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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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畠山義統 義統戦記 第二話

 混迷の度を深める京で過ごす義統。ひしひしと大乱の気配を感じるが何かできるわけでもない。義統は祖父の最後の願いのため、養子に行った弟のため畠山義就を助けるつもりでいる。しかしそんな義統にある悲劇が待ち構えていた。

 京周辺の空気はいよいよ剣呑なものとなっていた。そして文正元年(一四六六)の十月に義就が上洛の気配を見せている。

 義統はこれを政国からの手紙で知る。手紙には

「これより養父上とともに上洛します。兄上と対面できる日は近い。その時はおじい様の墓参りをしたいと思っています」

と書いてあった。

「いよいよか…… 」

 ため息をつきながら義統は言った。今回の義就の動きは政長や細川勝元も察知している。そして迎撃の体制を整えつつあった。この状況で義就が上洛すれば合戦は免れない。

「そうなれば私も覚悟を決めねばならんな」

 もし合戦となれば義統の能登家は義就方で戦うつもりでいる。政国が養子に入っているし政長は義統を信頼していない。

 ともかく義統はすぐにでも軍事行動ができるよう準備を進める。そして十二月になると畠山義就が河内を経由し上洛してきた。さらに山名宗全と斯波義廉はこの義就の行動を援助する動きを見せる。

 いよいよ合戦が始まる。義統を含めた多くの人々がそう思った。しかし事態は意外な展開を見せる。

 年が明けて文正二年(一四六七)の正月。将軍足利義政は義就を畠山家の当主として認め、管領の職に斯波義廉をつけたのである。要するに山名宗全の派閥のクーデターで、政権の中枢から細川勝元派を追い出したのであった。

 この手際に義統も舌を巻いた。

「宗全殿は前々から準備を進めていたに違いない。しかしこれで収まるか…… 」

 実際に同月中に勝元と京極持清や赤松政則などの勝元派の諸将が義政に義就討伐の訴えを起こそうという動きがあった。これは宗全たちに阻まれるが依然騒乱の火種は燻っている。

「これではおじい様の墓参りどころではないな」

 この事態に動いたのが足利義政である。義政は細川勝元に政長への協力をやめるように命じた。これに対し勝元は山名宗全の義就への協力をやめることを条件とする。結局義政は義就と政長の戦いに諸将は協力してはならないという裁定を下した。

 しかし当主の座を奪われた政長がこの裁定に納得するはずもなかった。政長は義就への引き渡し命令が出ていた自分の屋敷に火を放ち挙兵する。これに対し義就も出陣し政長へ攻撃を仕掛けた。

 この時義統は動かなかった。正直本家の問題にこれ以上巻き込まれたくはない。幸い義政の命令もあるのでこの時は静観した。細川勝元や京極持清は政長を助けようとしたが、義政の命令に阻まれ動けない。しかし山名宗全や義廉の家臣の朝倉孝景の軍勢は義就の軍勢に加わり政長を攻撃した。

「政長殿も勝元殿も気の毒に…… 」

 この展開に義統は政長や勝元に同情した。結局政長は敗れ細川勝元の屋敷に逃げ込む。こうして義就の上洛から始まった一連の騒動は一応の終結を見た。

 この騒動の事後対応が行われている中で政国が義統を訪ねてきた。

「墓参りは無理そうですが、せめて位牌に手を合わせるくらいならと」

 義統は何も言わず政国を屋敷に挙げた。政国は義忠の位牌に手を合わせ晴れやかな顔で言う。

「これで畠山本家は養父上のものとなりました。おじい様はご安心してお眠りください」

「本当にそうかな? 」

 義統はそう言った。しれに政国は不満そうな顔をする。

「養父上は勝ちました。家督も公方様に認められています。もはや勝利したも同然でしょう」

「今のところはな。しかし政長殿は生きている」

 そう言って義統は外を見た。見つめる方角には細川勝元の屋敷がある。

「(政長殿はあきらめまい。おそらく京で再び合戦が起ころう)」

 こののち義統の予測は的中する。しかし事態が日本全土を巻き込む巨大なものになろうとは、義統は思いもよらない。

 

 政国は義統の屋敷を訪ねた翌日には義就の領国である河内に向かった。

「河内と紀伊の軍勢をいつでも動けるようにしておけと養父上に言われました」

「それはつまり義就殿はまだ兵が必要だと? 」

「まあ念のため、ということでしょう」

 そう言って政国は去っていった。政国は事態を楽観視している。しかし義統は違う。

「(おそらく義就殿もこれで終わりとは思っていないのだろう)」

 義統はこのように考えていた。そして義統の懸念は予想以上の形で的中する。

 文正二年の五月。このころには元号は応仁に変わっている。細川勝元派の赤松政則の軍勢が山名宗全の領国である播磨(現兵庫県西部)に攻め込んだ。さらに斯波義敏が斯波義廉の領国である越前に攻め入る。またこれに連動して勝元派の諸将の一部が宗全派の武将の領地に侵攻した。さらに勝元はひそかに将兵を集めている。

 この情報を手に入れた山名宗全は畠山義就や斯波義廉ら自派の諸将と対応を協議した。義統はこの協議には参加しなかったが義就に助力する旨を伝えている。

「こうなった以上は義就殿とともに戦うほかはないな」

 もとより覚悟は決めていた。こうなった以上は政国のためにも義就に勝ってもらうしかない。そういう心情で義統はこの戦いに参加することにした。

 こうして京にて山名宗全派の西軍と細川勝元派の東軍の戦いが始まる。長い長い応仁・文明の乱が始まった。

 五月中に始まった両軍の戦いは徐々に規模を拡大していく。はじめは足利義政も両軍の調停に動くも和睦がまとまらず戦いは終わらなかった。しかも六月になると細川勝元が義政を東軍に取り込み大義名分を得る。そして足利義視を総大将にして西軍を討伐しようとした。一方の西軍も山名宗全の領国から援軍を呼び寄せたり、政国が河内・紀伊の兵を率いて上洛してきたりした。

 この時政国は意気揚々と上洛してきた。

「いやあ。養父上の読みが当たりましたね」

 そんな弟の姿に義統は少し呆れた。

「お前は単純でいいな」

 それはともかく東西両軍は京で戦い続けた。戦いは一向に収まらず年を越してしまう。そしてこの応仁二年に二つの事件が起きた。一つは戦いを長期化させる大変なもの。一つは義統にとっての大事件である。

 一つ目の事件は足利義視が西軍に加わったことである。義視は西軍討伐の総大将だったが訳あって出奔していた。それが戻ってきたということだったがこの時義政は息子の義尚の擁立に動いている。さらに後見人であった細川勝元も義視に出家を進めてきた。これに怒った義視は西軍に参加したのである。西軍は勝元と対抗策になるので喜んで義視を迎えるのであった。

 こうして戦いは足利将軍家の後継者争いにも発展した。いよいよ泥沼である。

 義視の参戦で西軍は意気軒高となったが、この時義統はとてもではないが喜んでいられなかった。それはこの年に起きたもう一つの事件が理由である。

 その事件とは畠山義就に嫡男が生まれたことだった。そして嫡男が生まれた義就は政国を廃嫡し能登家へ送り返す。

「だから言わんことはないのだ」

 結局義統の懸念していた事態になった。肩を落として帰ってきた政国を迎える義統は怒り心頭である。

「所詮口約束などこの程度だ。それに我らが離反しても痛くもかゆくもないからこういうことをする。しかしそれで人心が離れるとは思わんのか」

 義統は吐き捨てるように言った。こうでも言わなければ怒りでどうにかなりそうだった。しかしそんな義統に政国は言った。

「仕方ないよ兄上。私が養父上の期待に応えられなかったということだから」

「そんなことはない。お前は立派に務めを果たした」

「いえ、それは…… 」

 政国はいつになく弱弱しい。そんな弟を見ているとますます不憫に思えてきた。

「ともかく今後は義就殿と袂を断つことも考えなければな」

「それはいけない兄上。おじい様も悲しみます」

「しかしいくら本家とはいえこの仕打ち。さすがに許せん」

「と、ともかくせめてこの戦の間だけでも養父上にお力を…… 」

 そう泣きつかれてはどうしようもなかった。

「わかった。この戦の間は義就殿に力を貸そう」

「ありがとう兄上」

 色々あったが義統はこの戦の間だけは義就に力を貸すことにした。しかしこの兄弟にはまだ悲劇が待ち構えている。


 西軍が義視を迎えたことでますます事態は泥沼化していく。義視は西軍に推戴された将軍となり、西軍の諸将に役割を割り当てて幕府の体制を作った。

 これに対し東軍の義政は激怒する。曲りなりも義政は戦いの終息に向けて行動してきた。しかし西軍が新しい将軍として義視を推戴するのは義政の体制との決別を意味する。今までの努力を無駄にされ自分の立場も脅かされては義政も黙っていない。これまで消極的だった姿勢を改め全力で東軍の支援に動く。

 戦いが泥沼化する中で元号は応仁から文明に変わった。一四六九年のことである。この動乱を収束に向かわせてほしいという祈りのこもった改元だが戦いの終わりはいまだ見えない。

 さてその翌年の文明二年(一四七〇)、義就から義統へのある命令があった。

「政国を越前に送れ、だと? 」

 それは政国を越前に下向させろというものだった。義就が言うには越前は西軍の重要な地である。しかし越前でも東軍に味方する動きもあった。よってだれか信頼できる人間を派遣して安定させたい。ということだった。

「しかしそれがなぜ政国なのだ」

 義統の疑問ももっともだった。越前は斯波義廉の領国である。そして運営は西軍の主力をなす朝倉孝景によってなされていた。ならば義廉なり孝景なりの手のものを派遣すればいいだけの話である。

 この命令に義統は嫌な予感を覚えた。

「この命令はうまく断ろう」

 義統は政国に言った。しかし政国は首を横に振る。

「私は行きますよ。兄上」

「しかし政国よ…… 」

「こんな私でも本家の役に立てるのなら構いません。それに養父上の部下もつけていただけるようです」

 義就からの手紙には自分の部下も同行させると書いてあった。政国が言うには本家にいたときに色々助けてくれたものもいるらしい。

「ここでうまく役目を果たせば兄上の立場もよくなりましょう」

「義就殿のことだ。大して変わらんだろう」

「兄上は養父上を疑いすぎです」

 それはそうだろう。義統は言いかけたが言えなかった。政国はやる気に満ち溢れた顔をしている。結局義統が折れることになった。

「何が起こるかわからん。気をつけろよ」

「心配いりませんよ」 

 そう気楽な感じに言って政国は旅立っていった。

 政国が旅立った後で義統は家臣を極秘に同行させた。やはり不安な思いは消えない。

「(政国は大丈夫だろうか)」

 弟の身を案じる義統。しかしその思いは無残に裏切られる。

 家臣から政国が無事越前に到着したと連絡があった。しかしそこから連絡が途絶える。そして義就からこんな連絡が入った。

「越前で政国が討たれた」

 簡潔すぎる内容を義統は理解できなかった。義就が言うには越前に潜んでいた東軍の者にやられたらしい。むろんこの説明を義統は受け入れない。そしてある疑念が浮かぶ。

「(まさか義就は…… )」

 しばらくして同行させた部下が返ってきた。そして開口一番こういった。

「申し訳ありませぬ…… 政国様をお助けすることはできませんでした…… 」

 義統は叫びだしそうになるのをこらえて家臣に尋ねる。

「誰にやられた」

「越前の…… 朝倉孝景殿の手の者です」

「なんだと? 同行した義就の家臣はどうした」

「何人かは政国様を助けようとしましたが他の者はどこかに逃げてしまいました」

「そうか…… そういうことか」

 義統は理解した。結局すべて義就の策略だったのである。

「(持冨殿も政長殿も本家の家臣に擁立された。おそらく政国を担ぎ出そうと考えているものがいたのであろう。義就は先手を打ってそうした者どもを始末したのだ。そして政国も共に…… )」

 あまりにも非常な決断である。しかし何より許せないのは政国をだました挙句に自分の手も汚さなかったことだ。

 義統は怒りの握りこんだ手からもかみしめた口からも血が出ていた。そんな主君の姿を家臣は絶句して見つめている。


 政国謀殺ののちも戦いは終わらない。義統は相変わらず西軍で戦っている。もはや義就に尽くす義理などない。しかしそれでも西軍についているのは政国の最後の願いだからである。

「この戦いが終わるまで…… しかしいつ終わるのやら」

 この時の義統は積極的には戦わないし義就や西軍首脳もそこまで義統には期待していない。あくまで畠山本家のおまけ扱いである。尤も義統としては自分の大事な兵を減らさずに済むのだから問題はない。

 さて政国謀殺の翌年にある大変な出来事が起きた。それは西軍の主力にして最強の武将、朝倉孝景が東軍に寝返ったのである。

 主力の離反という事態に西軍首脳は上へ下への大騒ぎとなった。一方義統はこの事態になんとも言えない気持ちになる。

「義就が慌てている姿は痛快なんだがな」

 慌てふためく義就の姿は正直面白い。しかしそうさせたのは政国の仇の朝倉孝景だ。義統は愉快であるけど笑えない。そんな不思議な気持ちに陥っている。

 義統の気持ちはともかくいよいよ西軍不利の事態になってきた。すると年が明けての文明四年(一四七二)。ついに山名宗全と細川勝元が和平に動き出す。この時宗全は西軍の諸将に使者を派遣して和睦の是非について尋ねた。義統はもちろん和睦を了承する。

「この馬鹿馬鹿しい戦いもそろそろ終わりにしたほうがいい」

 義統は迷いなくそうい切った。するとほかの西軍の将たちも和睦に同意しているようである。

「なんだ。皆も嫌気がさしているんじゃないか」

 この時、義統は笑えた。

 結局この年に和睦は成立しなかった。すると翌年には山名宗全と細川勝元が続けざまに死んでしまう。また同年の年末に足利義政は将軍職を息子の義尚に譲る。こうなってくるといよいよ戦う理由はなくなってきた。

 そして文明八年(一四七五)に足利義視が中心となって和睦交渉を始めた。年末には義政はこれを受け入れ和睦が成立する。こうして長い長い応仁・文明の乱は終わった。

「結局何のための戦いだったんだか」

 義統は自分の屋敷から京の街を眺める。乱が始まる前とはだいぶ様変わりした。主に建物が燃え尽きてなくなっている。見晴らしはよくなったが周りには住む家をなくした人がさまよっていた。

 この戦いで義統は失うばかりで何も得るものがなかった。

「本当に馬鹿馬鹿しい戦いだった」

 義統は言い知れぬむなしさを感じている。

 和睦の翌年、畠山義就は妻子を大和に避難させた。そして兵を連れて河内に向かう。そしてそこの政長の軍との合戦に及んだ。畠山本家の内紛はまだ終わっていない。

 この戦いに義統は参加していない。

「もういいよな。おじい様。政国」

 義統にとってはもはや本家に尽くす義理などなかった。



 応仁・文明の乱のさなかで畠山政国は死にました。実際どれほど義就がかかわったかは不明ですがあまりにも悲しい死にざまです。乱の最中には様々な事件が起こっています。それらに埋もれてしまっていますが悲劇には違いないでしょう。

 さて応仁・文明の乱は敵味方が目まぐるしく入れ替わりどんどん泥沼化していきました。その中で目を引くのは足利義視の西軍化と朝倉孝景の東軍化でしょう。前者は状況を悪化させ、後者は状況を収束に向かわせました。しかし彼らにまつわる諸々の問題は残るわけでそれが後の時代の混乱の一因ともなります。そういった意味でも応仁・文明の乱は戦国時代のきっかけとなった重大な節目なのでしょう。本当にはた迷惑な話ですね。

 最後の誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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