虚しく空振り。結局白球は、ばぁん、と叩きつけるような音を立てながら、ミットに収まる。空振り三振。ワンアウト。
「――よっしゃあ! 剣ちゃん、最高やでホンマ!」
言いつつ返球。真希は喜び、打ち震えた。この球だ。この、おぞましくすらある魔球を受けたかった。並みの超野球少女では及ばないレベルの魔球。鬼や悪魔でも宿っているのではないか、というぐらい。とにかく、この魔球には剣の鬼気迫る感情が宿っていた。ミットの中が熱く感じられる。重く、熱く、速く。そしてえげつない。打者を何が何でも抑えてやろう、という執念が宿っている。
真希は嬉しかった。剣はやはり、野球を愛している。正確には、野球で勝つことを溺愛している。今の魔球は超野球少女だからと言って投げられる球でもない。それを安々と成し遂げてしまうことが、何よりもの証拠だ。自身もまた、野球を愛する者として。骨肉の一片も残さず全てを捧げられる人間として。剣の情熱を理解出来た。そして、その情熱に心が震えた。人生で初めての仲間かもしれない。共にグラウンドで燃え、戦う人間が欲しかった。例え生まれつき才能に恵まれた超野球少女とはいえ、真希ほど人生を野球に懸ける者はやはり多くない。心根が似通っているかともなるとさらに少ない。だが、真希は出会えた。確信した。剣と自分は同じような情熱を抱え、野球に全てを捧げられる数少ない仲間であると。世界中を探して見つかるとも限らないような同胞だと、ただ一球の魔球を受けることで理解した。
続く打者がバッターボックスに入る。また真希をバットで殴るつもりなのだろう。投手である剣よりも先に、真希の方へ視線をやる。先程の打者はディープショットと称された魔球の威力に腰が引け、まるで真希を殴る余裕も無かった。だが、あの魔球は一回に一球が限度。次は積極的に殴ってくるだろう。真希は覚悟し、避ける算段を始める。
剣が足を上げる。同時に――青い光。蒼炎が立ち上り、再びの魔球が放たれる。二連続でディープショット。打者はまるでスイングする余裕すら無く。無情にも、白球は真希のミットへ吸い込まれていく。まずはワンストライク。
(一回に一球……まあ、多くても二球とは言っとったけど、大丈夫かいな)
不安に思いながら、剣へと返球する真希。
そして、続く投球。足が上がると、三度。蒼炎が立ち上がり、場を包む。真希は気づいた。剣は無理にでも魔球を投げ続けるつもりだ。しかも、今までで最も、グラウンドに蒼が溢れ荒ぶっている。
放球。魔球ディープショット。三球連続での魔球に驚きながらも、真希は落とさずしっかり捕球。すぐさまタイムを宣言し、マウンドへと駆け寄っていく。
「剣ちゃん! こんな放って大丈夫なんかいな!」
「大丈夫だよ。真希さんと比べたら、どうってことない。バットで殴られるわけでもないんだから、これぐらいはやるよ」
「せやけど、一試合で何球投げれんねん。十球とかそんなもんやないか?」
「勝つまでなら百球でも二百球でも投げるよ。あんな奴らには絶対に負けたくないから。真希さんを殴らせたりしない。あいつらが真希さんを殴るのが目的なんだったら、そんなこと絶対にやらせない。それが私の勝利条件だよ」
さあ、戻って。剣は笑顔で真希を促した。真希も仕方なくキャッチャーボックスへ戻る。何を言っても剣は魔球を投げ続けるだろう、と考えた。真希自身、何を言われても試合を辞めないと言い張ったのだ。剣のディープショット連投を制止させられるはずがない。
その後、剣はディープショットのみを連投し、続く二者も三球三振で抑えスリーアウトチェンジ。攻守が入れ替わる。