第十話
第十話
ベンチでの長い話を終え、打席に立つ日佳留。
「何を話してらっしゃったのかしら。わたくしの炎城は無敵。小細工など無意味ですわよ」
盾は不敵に宣言してみせる。だが、日佳留はもうその手には乗らない。
「無意味かどうか、試してみたほうがいいんじゃない?」
ぴくり、と眉を動かす盾。
(まさか――魔球『炎城』の正体がバレたのかしら。いいえ、そう簡単にバレるものではありませんわ。まだ二回表。わずか五球しか投げていませんもの)
リスクを計算する盾。それに、バレたとしても容易く攻略出来るものではない。炎城は一筋縄ではいかないのだ。
自分の力を信頼し、盾の投球。炎城が日佳留へと迫る。日佳留はテイクバックし、ごく普通のスイングに入る。
(ふん、やはりハッタリでしたわね)
盾は安堵した。だが、これが油断、隙となった。
日佳留はそのまま、バットを振り切らなかった。なんとバットの柄頭の部分で白球を叩きつけたのだ。
「なっ……!?」
慌てる盾。だが、もう遅い。普通にスイングするより早く、それも下方向に強く打ち付けられた球はホームベース正面でワンバウンド。慌てて盾は爆発を引き起こし、白球を自分の手元に飛ばす。しかし日佳留の縮地は送球よりも速い。盾が捕球した頃には、すでに一塁を走り抜けていた。内野安打である。
「くッ! まさかこんな方法で来るとは……」
「へへ~ん、どうだ! これがアタシたちの力だよ!」
自慢気に言ってみせる日佳留。だが、この打ち方を思いついたのは剣の魔球解析のお陰だった。剣の語った言葉を思い返す。
『――まず、炎城はピッチャーにノーバウンドで打球を飛ばすことが前提の魔球だよ。そのためには爆発による運動量を、打球のパワーに合わせて繊細にコントロールする必要があるんだ。だから炎城を打った時の打球は同じ軌道にはならない。アドリブで、盾の判断でコントロールしてるんだ。しかも打球が実際に飛ぶ前の段階で判断しなきゃいけない。だから真希が打った時は、想像以上に真希の打球が強かったから、打球の浮き上がりを抑えるので精一杯だった。結果として弾丸ライナーになったんだ。そして私の時は、私の体勢が崩れて打球の威力が想像以上に弱くなった。だから、盾は初めて捕球の為に動いた。前進しなきゃノーバウンドに出来なかった』
剣の解析は正しかった。故に、日佳留の不意を突く打法に判断が遅れ、爆発がワンバウンド後となった。
こうして二死、ランナー一塁。打席には二番、ナイル。
「先程は不意を突かれましたが、次はそうも行きませんわよッ!」
盾は警戒しつつ投球。炎城。赤の闘気と共にナイルへと迫る。
「僕は、正面から行かせてもらうさッ!」
ナイルは言って――バットを、まるで剣道でもするみたいに上段で構える。
「受けよッ! これが僕の新打法『撃鉄打法』さ!」
炎城の接近にタイミングを合わせ、バットが振り下ろされる。すると、銀色の闘気がバットを中心に渦巻く。渦の内側にボールを絡め取り、締め付ける。
「点火ッ!」
ナイルはバットを渦から引き抜き、通常のスイングで白球を打撃。途端、魔球の闘気が弾け、爆発を起こす。だが――銀色の渦に巻き込まれ、爆発は盾のコントロール通りにならない。まるで銃身を走る弾丸のように、白球はジャイロ回転をしながら射出される。矛先は銀の銃身が向いていた、ライトスタンド一直線。大飛球である。
これもまた、剣の助言をきっかけにした打法であった。ナイルは剣の言葉を思い出す。
『――そして、炎城の闘気は表面に見えている部分がメインじゃない。あれは囮のエネルギーなんだよ。実際は白球の内側に、まるで火薬みたいに封じ込められてる。言わば、あの表面の闘気は薬莢。爆発を起こすために封じ込めた闘気が暴発しないための仕掛けなんだ。球の中心から闘気の爆発が起こるから、今までの私達の打法じゃ太刀打ち出来無かった。内側から闘気ごと吹き飛ばされていたから、そもそも白球に私達の力が届いていなかったんだよ。だから、正面からパワーでねじ伏せられたみたいに見えた。でも、実際は小細工に過ぎない。内側に闘気が封じられているなら、それを闘気で叩けばいい。そうすれば炎城は暴発する。盾のコントロールは効かなくなる』
この言葉から、ナイルは打法を考えた。己の闘気で白球を縛り付け、空中に静止させた後、内側の闘気を貫く。二段構えの打法。炎城の爆発、そして二段目のスイングによるパワーで打球の威力は二倍。いや、それ以上だった。
「――そうはさせないのであるッ!」
センターに立つアバドンが叫ぶ。そして、闘気を開放した。黒紫の波動がアバドンの右腕に集まる。手の甲に浮かび上がる『滅』の文字。ここで初めて、アバドンの能力が披露される。
「これが吾輩の力ッ! 『衰滅波動』であるッ!」
宣言し、アバドンは右腕を打球の方へと突き出した。すると黒紫の波動が解き放たれ、白球に飛来。衝突し、ホームラン確実とも言える威力を殺した。途端に白球は自由落下を開始し、ライト前に落球する。
結局、ナイルの打球はライト前ヒットで終わった。だがその間にも日佳留が縮地で塁を周り、ホームベースを踏んでいた。一点を手に入れた深水女子。これで同点。
続くヒットに焦る聖凰。フィールド上の野手の多くが困惑していた。こんなのは想定外だ、とでも言うように、超野球少女以外の部員全員が恐怖していた。このままでは負けるかもしれない。どころか、生命の危険さえある。超野球少女の野球に人間が付き合っていては、それも当然のこと。
「――皆さん、落ち着いてください! わたくしが必ず抑えます。必ず勝ちます! 貴女方を危険に晒すことだけはなんとしても避けますから!」
盾は雰囲気の乱れを感じ取り、大声で呼びかける。だが、効果は薄い。現に炎城は二度も破られている。信用出来ないのも当然。
苦い表情をしながら、盾は次の打者に向き合う。深水女子のプレイングマネージャー、ラブ将軍。本名、越智愛子。
放球。盾はまたもや炎城を放つ。仕組みがバレても、この球しか投げられない。そう、盾にはこの魔球以外が存在しないのだ。並みの人間にでも捕球できる魔球はこれ一つしか持っていない。炎城で抑える以外の選択肢を盾は持てないのだ。
ラブ将軍は、初回と同じ動きだった。スイングすると見せかけてバント。打球を殺すために、前の回よりも更にバットを深く引いた。それに合わせて、盾も爆発を強くする。爆発のエネルギーだけで自分の場所まで届くように。
「――かかったなッ!」
それは、ラブ将軍の策略だった。炎城が爆発した瞬間――つまり、闘気が抜け、無防備な状態の白球。これを、ラブ将軍はバットで前方に押し込む。バントの姿勢のまま腕を強く突き出し、前へ踏み込む。爆発の推進力と合わさり、打球は盾の頭を大きく超える。慌ててショートのステラが追いかけるが、その頭の上さえ超えてセンター前へと落ちる。ランナー一、二塁で、アウトカウントは二死から動かず。
打順は再び真希の番。打席に立つと、真希は盾に向かって不敵に笑う。
「よう、戻ってきたで。お前の垂らすションベン球、スタンドに片付けたる為だけによぉ」
真希の言葉に、盾は何も言い返さない。今度こそ抑えなければ。チームメイトの信頼を失ってしまう。絶対防御、絶対勝利の野球を信じてフィールドに立つ八人全員を裏切ることになる。
盾は炎城を放球。今まで投げたどの球よりも強く、重い闘気を込めて。轟音と共に真希へ迫る白球。真希は緑色の闘気をバットに纏わせて迎え撃つ。闘気の渦は、これまでに一度も見たことの無い形。
「見とれッ! お前らを倒す為だけに編み出した新打法ッ! 『風神丙番打法』や!」
真希は堂々と宣言する。そして、真希のバットに集まった風の闘気は――豪風となり、嵐となってその場に吹き荒れる。風が炎城の表面の闘気を、そして内側に封じ込められた闘気まで吹き飛ばす。
「舞い上がれェッ!」
真希のスイング。最早力を失った白球は、魔球でも何でもない。真希の全力のスイングに捉えられて、天高く飛んで行く。センター方向へ一直線。
「ふん、甘いぞマキとやら! センターには吾輩が居ることを忘れてもらっては困るッ!」
アバドンが宣言し、黒紫の闘気を右手から放つ。衰滅波動だ。打球の威力を低減する力が白球を飲み込む。抵抗することも出来ず、打球は死ぬ。静かに自由落下を始め、アバドンの頭上へふらふらと落ちていく。
「――感謝するで、盾よ。お前の炎城っちゅう魔球があったからこそ、ウチはこの打法を思いついた。編み出せたんや。お前のお陰で、この勝負はうちのモンや」
真希は言う。そして、自由落下する白球に視線を送る。
「さあ、今こそ『舞い上がれ』! 風神丙番打法の締めの時やッ!」
その言葉を聞いて、盾はようやく悟る。慌ててセンターへ向き直り、アバドンに大声で呼びかける。
「いけません、アバドンッ! その打球は――ッ!」
言いかけたが、もう遅かった。アバドンが完全に油断し、捕球する姿勢に入ったところ。白球は――内側に封じ込められた闘気を爆発させる。暴風が、嵐が吹き荒れる。再び力を得た打球は浮き上がり、スタンドインを目指して風と共に舞い上がった。これが――風神丙番打法。スイング前に吹き荒れた嵐は、盾の闘気を吹き飛ばす為の風ではなかったのだ。白球の内側に『真希の闘気を』封じ込めるための風。確かに真希は『お前らを』倒す為だけに、と宣言していた。倒す相手は盾だけではなかった。アバドンの衰滅波動による打球減速にさえ打ち勝つと言っていたのだ。
アバドンは、慌てて衰滅波動を放つ。だが、もう遅い。黒紫の波動が届くより先に、白球はギリギリでスタンドイン。ホームランだ。スリーランホームラン。一挙三点。これで深水女子は四点。聖凰女子を大きくリードした。
悠々と真希はダイヤモンドを回る。勝利の余裕が滲み出る、スラッガーの風格があった。ホームを踏むと、待ち構える仲間とハイタッチを交わす。五人一体となった深水女子というチーム。その力を味わい、悔しさを噛み締める盾。だが、退くことは出来ない。自分には投げること、そして打つことしか許されない。一度始まった戦いに背を向けては、敗北よりも残酷なことになる。と、考えていた。
続く深水女子の攻撃。打者は剣。バッターボックスに立ち、真っ直ぐに盾を見る。
「――あの、すみません」
不意に、剣の背後から声が上がる。聖凰のキャッチャーだった。
「タイム、もらえますか?」
三塁側ベンチが騒がしくなる。部員達の声だ。
「火群さん、話が違います! こんな危ない試合になるなんて聞いてないです! 私達……もうこんな野球に巻き込まれたくない、怖いんです!」
捕手に言われ、盾は悲しそうに俯く。部員の誰も捕手に異論を唱えない以上、全員が同じ気持ちだということだった。
「本当に、申し訳ありませんわ……ですが、どうか。危険にだけは晒しません。わたくしと共に戦っていただけませんか?」
「そんな言葉、どうやって信じろと言うんですか! 今までは、確かに火群さんの魔球でヒット一本も許さない試合ばかりでした。それが何ですか。今日はヒットを打たれてばかり。こんな状況で安全だなんて、信じられません! 私はもう、守備にも打席にも立ちません!」
「そんな! そこをどうか、わたくしと一緒に戦って欲しいのです! 野球は九人でやるものです。一人でも欠けては――それは、もうチームではない!」
「確実に、絶対に安全なまま勝てないなら、私達は火群さんのチームメイトなんかじゃありません! とにかく、もうこの試合には参加しませんから!」
捕手は装備を外しだす。それに引き続き、他の選手まで。全員が無言で帰りの支度を始める。もうこの場所には用がない。勝負の結果さえ見届ける必要が無い。仲間ですら無いと、はっきりと行動で全員が示していた。
「……分かりました。皆さんがそういうなら。わたくしも、無理を言うことは出来ませんわ」
盾は項垂れ、ベンチに腰を下ろした。
そのまま、しばらく動けなかった。気が付くと、野球部員の殆どが帰ってしまっていた。ベンチに残ったのは三人。盾と、アバドン、そしてステラ。
「お二人は残って下さるのね」
「無論である。吾輩らとジュン殿は三位一体。ジュン殿のいる場所が吾輩らの居場所である」
「そうだよ~、ジュン」
アバドンとステラが、それぞれ盾の手を握る。
「ジュン殿。吾輩にキャッチャーをやらせてもらえないであろうか。そして投げて頂きたい。封印した魔球……『煉獄』を」
アバドンの言葉に、盾は険しい表情で首を横に振る。
「駄目ですわ。あの球は、剣のクリオジェニックショットと同じ。仲間を犠牲にしながらでも勝ちを得る、邪道の魔球です。わたくしの野球道は、あれを投げることを許さない」
「目を覚まして下され、ジュン殿ッ!」
ぱぁん、と乾いた音が響く。アバドンが、盾の頬を掌で叩いたのだ。
「吾輩は三位一体であると言ったはず。ジュン殿と吾輩、そしてステラは三人で一つの人間である。ジュン殿が傷つくのであれば、吾輩らも傷つく。ジュン殿が生命を懸けるのであれば、吾輩らも生命を懸ける。犠牲などではない。ジュン殿の信念を、絶対防御、絶対勝利の野球を証明するために戦い抜くだけである!」
アバドンの言葉に驚く盾。だが、やはり納得が行かなかった。
「ですが……既に守れなかった。恐怖でチームは砕け散ってしまいましたわ。わたくしの絶対防御は、本当に人々を守ることなど出来なかった」
「それは違うよ、ジュン!」
今度はステラが反論する。
「ジュンの野球だったからこそ、今までみんなも付いてきてたんだよ。今だって、みんな帰っちゃったけど、それでいいんでしょ!? ジュンはたとえ裏切られても仲間だって言ったじゃん! 逃げることだって、覚悟の無い人にとっては救いになるんだよ。ジュンはみんなの救いのまま、今も変わってない。だから、ミーが野手七人分守るから、ジュンはみんなの為に勝ってよ! ここに居ない仲間の為にだって、勝利しなきゃ。それがジュンの信じた絶対勝利のはずだよ! ミーは、だからジュンのチームに付いてきたんだ!」
ステラに言われ、盾も次第に意思を取り戻す。
「……そうですわね。たとえ裏切られても。信頼されなくとも。マウンドに一人きり立つことになろうとも、わたくしが投げ続ける限り、絶対防御、絶対勝利の野球は潰えたりしない。そして――アバドン、ステラ。貴女たちは、私と魂を分けあった仲間。貴女たちにも勝利を約束しなければなりませんわ」
立ち上がる盾。そして、闘志に満ち溢れる表情で言う。
「アバドン、装備を整えなさい! 投げますわ。わたくしの究極奥義――魔球『煉獄』を、勝利するまで何度でも! わたくしと共にグラウンドに散る覚悟を決めなさいッ!」
「無論である。覚悟は、とうの昔に決めておいた」
アバドンは言って、捕手の脱ぎ捨てていった防具を手にする。
「そしてステラ。これからは休む暇も無くなると思いなさい。貴女の能力、守備の間一瞬たりとも解除することを許しませんッ!」
「もちろん! やめろって言われてもやめないもんね~!」
三人の決意が固まる。たった三人でも、この戦いに勝利する。覚悟が三人の結びつきをより強くした。
「――さあ、試合再開ですわッ!」
アバドンがキャッチャーとして守備に着く、ステラが二塁後方に立つ。そして――盾からは、今までとは比にならないほどの赤く、強烈な闘気が溢れていた。
「見ていなさい、剣。これがわたくしの覚悟。覚悟した者だけで貫く絶対勝利の野球。焔の道を突き進む姿ですわッ!」
言って、盾は足を上げた。腿を引き上げ、これでもかと前へ弾ける身体。弓なりに沿った胸。ダブルスピンから生まれる力は腕へ、そしてボールへと伝わる。白球に闘気が乗り――そして、焔が立ち上がる。
灼熱の闘気が、ついに燃えた。盾の腕も髪も、ユニフォームもちりちりと焦がす。焔を纏った剛球は、常軌を逸する速度。百八十キロにも到達するだろう。打者を打ち取る鮮烈な意思を持って飛翔。軌跡には火の粉が飛び散った。
剣はこの魔球を知っていた。かつて、中学の頃に見たことのある魔球。あの頃とは比較にもならないほどの高い威力と完成度だが、同じ魔球なのは間違いない。これは、魔球『煉獄』。恐らく盾が持ちうる、最強の魔球。
剣も全力の闘気をバットに乗せ、スイングする。ジャストミート。だが――煉獄の炎は消えない。剣の闘気を吹き飛ばし、それどころか――スイングをはじき返した。打球にすらならず、キャッチャーミットに吸い込まれていく。
「グゥッ!」
アバドンの苦痛に呻く声。右腕にキャッチャーミット。そして、衰滅波動を全力でミットに溜め込み、白球を受け止めていた。それでも球威を殺しきれない。魔球の威力に押され、引き摺られて。アバドンの立ち位置は一メートル近く後退していた。
「――ストライク、ですわね」
盾は結果を見届け、静かに宣言する。そしてようやく、炎が弾けて消える。ぼっ、と音を立て、盾の腕を包む炎は消えた。見ると、左腕の部分のユニフォームは焼け落ち、腕が完全に露出している。炎の熱で、腕も赤く照っている。
誰の目にも、その魔球の恐ろしさが分かった。これが――盾の、全力の力。技の魔球が炎城だとすれば、この魔球は力の魔球。生命さえ燃やして生み出す情念の魔球だ。
「もう、貴女たち深水女子はヒット一本打つことすらままならない。わたくしの魔球『煉獄』の前に、そしてステラがわたくしの後ろを守る限り。一塁を踏むことは絶対に不可能ですわ」
言って、盾は己の後ろを腕で示す。ステラもまた、闘気を立ち上げていた。純白の波動。そして、その右目に浮かぶ『星』の文字。能力を開放している証拠だった。未だに正体の分からない能力。それが深水女子にとって不気味であった。剣の全力スイングさえ弾き返す魔球、煉獄。そして未知の能力でもって待ち構えるステラ。状況は、人数差、得点差を考えても苦しいと言えた。
剣は、やっぱり、と考えた。
(やっぱり――私も投げなきゃいけないのかな。クリオジェニックショットを)
覚悟が決まらない。無事に真希は白球を受け止められるのだろうか。あの日の感触が蘇る。弓の、恋人の心臓に突き刺さる白球の感触。骨を砕き、内蔵を衝撃で引き裂く感触。己の闘気を通じてはっきりと記憶していた。まるで人形が崩れるみたいに倒れる姿。あれを、また見ることになるかもしれない。だが――そうでもしなければ、勝てないのだ。相手は三人。盾の打席はより多く回る。クリオジェニックショット以外で斬燿を打ち破る可能性は存在しない。
「剣ッ! 行きますわよ!」
考え事をする剣の耳を突く怒声。盾の投球が始まる。再び煉獄。ここで煉獄を破らねば、悪魔の選択をしなければならなくなる。剣は追い込まれていた。故に、ここで絶対に打たなければ、と覚悟した。
闘気を開放する。出しうる限界の闘気を超えてバットに宿す。圧力に、剣の腕に擦過傷。生命を捨ててでも打つという覚悟が宿った証。
煉獄が正面に迫る。剣は逃げず、正面から煉獄を押し返す。青と赤の闘気がぶつかり、弾ける。炎が舞う。数秒、力は拮抗したまま動かない。剣はそれを見て――更に、自分の限界を超えた力を注ぎ込む。腕の擦過傷から血が噴き出る。それでも、なんとしても押し返さなければ。
「――翔べエェッ!」
剣は、ついに煉獄を押し返す。打球は高めに浮き上がる。ライト方向、守備さえ居ればライト前ヒットか正面へのフライ、と言った当たり。だが、今は守備にステラしか居ない。抜ければ確実に二塁打。三塁打や、走塁本塁打でさえ視野に入る。
「させないよッ!」
だが――剣の希望は砕け散る。ステラの白い闘気が濃く、強く立ち上がる。次の瞬間――ステラは人間の動きとは思えないほどの速さで走る。そしてギリギリ打球に追いつき、捕球。打球はノーバウンド。つまり、フライアウト。
剣は愕然としながら、塁間を走る足を止める。既に一塁を蹴っていたが、その走りも無意味に終わった。これでスリーアウト。攻守交代。
「わたくしの勝ちですわね」
盾は、立ち尽くす剣に言い放つ。そして背を向け、三塁側ベンチへと戻っていく。剣は悔しさを噛み締め、一塁側ベンチへと戻った。
攻守交代。聖凰は本来なら五番打者から開始だが、三人しか居ない為に一番に戻る。三人全員が出塁したら、その時点で打者不足による攻守交代、というルールで続けることとなった。敬遠を続ければ深水女子の勝利が確定するのだが、無論、誰もそんなことを望みはしない。正面から勝負しなければならない。深水女子はそれをよく理解している。一週間前の戦いで自ら味わったのだから。
聖凰の一番打者、ステラが打席に立つ。既に白い闘気を身に纏い、右の瞳に星の字が浮かぶ。
(必ずヒットを放つ。ミーの魂を救ってくれた、ジュンの為に!)
ステラはかつて、自分が盾の仲間になった時のことを思い返す。ヨーロッパで唯一の超野球少女であったステラは孤独であった。同じ力を持つ仲間も無く、それでも自分の野球能力に期待する人々の声に答え、野球を続けていた。誰一人として己の本質を見てくれない。それでも、望まれるのであれば。誰かの心に感動を呼ぶことが出来るなら。お調子者でお馬鹿なのに、野球は上手い。そんな偶像の存在を演じて生きる、と覚悟した人生であった。物心ついた頃には、既に己の願いに生きることすら許されない人生を歩んでいた。本当は花を愛で、夜空に輝く星に胸をときめかせる。そんな穏やかな人生を歩みたいとさえ願っていた。しかし、例え結果次第では容易に失望されるものであっても、自分の野球に胸を熱くする人の心は本物だと知っていた。だから裏切れなかった。願いの叶わぬ悲しみを知っているから。人々の期待に答えようと思っていた。
そんな時、盾が表れたのだった。火群盾は、自分の目指す野球の為、運命を共にする超野球少女を探していた。そしてステラを見つけ、日本に連れてきた。盾の語った野球道は、ステラの野球道に似通っていた。ずっと一人きりだと思っていたステラは、心に涙が流れた。一人きりではない。同じ戦いの中に生きる人が居る。それだけで、ステラの心を蝕む孤独感は吹き飛ぶようだった。盾が今の野球を目指していたからこそ。ステラを勧誘してくれたからこそ、ステラの心は救われたのだ。そして今――心から、野球を楽しむことができている。
「さあ、好きな魔球で来ていいよ~。ミーは必ず出塁するからね」
お調子者らしい言い方で宣言するステラ。
その発言が嘘偽りでないことを、深水女子の全員が理解していた。守備の時に見せたあの足の速さ。日佳留の縮地にも並ぶだろう。本来なら凡打であっても、ステラなら悠々内野安打にしてしまう。
だが――それでも。ボールを触られるだけでもヒットになると分かっていても。剣はクリオジェニックショットを放つ覚悟が出来なかった。
剣の投球。魔球、ピュアディープ。芯をずらす横の変化をつけながら、膝元ギリギリに投げ込む。
「無駄だよッ!」
ステラは言って、スイングを魔球に合わせてくる。流し方向への平凡なゴロだ。セカンドに立つ日佳留が縮地で前進。剣よりも更に手前で捕球するが、既にステラは一塁に迫っていた。急いで一塁を踏みに戻る日佳留。だが、縮地でももう間に合わない。ステラは一塁を駆け抜けた。セーフ、内野安打。
続いて、二番のアバドン。打席に立ち、黒紫の波動を開放。そして、バットに纏わせる。
「さあ、吾輩の衰滅波動の真髄、見せてやろう」
剣はアバドンのことを警戒しながらも、魔球を投げた。限界突破のディープショット。アバドンはこれをスイングで捉えられず。タイミングも合わず、かなり早いタイミングでの空振り。衰滅波動の雲が軌道に生まれ、その中を魔球が貫いた。
「なんや、口だけかいな」
真希がアバドンを煽る。だが、アバドンはこれを鼻で笑った。
「今のはわざと空振りしたのだ」
「はぁ? なんでや」
「無論、一つは時間稼ぎである」
「――そうそう。ミーがホームに帰ってくるまでのね~♪」
不意に、真希の耳に聞こえてはならないはずの声が届く。驚いた頃には、もう遅い。すっと、まるで最初からそこに居たみたいに。ステラの姿がそこにあった。
「んなアホな!? なんでお前がここにおるんや!」
驚愕のあまり、真希は立ち上がって声を上げる。だが、ステラはこれを見てニヤリ、と笑う。してやったり、という顔。
「そんなの、順番に塁を回ってきたからに決まってるじゃ~ん? ミーの『もう一つの能力』を使って、ね」
ステラは闘気を纏っていた。今まで見ていた白の闘気ではなく、純粋な、黒の闘気。闇の色をした闘気で、左の瞳の中に『夜』の字が浮かんでいた。
「ステラは、この世に存在する数多の超野球少女の中でも類を見ない、二つの字を授かっているのである。一つは星。光のように素早く駆け抜ける能力。そしてもう一つは夜。闇に紛れるかの如く、気配を消す能力。出塁さえすれば、ステラはこの能力で確実にホームまで帰ってくることが出来る」
「な~んでアバドンが自慢気に言ってるのさ~! そこはミーがかっこ良く説明するとこじゃん!」
「ステラのアホでは語彙が足らぬであろうからな。吾輩が代理してやった」
「何を~っ!」
子供の喧嘩のようなやりとりをして戯れる二人。だが、これは余裕の現れでもある。それが真希にとっては恐怖だった。ホームに帰還したステラが余裕なら、まだ分かる。だが、さっき空振りしたばかりで、前の打席では三振に倒れたアバドンは不自然だ。余裕で冗談を口に出来る状況ではないはず。
「……剣ッ! 次や次!」
真希は剣にボールを返し、キャッチャーズボックスに座り直す。
続く二球目。一球目とは異なり、今度はピースディープ。タイミングを外した形になる。横の変化はせず、外角低め一杯を狙う。
「無駄だ。吾輩の衰滅波動の前では、どのようなコースも無意味であるッ!」
言って、スイングするアバドン。ピースディープをバットが捉えることは無い。だが、スイングによる衰滅波動の雲が白球を飲み込み――そのまま、弾き返す。強烈なエネルギーを貰い受け、大飛球となった。ホームランは確実、といったコース。
「これが吾輩の衰滅波動『裏打ち』の力である。衰滅波動で吸収した力を、逆に開放し、自在にボールへ与えることが出来る。そのために、一打目は空振りしたのである」
言って。アバドンは、悠々とダイヤモンドを回り始める。
「――まだだッ! 僕が取って見せるッ!」
ナイルが両腕を地に付き、飛び上がる。衰滅波動で飛び上がる白球をキャッチしようというのだ。
「無意味、無意味よッ! 言ったであろう、吾輩の衰滅波動は自在にコントロール出来るのであるとッ!」
言って、アバドンは右腕を白球に向ける。そして闘気を開放。連動し、白球を包む黒紫の衰滅波動も輝きを強くする。途端、白球は軌道を変えた。ナイルが狙って飛び上がった軌道から大きく逸れる。そのまま何者の邪魔も受けず、スタンドへ落下。ホームランだった。
「ふむ。お主らの魔球の力のお陰でホームランになったようであるな。強い力を吾輩に与えてくれたこと、感謝するぞ」
アバドンは二塁を回りながら、剣に言う。ただ、この余裕の言葉は演技であった。衰滅波動が吸収するエネルギーには限度がある。そして限度を超えた衰滅波動は霧散する。また、裏打ちを使うためには、エネルギーを吸収した波動をそのまま出し続けていなければならない。これがまた高い負担になる。剣の魔球の力は吸収限界を超えていた。故に早めに吸収を切り上げねばならなかったのだ。
それを悟られてしまうのは危険だ。故に、圧倒的な力の差があるような素振りを見せてやる。衰滅波動に弱点があることを隠す。
ダイヤモンドを回り終え、ホームを踏むアバドン。無情に立ち去るその背中を、真希は苦い表情で見送った。
「――タイムや! タイムをくれ!」
そして叫ぶ。誰も許可の声を上げないうちからマウンドに走り寄り、剣の手を掴む。
「ちょっ、真希?」
「来い、剣!」
そして剣を引き連れ、ベンチへと走っていった。