畠山義統 義統戦記 第一話
能登守護、畠山義統の話。畠山義統は幼いころに父を亡くし祖父の義忠に育てられた。祖父の薫陶のもとで育った義統は周囲で起こる様々な事件を目にしていく。その中で義統は何を思うのか。
管領といえば室町幕府の将軍を補佐する立場である。要するに幕府における第二位の立場だ。この管領になれる家は三代将軍足利義満が定めた家のみである。斯波、細川、そして畠山の三家だ。
畠山家で初めて管領を務めたのは畠山基国である。基国は管領を務めると同時に越中(現富山県)河内(現大阪府)紀伊(現和歌山県)能登(現石川県北部)の守護も務めた。そして基国の息子の満家は管領と守護職を継いだが、弟の満慶に能登の守護職を与える。こうして能登畠山家始まった。
そういう話を義統は聞かされて育った。話して聞かせるのは祖父の義忠である。話の最後に義忠は何時もこう言った。
「本家と我らは固い絆で結ばれている。もし本家が苦境に立てば我らは身命を賭して助けるのだ」
正直幼い義統にはピンとこない話である。そもそもその本家は絶大な権力を誇り能登畠山家の助けなどいらない。本家のほうも能登家のことなど歯牙にかけない雰囲気である。
「おじい様。私たちが本家の役に立つ日というのはいつ来るのですか? 」
「それはわからん。だがいつかきっと我らの力が必要となる日が来るであろう」
胸を張って義忠は言う。しかしやはり義統にはピンとこない話であった。
さて現在義統は祖父に養育されている。義統の父の義有はもうすでに死んでいた。義統が物心つく前の話である。したがって義統は父の顔をちゃんと覚えていない。義統には弟がいたが同様である。最もそれを気にする義統達兄弟ではないが。
さて義統は祖父の薫陶を受けすくすくと成長していく一方で、畠山家の本家は混乱を極めていた。
そもそもは義忠のいとこで本家の当主である畠山持国の後継者選びが発端だ。持国は実子がいなかったので弟の持冨を養子にする。ところが永享九年(一四三七)、義統が生まれたのと同年に持国に子供が生まれた。こうなった以上実子に後を継がせたくなるのが親である。義就が成長すると持国は家督を息子の義就に継がせることにした。そして文安五年(一四四八)持冨は廃嫡となる
これで終わればよかったのだが畠山家臣の一部がこれに反発した。そして持冨の子の弥三郎を擁立する。そして畠山本家の内紛が始まった。
義忠は義就を支持した。
「今こそ本家を助けるとき。行くぞ義統」
待っていましたとばかりに義忠は勇躍した。一方で義統は乗り気ではない。
「本家の問題に首を突っ込むのはどうなのでしょうか」
「何を言うか。武家は長男の血統が継ぐのが必定。嫡流の義就殿を助けないでそうする」
「はあ。そうですか」
義統はいまいち乗り気ではない。しかし祖父がこういう以上は従うほかはない。
「とにかくこのゴタゴタをどうにかしないとな」
意気揚々と出陣する祖父にため息交じりに従う義統であった。
こうして義統達も参加することになった畠山本家の後継者争い。このとき義統達は義就につく。
一方で畠山家の有力な家臣である神保氏や遊佐氏は弥三郎を擁立した。さらに当時の管領細川勝元や有力な幕臣の山名宗全までが弥三郎につく。これではどうしようもない。
「勝てるはずないじゃないか」
この四面楚歌ともいえる状況に義統はあきれた。また義忠もこの状況には頭を抱える。
「ここで参戦しても我々はそんするだけじゃないか」
「何を言うか! こんな時こそ本家を助けるために力を尽くさねば」
「しかしおじい様。我らの家が無くなってしまえばどうしようもありません」
結局義忠は義統の言葉に従った。そして特に戦うこともなく引き上げる。
畠山持国は屋敷を襲撃されて強制的に隠居させられた。さらに義就は京を追い出されてしまう。享徳三年(一四五四)八月のことである。
「これでゴタゴタもおさまるか」
義統はそう思ったが同年の十二月、山名宗全が領国に下向した隙を突き義就が挙兵。弥三郎を追い出した。そしてよく享徳四年(一四五五)に持国が死ぬと義就が本家の家督を継ぐ。
一応義就が家督を継ぐことになり義忠は胸をなでおろした。そしてこんなことを言い出す。
「ちょうどいい。持国殿も逝った。わしも隠居しよう」
しかし義統はそれに反対した。
「それは別に構わないのですが…… まだ政情は安定しないと思いますよ。ここで能登家も代替わりとなると混乱が生じるかと」
「何を臆病なことを。まあいい。しばらくはわしが補佐する。それでよいな」
「まあそれなら構いません」
こうして能登畠山家の当主は義統になるが隠居した義忠がそれを支えるという体制になった。
さて自分の都合で隠居した義忠だが、さっそくあることを義統に持ち掛けた。その話を聞いて普段冷めた雰囲気の義統も驚く。
「政国を義就殿の養子にですか? 」
「ああそうだ。義就殿に頼まれてな」
政国というのは義統の弟である。二つほど年下で性格はおとなしい。
「なんでも義就殿には子がいないそうだ。そこで政国を養子にとり我らとの絆を深めたいと思っているのだろう」
義忠は意気揚々と話した。しかし義統は乗り気ではない。
「おじい様。もし義就殿に子が生まれたらどうするのですか? 」
気になるのはそこだった。養子をとった後で実子が生まれ、そのあとに混乱が起きる。その混乱のさまを義就自身がまざまざと見せつけていたではないか。
「まさか持冨殿のようなことにはなりますまいな」
義統は政国をかわいがっている。そんな可愛い弟が追い出されるようなことになるのだけは避けたい。そう義統は考えている。
そんな義統の不安に義忠は答えた。
「心配はいらん。義就殿からは政国を粗略には扱わんという言葉をもらっている」
「言葉だけですか」
「当たり前だ。なんだ義統。義就殿を疑っているのか? 」
ここで義統ははいと答えたかった。しかし義忠の口ぶりからもう話はだいぶ進んでいるということがわかる。要するに初めから答えは一つしかなかった。
「分かりました。おじいさまを信じます」
「儂を信じてどうする。義就殿を信じろ」
こうして政国は義就の養子になることになった。
後日、義統は事のあらましを政国に話した。
「お前の気持ちはどうだ」
「はあ、別にかまいませぬが」
政国はおとなしく素直な性格をしている。しかしいささかのんきなところもあった。
兄の懸念を理解しているのかしていないのか政国は言った。
「心配はいりませんよ兄上。いくら何でも同じ一族のものを粗略には扱いませんでしょう」
実際に粗略に扱われた例を義統は知っている。しかし政国の発言が安心させるために言っているのか何も考えていないのかは義統には分からなかった。
「まあいい。元気でやれよ」
「はい。兄上も」
こうして畠山政国は畠山本家の養子に入った。義忠はこれで本家との絆が深まったと喜んでいる。義統は心配事が増えたと頭を抱えている。
畠山本家の家督争いは義就の勝利で決着がついた。義忠はそう考えて隠居した。しかし義統はそうは思わない。
「おそらく弥三郎殿はもう一度再起するだろう」
この予測は半分当たり半分外れた。
長禄三年(一四五九)弥三郎は志半ばで病死する。しかし弥三郎には政長という弟がいた。そこで弥三郎を擁立していた一派は政長を擁立し義就に対抗する。
そして長禄四年(一四六〇)、細川勝元や山名宗全などの支持を集めた政長が畠山本家の当主となった。いきなり当主の座を追われた義就は京都を脱出し姿をくらませてしまう。もちろん養子になっている政国も一緒だ。
「だから言わんことはないのだ」
この事態に義統はあきれた。一方の義忠は色を失ってしまう。
「なんということだ。これでは義就殿だけでなく我らも危うい」
珍しく慌てた様子の義忠。そんな義忠に義統は言った。
「とりあえず今は我らの身の安全を図りましょう」
「できるのか? 」
「もちろんです。おじいさまの力も借りますが」
まず義統は政長の派閥との連絡を図った。とりあえず敵対しないことを証明し、政長との渡りをつけてもらう。
政長と面会した義統はこう政長に言った。
「我ら能登畠山家は畠山本家を支えるのが役目。そんな我らが政長様に逆らおうなどとはあり得ません」
臆面もなく義統は言った。政長としては義統の発言をうのみにするつもりはない。しかし現状、義就と敵対するメリットもなかった。
一方で義忠は知人の文化人たちと面会を重ねた。実は義忠は芸術方面も顔が利き自身もなかなかの文化人である。この時代文化を担う人々は権力者ともつながりがあった。
「どうにか我らを助けてくれませんか」
付き合いの長い義忠にそう言われれば手を貸すほかない。こうしたつながりも義統達を助けるのであった。
ちなみに義統もひとかどの文化人である。これは芸術方面も義忠から熱心に教育されたからだ。そしてこっちは真面目に学んでいる。
それはそれとして義統たちは工作も甲斐あって、露骨に攻撃されたり排除されたりということはなかった。
一安心したところで義忠は義統に言った。
「今回はお前の手柄だ。もはや儂の助けはいらんな」
「そんなことはありませんよ。おじい様の顔の広さに助けられました。これからも助けられるかもしれません」
「そこは心配いらんよ。皆にこれからは孫をよろしくと伝えた。きっと力になってくれる。それに儂はもう疲れた。もう本格的に隠居するよ」
義忠はそう言って一線から完全に引くのだった。そしてひと段落したというところで義就たちの消息が判明する。
「義就殿はまだあきらめないのか」
義就は河内の嶽山城に立てこもり政長に対抗するつもりのようだった。もちろん政長はこれに反応し幕府の手も借りて義就の討伐を試みる。しかし嶽山城は容易に落ちなかった。
幕府軍は何度も攻撃を加えるが義就の頑強な抵抗に阻まれる。
「義就殿と政国は無事か? 」
隠居してから病がちになった義忠は尋ねてくる義統にいつも聞いた。それに対して義統が答えは
「まだ落城はしていないようです」
である。政長に警戒されてか義就に関する情報は義統のもとには入ってこなかった。
結局義就の籠城は二年半にも及び嶽山城は落城した。寛正四年(一四六三)四月のことである。義就は高野山に逃れたという。
「おそらく政国も共に」
「そうか。だが生きているのならそれでいい」
義忠は安心したように、しかし寂しげに言った。そして嶽山城落城と同年の八月に義忠は息を引き取った。
義統は自分を愛し育ててくれた祖父の葬儀の準備を始めた。するとこんな報告が入る。
「公方様(この時は八代義政)のご生母であらせられる日野重子様がお亡くなりになられました」
「そうか。それは残念なことだ」
「それにあたり公方様は恩赦を出されました。義就様も許されるそうです」
それを聞いた義統は絶句した。そして今まで出したことのないような声で叫ぶ。
「どうせ許すのならもっと早くしろ! 」
義統のやりきれない叫びが屋敷内で響くのだった。
将軍義政の恩赦で義就は赦免された。しかし依然畠山本家の当主は政長のままである。一方の義就は大和(現奈良県)の吉野に籠った。義統は弟の政国からの手紙でこれを知る。
「義就殿はまだあきらめんようだな」
政国からの手紙には義就が兵を集めるなど挙兵の準備を進めているということが書かれていた。そしてその暁には義統にも協力してほしいとも書いてある。
義統は政国に返事を書かなかった。
「悪いな政国。今はうかつに動けんのだ」
現在京の政情は相変わらず不安定であった。今回の義就の赦免には明らかに政治的な思惑が動いていた。特に絡んでいるのは山名宗全と斯波義廉である。
山名宗全は前にも紹介した幕府の有力者の一人である。そして管領の細川勝元と連携して政長を擁立していた。しかしその後で勝元との関係が悪化してしまう。
斯波義廉は三管領の家系の一つである斯波家の人間で同族の斯波義敏と対立していた。実は義敏も幕府と対立していたが義就と同時期に赦免されている。そのため義廉は立場を失った。
宗全にしろ義廉にしろもともとは義就とは対立する派閥の人間といえた。しかし両者とも幕府内で権力を握る細川勝元やそれに近い斯波義敏と対立している。そうした状況下で勝元派の政長と対立する義就を味方に引き込むのは必定といえた。
「平穏は程遠いな」
暗闘続く京で義統はため息をつく。幸か不幸か義統はこれらの暗闘とは距離を置いておけた。これはあくまで畠山家の分家で一国の守護でしかない義統の存在感はそれほど強くないからだ。
「どうにか情勢は沈静化しないものかな」
そんな義統の祈りが通じたのかとりあえず一年程は不気味な平穏が続いた。そして寛正五年(一四六四)にある重大な出来事が起きた。
この時の将軍の足利義政と妻の日野富子の間には男子がいなかった。そこで義政は僧籍に入っていた弟を環俗(僧籍に入っていた人物をもとの立場に戻すこと)させ、名を義視と名乗らせ跡継ぎにしたのである。
「どこかで似たような話を聞いたな」
嫌な予感を覚える義統。そしてそれは的中する。義視が後継者とされたほぼ一年後、義政と富子にとっては待望の男子、義尚が生まれた。もちろん腹を痛めて生んだわが子を将軍にしたいと思うのは当然このとだ。しかし義視は細川勝元に後見され確固たる立場を築きつつある。そこで富子は山名宗全に接近した。
これだけでもたちの悪い事態である。だがさらに義尚が誕生する少し前から義就が挙兵し軍事行動を始めていた。
そして文正元年(一四六六)に決定的な事態が起きた。細川勝元に男子が生まれたのである。そして勝元には養子がいた。この養子は山名宗全の息子の豊久である。勝元は豊久を出家させた。
「またこの流れか…… 」
弟や養子を跡継ぎに決めたら実子が生まれる。そして跡継ぎになるはずだった人間と実子の間で悶着が起きる。もう何度も繰り返してきたことであった。
義統はあきれるしかなかった。最もそれで事態が変わるわけでもない。
これから始まる混迷の時代の空気を義統は感じていた。それが分かっても何もうれしくはない。
こんにちは。お久しぶりです。今日から新しい話が始まりますのでよろしくお願いします。
さて今回の主人公は能登畠山家の畠山義統です。応仁・文明の乱の前後に活躍した人で乱の勃発に深くかかわる管領畠山家の分家の当主に当たる人物です。
義統はある意味不思議な立場の人間です。応仁・文明の乱の中心人物である畠山義就の同族ですが、乱前後の政治闘争にはそれほどかかわっていません。一応一貫して義就に従っているのですが非常に影が薄い。しかしそうした人物から有名な戦いを描くというのもなかなか面白く感じますね。次の話ではいよいよ乱が始まりますが義統の身にもいろいろなことが起きます。ぜひお楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では
 




