奥平信昌 婿殿 第十話
徳川家は関東に転封となり信昌は大名となった。しかし信昌の目には家康の天下は見えない。しかし再び戦乱が起こるとき家康の天下が再び信昌の目の前に現れる。そして戦乱は信昌に最後の役目を与えるのである。
時は流れて慶長三年(一五九八)になった。この年の十二月に信昌の父、貞能が亡くなる。享年六十二歳であった。
晩年の貞能は秀吉に招かれて京の伏見で暮らしていた。隠居した与十郎も一緒である。そして秀吉に故事や戦史を語る相伴衆の一人になった。
「全く。いい暮らしをさせてもらっている」
晩年の貞能はそんなことをつぶやいていた。信昌はのんきなものだとも思ったが、自分の一族郎党を守るために尽くしてきた父が穏やかに暮らせるならそれでいいとも思っていた。
ともかく信昌は父の弔いに大わらわであった。一方でこの頃伏見では大変なことが起きている。貞能が亡くなる四か月前に秀吉が亡くなったからだ。
秀吉は死の間際に際し幼い息子の秀頼を支える五大老、五奉行制を考案した。その中で家康は中心的な立場に置かれている。しかしこれを快く思わないものもいた。その筆頭が石田三成である。
貞能の死から年が明けての正月。信昌は一族郎党共々新年の祝いはせず喪に服していた。そんな時に伏見に残っている与十郎から連絡が届く。
「伏見で戦が起きると? 」
この時上洛した家康に対し石田三成は何らかの行動をとろうとしたらしい。それに対し家康を支持する武将たちが家康の警護をはじめたそうだ。これにより伏見は一種即発の事態に陥っているらしい。また家康は秀吉の死後いろいろと独断で行動しようとしたらしいがこれが災いした面もあるようだ。
亀姫はこれを聞いて顔を青くした。
「父上はご無事なのでしょうか」
「この書状を見る限り大丈夫だ。しかしそこまでの事態なら何らかの動きがあるだろう」
信昌の読み通り重臣の榊原康政率いる軍勢が京に派遣された。その後しばらくして家康や石田三成達奉行衆やほかの大老たちと和解する。
信昌はこれらの与十郎から送られる情報をつぶさに確認していった。そして与十郎に伝える。
「これより先も伏見でいろいろ起こると思う。隠居の身で悪いがそれらの情報をこちらに伝えてくれ」
これに対し与十郎も。
「承知しました」
と、答えた。
一方信昌は定直に命じて軍備をしっかり整えるよう命じる。これに対して定直は言った。
「また戦が起きると? 」
「ああ。きっとそうだ」
「わかりました。いつでも戦に出られるよう準備いたします」
こうした動きを亀姫は不安そうに見つめていた。
「やっと平和になったというのに…… また戦が起きるのですか」
これに対して信昌はこう言う。
「すまない。しかし殿はまだ天下をあきらめていないようだ。それで戦になるのなら私ははせ参じなければならない」
「父上はあきらめていないのですね」
亀姫は少し責めるような口調で言った。それを信昌は否定しない。
「亀子の気持ちは理解出来る。しかしこうなっては戦に備えるのが何より命を守ることにつながるのだ」
「ええ。わかっています。だから私は信昌さまの無事を祈るだけです」
「ああ。ありがとう」
気丈にふるまう亀姫に信昌は優しく言うのであった。
慶長五年(一六〇〇)七月。家康は自分に反発する会津(現福島県)の上杉家の討伐に向かった。信昌もこれに参陣する。
「これで上杉を討てば家康さまの権力も盤石になりましょう」
「そうだな定直。しかし殿はその後どうするのか」
今回の戦はあくまで豊臣政権の名の下に行われる。
「(上杉殿を討ってもあくまで豊臣家臣としての立場が強くなるだけ。それは殿の天下といえるのだろうか)」
信昌はそんなことを思わないでもない。しかし結局のところやることは変わらなかった。
「殿のために戦うだけだ」
こうして家康たちが会津に向けて北上しようというときに石田三成が挙兵したという報せが入る。家康はこの挙兵を当初三成とその盟友大谷吉継の二人によるものと考えていた。しかし暫くして五大老の毛利輝元や宇喜多秀家、家康に反目する大名たちも参加するという巨大なものとなる。またこの行動は豊臣政権に公認され家康は一転反逆者となった。
それはともかく家康は反転し三成を討つために西上することにする。家康は自ら率いる本隊と息子の秀忠に率いらせる別働隊とに分かれて西上することにした。
信昌は家康の本隊に加わる。
「頼むぞ。婿殿」
「お任せください」
いつになく真剣な様子言う家康に信昌は自信満々に答えた。
そして慶長五年九月。家康率いる東軍は関ヶ原で石田三成率いる西軍と決戦に及んだ。関ヶ原の戦いである。信昌は家康本陣に配備された。
戦いは一進一退の攻防を続ける。決着は容易につかない。
信昌は最前線の少し後方から戦場を見つめる。そこから見ると若干此方が押されているようにも見えた。
「これはまずいな」
焦る信昌に定直は言う。
「我々は敵に囲まれております。今は動きが無いようですがもし動いたら」
定直は不安げな表情で言った。
この時実際東軍は西軍に包囲される形になっていた。しかしその西軍の一部は東軍に内応している。
信昌は定直を励ますように言う。
「心配するな。きっと殿にはお考えがあるのだ」
実際、その通りなのだが信昌も不安を感じていた。
やがて戦況が動く。東軍に内応していた小早川秀秋の裏切りをきっかけに秀秋同様東軍に内応していた武将たちが西軍に襲いかかった。これを見て家康は叫ぶ。
「今じゃ。我らも切り込め! 」
この号令にまず反応したのが信昌であった。
「ここが勝機だ。逃すな」
この時信昌の年齢は四五歳。この時代としてはだいぶ盛りを過ぎた年齢である。しかし切り込む信昌の姿は長篠で死闘を繰り広げた頃の姿を彷彿とさせるものであった。
「殿に続け! 」
信昌につられて定直も叫ぶ。こうして信昌をはじめとする徳川本陣は西軍に突撃していった。そしてこれがとどめとなり西軍は総崩れとなる。そして東軍の勝利で終わった。
戦いが終わり信昌は一息つく。
「何とか亀子を泣かせずに済んだな」
「全くです」
定直は信昌の言葉にうなずく。そしてしみじみと言った。
「しかし先陣を切って切り込んでいく姿は昔と変わりませんな」
「茶化すな」
信昌は定直の物言いに照れくさそうに答えるのであった。
こうして関ヶ原の戦いは終わった。戦後処理が始まる中で信昌は家康にあることを命じられた。
「そなたを京都所司代とする」
京都所司代というのは京の治安維持を務める職務である。かなり重要な立場であった。
このことに信昌は驚いた。
「私でよろしいのですか」
徳川家には多くの有能な人物がいる。そんな中であえて自分が抜擢される理由が信昌にはわからない。
そんな信昌に家康はこう諭した。
「婿殿は謹厳実直。今の京はいささか混乱しつつある。そういう時に婿殿のようなものが上に立てば民も我々も安寧なのだ」
そう言われては信昌の答えは一つである。
「所司代の任。まっとうして見せます」
こうして信昌は京都所司代の任に付いた。この役目は江戸時代を通じて存在したが、信昌はその初代といえる。
この時の京は表立って混乱してはいなかったが、関ヶ原の戦いで敗れた西軍の将が隠れていることもあった。信昌にはそうした人々の捜索も任されている。
そんな中で信昌にこんな報告が入った。
「殿! 」
「どうした定直」
「それが、安国寺恵瓊殿を捕らえたとの報告が」
「なんだと! 」
安国寺恵瓊というのは毛利家に仕える僧侶で、外交などで活躍した人物である。そして今回の関ヶ原の戦いでは反家康の様々な謀略にも携わった。要するに西軍の重要な人物である。
恵瓊を捕らえたとあれば信昌の大きな功績である。信昌はすぐさま手配し恵瓊が本人かどうか確かめた。そして本人だと判明すると家康の下に送ることになる。
信昌は定直に恵瓊を捕縛した人物のことを聞いた。
「見事な男だ。一体どんなものだ」
「それについてですが呼び寄せております。きっと殿は驚きましょう」
定直はそう言ったが信昌には意味が分からなかった。
やがて恵瓊を捕らえた人物が現れる。その男は名乗った。
「鳥居信商と申します」
名を聞いて信昌は驚いた。
「まさか、強衛門の息子か? 」
「はい。左様にございます」
そう。安国寺恵瓊を捕らえたのは長篠で信昌たちを救った強衛門の息子であった。
信商は信昌にこう言った。
「殿が父の死を悼み私を取り立てていただいたおかげで今回の手柄を立てられました。本当に有難き幸せ」
恭しく首を垂れる信商に信昌は言った。
「何を言うか。あの時そなたの父が命を賭けたおかげで今の私や奥平家がある。それに今度はそなたがこのような大手柄を立ててくれた。むしろ礼を言うのは私の方だ」
そう言って信昌は頭を下げた。これには信商も驚いたようである。
信昌は信商に百石の加増を与えた。さらに捕縛に尽力した家臣たちにも褒美を与える。
「鳥居家は奥平家に幸運をもたらす福の神だ。これからも我らを助けてくれ」
「もちろんです」
信商は感涙しながら頷くのであった。
この後信昌は順調に所司代としての職務を果たした。そして一年で任期を終える。この間に京では取り立てて大きな問題も無かった。
「やはり婿殿に任せてよかったな」
家康は信昌の仕事ぶりを評価しその功績をたたえた。そしてその褒美として上野小幡三万石から美濃加納十万石へと加増する。さらに信昌の嫡男九八郎改め家昌には下野宇都宮十万石が与えられた。
「本当にありがたい話だ」
信昌は泣いて喜びながら美濃の加納に移っていった。その一年後の慶長七年(一六〇二)に隠居し領地を三男の忠政に譲る。
「これで私の役目も終わりだな。あとは殿の天下が成るのを見ていればいい」
信昌はそんなことをつぶやきながら息子を見守るのであった。
信昌は隠居したが息子の忠政は病弱であったという。そのため影で忠政を支えた。
「しかしいつかは忠政も独り立ちするだろう」
そう言う希望を持って生きてきた。
信昌が隠居している間に家康は着々と自分の天下を作り上げていく。信昌が隠居した翌年には征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。その二年後の慶長十年(一六〇五)には嫡男の秀忠に将軍職を譲り、徳川家による世襲制を世に知らしめる。この後も幕府の体制を徐々に固めていった。
その様子を信昌は亀姫と共に眺めていた。
「これが父上の天下という事ですか」
「そうだ。これでもう戦は無くなるだろう」
「それはいいことですね」
そんなふうにのんきに過ごしていた信昌と亀姫であった。
そうした中で慶長十九年(一六一四)ごろからまだ存続していた豊臣家と徳川家の仲に亀裂が生じた。一方で信昌には息子の家昌と忠政が若くして死ぬという不幸に見舞われる。
「何という事だ」
悲嘆にくれる信昌。一方亀姫は声も出ない。
「私は多くの犠牲の上に立っている。これがその報いなのか」
嘆く信昌。そんな信昌のことは知らんとばかりに徳川家と豊臣家は決裂し戦となった。信昌はこの戦いに参戦するつもりである。
「こうなればもう戦って死ぬ」
息子に相次いで先立たれて投げやりになっていた。しかしそんな信昌を亀姫は引き留める。
「そんな投げやりにならないでください」
「止めるな亀子。今の私には殿の天下を助けることしかないのだ」
「死にに行く理由に父上を使わないでください」
結局定直をはじめとする家臣たちや幕府からも止められ信昌は参戦しなかった。だが代わりに兵だけは送る。それを指揮するのは信昌の四男の忠明であった。
忠明は家康の養子になり松平姓を名乗っていた。そして伊勢亀山五万石を治めている。ただこの時の忠明が指揮する兵は五万石の大名とは思えないほどの数であった。
「これだけ兵を送れば忠明が死ぬことはあるまい」
信昌はそうつぶやいたかどうかは不明である。
こうして徳川家と豊臣家の戦いが始まった。戦いは慶長十九年の十一月から始まり翌慶長二十年(一六一五)の五月に終わる。信昌はこの中間の慶長二十年三月に死んだ。
「殿の天下は見られなかったな」
信昌はそれだけが無念であった。しかしその顔は安らかである。
「おふうたちの所にはいけるのか? 」
死の淵で信昌は小さくつぶやいた。それは誰に聞かせるわけでもない小さなつぶやきである。しかし亀姫だけは聞いていた。
「きっと行けます。だってあなたはこんなにも頑張ってきたのだから」
「そうか…… 」
そうつぶやいて奥平信昌は死んだ。享年六一歳。
残された亀姫は夫や相次いで死んだ息子たちを弔うために尼となった。幼くして藩主となった孫たちの後見をしたという。そして信昌の死の十年後に亡くなった。
奥平家は長男家昌の家系と四男忠明の家も奥平松平家として残る。両家は廃藩置県の頃まで存続した。信昌の奮闘の人生は無駄にはならなかったのである。
歴代の話で最長となった『奥平信昌 婿殿』ついに終わりました。当初はこんな長くなる予定ではなかったのですが調べているうちにどんどん長くなってしまいました。これからはもっと構成を考えなければいけないなあと感じる次第です。
さて最終的に信昌は加納の大名となり息子は宇都宮の大名となりました。のちも一族の者は徳川家の親戚扱いを受けたそうですがこれも亀姫との縁と信昌の奮闘のなせるものでしょう。ですが晩年は息子を立て続けに失うという不幸にもあっています。手に入れたものと失ったもの。比較した時信昌は幸せだったのか。それとも不幸であったのか。それは本人にしかわからないものですが気になりますね。ともかく奥平信昌の人生は数奇といっていいものでした。それを少しでも感じていただければ幸いです。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




