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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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龍造寺政家 籠の鳥 後編

 島津家に屈した龍造寺家。しかしすぐに挽回の機会が訪れる。これを喜ぶ政家。しかし政家はある出来事をきっかけに悲運の道をたどることになる。

 天正十五年(一五八七)一月。直茂の想定していた通り羽柴秀吉による九州征伐が敢行された。この少し前に秀吉は豊臣の姓を賜って豊臣秀吉となっている。

 この九州征伐において龍造寺家は豊臣家に寝返った。そして先陣として島津家に攻め入る。

「この機会に父上の仇を討つのだ! 」

 政家は意気揚々と出陣した。そして直茂の助けもあり先陣としての務めを全うする。そして五月には秀吉の九州平定は完了した。

 龍造寺家はある程度の戦果をあげていた。そのためか政家は戦後の所領を高望みしていたようである。

「肥前は元より筑後や肥後。ともかくかつての龍造寺の威光を取り戻せるかもしれん」

 しかし現実に政家に与えられたのは肥前一国であった。政家はこれを不満に思う。

「何故我らに与えられたのが肥前だけなのだ。しかも肥後にはよそ者を入れる始末」

 この時、肥後に入ったのは旧織田家臣の佐々成政である。政家からしてみれば他国から来たよそ者であった。

 それはともかく政家は秀吉の恩賞に不満を持った。もっとも龍造寺家の活躍ではこれがちょうどいい位である。直茂をはじめとする家臣たちも不満はなかった。ただ政家だけが不満を抱いている。

 そんな折に佐々成政が入った肥後で一揆が起きた。これは成政が肥後の支配を急ぐあまり検地を強行、領主たちの反発を買ったからである。

 秀吉は九州の諸将に出兵を命じた。そして九州の諸将が続々と肥後に向かう。しかし政家は出兵しなかった。

 直茂と信周はこれを責めた。

「政家様。これはいけませぬ」

「直茂の言う通りだ。天下人となった秀吉さまの命を無視するとは…… 龍造寺家に災いがあるかもしれん」

 しかし政家は聞き入れない。

「よそ者の尻拭いをなぜ我らがしなければならぬのです。我らの兵をそんなことで失いたくない」

 結局政家は強硬な態度を崩さず直茂たちが折れる形になった。

 しばらくして肥後の一揆は鎮圧された。その後佐々成政は改易され、代わりに加藤清正と小西行長が肥後を分け合う事となる。

 さて秀吉の命令を無視した政家だが当然怒りを買った。

「此度の龍造寺の態度は許せん」

 その怒りは政家の下まで届いた。さすがに政家も事の重大さに気付く。

「どうすればいいのだ。直茂」

 重大さに気付いたところで政家は直茂に頼るしかなかった。直茂もこれを断る理由は無い。

「ここは私にお任せあれ」

 直茂は以前からある繫がりを駆使して秀吉をなだめた。秀吉も直茂の必死の説得に怒りを収める。結局龍造寺家が処分されるようなことは無かった。

「鍋島は見事な家臣じゃ。あ奴がいれば龍造寺は安泰か」

 秀吉は直茂を称賛した。これを聞いた政家は直茂を素直に称賛する。また今回の件で直茂の名は内外に知れ渡るのであった。


 直茂の活躍で龍造寺家は命脈を保った。そして天正十六年に政家は肥前安堵のお礼を伝えるために上洛する。そして秀吉と対面した。

「久しいな龍造寺政家」

 上座から声をかける秀吉。一方の政家は平伏して震えていた。

「(こ、これは父上と同じだ…… )」

 政家は秀吉から父隆信と同じ空気を感じとっていた。これは隆信が非情の行いをするときと同じ空気である。だた厳密には同じではなくケタの違うものであったが。

「(九州で会った時とはまるで違う。これが天下人の空気…… )」

 ようやく政家は秀吉の恐ろしさを知るのであった。

「顔を上げよ。龍造寺政家」

「は、はは」

 政家はゆっくりと顔を上げる。その顔は青い。秀吉はそれに気づいた。

「顔が青いぞ。どうしたのだ」

 そう言われて政家の顔に冷汗が流れた。政家は何と言葉を出す。

「このところ体調が思わしくなく…… 」

「そうか。養生せいよ」

 秀吉は笑った。しかし目は笑っていない。政家は寿命の縮む思いをするのであった。

 こうして秀吉との面会を終えた政家。しかし体調を崩してしまう。これはもちろん秀吉の圧に負けたからである。だが秀吉に言った通り政家の体調が思わしくないのも事実であった。

 そもそも政家は体が強い方ではない。今まで軍役に参加したことはあるが前線で暴れるということはほとんどなかった。しかしここにきて急に体調が悪くなったのも事実である。

 この頃の龍造寺家臣たちはこんな話をしていた。

「このところの殿の体調は思わしくなさそうだな」

「ああ。やはり大殿が死んだ後のごたごたが響いたのだろう」

「いや、巷では大殿が殺した者たちの怨念が祟っているとも言っているぞ」

「どちらにせよ殿は長くないのかもしれんな」

「だとすればどうするのだ。若君はまだ幼子だぞ」

 家臣たちの言う通り政家の嗣子の長法師丸は当時二歳であった。これでは政家の後を継げるはずもない。

 しばらくして体調が回復した政家は肥前に帰った。しかし再び調子を崩してしまう。これを見た信周や慶誾尼らはある判断を下した。

 ある日自室で寝込んでいる政家の下に信周と慶誾尼がやってきた。

「政家よ。身体の調子はどうだ」

「これは叔父上…… このところは体調も良くなってきております」

 政家はそう言うがその顔色は悪い。頬もこけてきている。

「ふむ、そうか」

 信周は感情の感じられない言葉で応えた。一方慶誾尼は黙っている。その二人様子に政家は不安を覚えた。

「ど、どうしたのですか。お二人とも」

 震える声で言う政家。しばらくして慶誾尼が口を開いた。

「今はっきりと分かった。そなたはこれ以上当主の務めを果たせん」

「そ、そんな」

「ゆえに信周や皆と話したが、そなたには隠居してもらい跡を直茂に継いででもらう」

 政家は絶句した。あまりにも衝撃的な話である。

 絶句する政家に信周は追い打ちをかけるように言った。

「直茂は兄上とは義兄弟。龍造寺の家を継いでもおかしくない立場だ。そして何より兄上が死んだあと龍造寺家を立て直し太閤様(秀吉)と誼をつないだのも直茂。もはや家中の皆は直茂に従っているも同然だ」

「叔父上。それはあまりにひどい」

 政家は弱々しく抗議する。しかし二人とも聞き入れるつもりはないようだった。政家はがっくりと肩を落とす。だが何かに気付いて顔を上げた。

「ちょ、長法師丸はどうなるのです」

 気づいたのは自身の息子のことだった。信周は政家を安心させるように優しく言う。

「長法師丸は直茂の養子になる。そして直茂の跡は長法師丸が継ぐのだ」

 それを聞いて政家の顔色も少し良くなった。

「な、ならばいいのです。あとは叔父上たちに任せます」

 そして隠居することを呑み込んだ。

 こうして天正十八年(一五九〇)政家は隠居した。形式上は長法師丸が跡を継いだ形になっているが実質的に龍造寺家の家督は直茂が継いだことになっている。

「直茂ならば長法師丸を粗略には扱うまい」

 政家はそう考えていた。長法師丸が大きくなれば龍造寺家を継ぐのだと。しかしその期待は大きく裏切られることになる。


 隠居した政家は静かな時を過ごしていた。

「今までせわしないことばかりであった。こう静かに過ごすのも悪くあるまい」

 聞くところによれば直茂の治世は素晴らしいもので領内も安定しているらしい。このところ体調も優れている。

「やはり直茂に任せてよかった」

 政家はそうのんきに考えていた。一つ政家の気になることは尋ねてくる人物が少ないことである。直茂や信周、慶誾尼とほか少しの家臣は時々訪ねてきた。しかし人の出入りは少ない。そこだけは気になるところであった。

 さて政家が隠居したのちの文禄元年(一五九二)。秀吉は中国大陸をも制圧する第一段階として朝鮮半島の制圧を目論んだ。足掛け七年にもなるこの戦いを文禄・慶長の役という。

 九州をはじめとする豊臣政権下の大名たちは朝鮮への出兵を命じられた。勿論龍造寺家も入っている。

 この時の龍造寺家の軍勢の指揮を命じられたのは直茂であった。これを聞いた政家は戸惑う。

「形だけでも長法師丸に命ずるものではないのか」

 龍造寺家を実質的に運営しているのは直茂である。しかし名目上は長法師丸が当主だ。ならば公式の命令は当主である長法師丸に命じられるものではないのだろうか。政家はそう考えた。

「直茂はこのことをどう思っているのか」

 政家は初めて直茂への疑念を感じた。しかし直茂は出兵の準備のため忙しいと言って会えない。結局そのまま出陣した。

 こうして直茂は異国の地へと旅立った。この時直茂の息子の勝茂も出陣している。その姿は大名とその継嗣のようであったという。その話を聞いた政家の心はさらに乱れた。

「直茂は本当に長法師丸に跡を譲るつもりなのか」

 そんな疑念を抱えたまま時は流れた。そして慶長三年(一五九七)秀吉の死と共に文禄・慶長の役は終わる。この頃には政家の下を訊ねる人々もますます少なくなった。

「皆私を忘れてしまったのか」

 政家は不安と疑念に駆られるのであった。

 そして慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の合戦が起こる。徳川家康の東軍と石田三成、毛利輝元の西軍とに日本中が分かれたこの戦いで龍造寺家、そして鍋島家は西軍に就いた。しかし西軍は敗れてしまう。

 この事態に政家は直茂を呼び出した。

「いったいどうするつもりなのだ」

 政家はこの件を利用して家督を長法師丸に譲らせようと考えていた。長法師丸も一五歳。元服して高房と名乗っている。

 ところが政家の目論見は外れた。

「ご安心ください政家様。家康様へ渡りはつけてあります。これより柳川の立花殿を攻めて汚名をそそいでまいります」

 実際直茂の目論見通りに立花家を攻撃した功績で龍造寺家の所領は安堵された。これに龍造寺家臣たちは喜んだ。だが政家だけが複雑な心境でいる。

「このまま龍造寺家は直茂に奪われてしまうのか」

 もはやここに至り政家の中に直茂への信頼は無くなっていた。だが、そうであってもどうすることのできない政家である。


 時が流れるにつれて龍造寺家は着実に直茂の下に掌握されていった。政家は危機感を抱き信周に相談する。

「叔父上。このままでは龍造寺家は直茂に乗っ取られてしまいます」

 この政家の歎願を信周に冷然と言った。

「もともと直茂に国政は任せるつもりだ。今や家中の皆は直茂の家臣でいるつもりでいる」

「叔父上はそれでいいのですか」

「仕方なかろう。何より直茂には家を長らえさせた功がある。仕方あるまい」

 実はこの時点で信周等龍造寺一族は直茂の鍋島家が龍造寺家にとって代わることを容認していた。それほど直茂の存在感は大きいものであった。また徳川家康が開いた江戸幕府は鍋島家を肥前の領主として認めている。この時点で龍造寺家は鍋島家に取って代わられていた。

 政家はいよいよ絶望した。唯一の希望は高房である。しかし高房は直茂の孫娘を娶り江戸に留め置かれている。直茂は江戸の高房を大事に扱っているが事実上の人質とも言えた。

「これではどうしようもない。こうなれば高房の成長だけを願いひっそりと暮らそう」

 すっかり気落ちした政家はそんなことを考えていた。だが慶長十二年(一六〇七)三月とんでもないことが起きる。なんと高房が自分の妻を殺し自殺しようとしたというのだ。

 政家は動転した。

「いったいなぜ…… 」

 高房は一命をとりとめたらしい。

「(高房も己の境遇に不満を抱いていたのか)」

 政家は高房に同情した。一方で孫娘を殺された上に面子も潰された直茂は怒る。実際直茂は龍造寺一族には配慮を続けていた。高房も大事に扱っている。だというのにこのような事件が起きた。

「高房さまは何を考えているのだ! 」

 直茂は高房に今回の行動を詰問する書状を送ったという。

 この書状を高房がどう思ったかは不明である。しかし事件が起きた同年の九月に高房は傷が再び開き死んでしまった。

 政家は高房が死んだことを聞いて悲嘆にくれた。

「何故だ高房! なぜだ! 」

 悲嘆にくれる政家は精神と肉体の双方を弱らせてしまう。そして息子の死の一ヶ月後にひっそりと死んでいった。享年五一歳。これで大名としての龍造寺家は滅亡した。

 政家と高房の死で肥前の地は完全に鍋島家のものとなる。この後鍋島家は佐賀藩の藩主としてこの地を幕末まで治めた。そして幕末から明治にかけて多くの有能な人材を輩出している。

 最後の佐賀藩主鍋島直大は散在していた歴代藩主の墓を菩提寺の高伝寺に集めた。この時政家を始め隆信、高房を含む龍造寺家当主の墓も集めた。そのため鍋島家の墓と龍造寺家の墓は同じところにある。龍造寺家と鍋島家には本当に不思議な縁で結ばれている。


 家臣が主君を討って成り上がることを下剋上といいます。こうした下剋上の例は戦国時代の随所にみられました。いっぽう鍋島家の場合は龍造寺家を滅ぼすつもりなど毛頭なく必死で尽くしました。なのに最終的には龍造寺家を乗っ取る形になってしまいます。何とも不思議なものですね。

 さて政家は悲劇的な最期を迎えたと言えます。直茂は政家も高房も丁重に扱い続けたようですが、これを政家はどう感じていたのでしょうか。それは史料が無いのでわからないのですが気になるところですね。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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