奥平信昌 婿殿 第七話
長篠の戦は終わり生き残った信昌。そんな信昌に縁談が持ち込まれる。乗り気な家臣たちを前に信昌は何を感じるのか。
長篠の戦の事後処理もひと段落したころ。貞能は家康に呼び出された。
家康は貞能に対してこう言った。
「そろそろ信昌に亀姫を嫁がせようと思うのだが」
そう言われて貞能はあわてた。まだ定昌には何も言ってはいない。
「(これはいかんな…… )」
貞能は何とか取り繕おうとする。しかし家康にはお見通しであった。
「まだ信昌には伝えておらんようだな」
「は…… 申し訳ありませぬ」
「聞くところによると信昌にはかつて妻がいたそうだな」
「そ、そこまでご存知でしたか」
ここまで知っているのならばしようがない。貞能は信昌とおふうに関することをすべて話した。
家康は黙って聞いていた。そして話が終わると貞能に頭を下げる。
「すまんな。儂の浅慮のせいでおふうとやらを死なせてしまったようだ」
「そ、そんなことはございませぬ。これもすべて私の責にございます」
貞能はますます慌てた。
「信昌には新たに妻を迎えるようにといっていますが…… なかなかに頑固で。亀姫様のこともなかなか伝えられませぬ」
「なるほどそれほど思っておったか。しかしな貞能」
「はい」
「信昌にはこれからもいろいろ働いてもらおうと思っている。そんな男に妻がおらんというのはいろいろと苦労するのではないか」
「全く持ってその通りです」
「儂も信昌ならば亀姫の夫にふさわしいと思う。何より二人の間の子ができれば徳川にも奥平にも大変めでたいことだ。違うか? 」
「はい…… 」
少しだけ家康の態度に険が現れた。貞能もいよいよ体中から冷や汗をかき始める。
「兎も角、信昌にこの件を伝えておくのだぞ。儂からの言葉もな」
「しょ、承知しました」
そう言って家康は退室した。家康の姿が無くなると貞能の体に疲労の波が押し寄せる。
「全くどうしたものか…… 」
貞能は立ち上がることもできずにいた。正直懸念しかない。
「(信昌があれほど戦えたのはおふうのこともあるだろう。それに家中の者どもの話ではまだおふうを忘れてはいないようだ。全く信昌め…… 妙なところで意固地になりおって)」
しばらくして立ち上がった貞能は帰り道を歩き始める。その足取りは重い。
「とりあえず与十郎に連絡だな」
まずはそこから始めないと話にならなかった。貞能は与十郎を呼び出すと家康との話を全て伝える。与十郎も頭を抱えた。
「正直、信昌さまが首を縦に振るかどうかわかりません」
「そこをうまくどうにかしてくれ。これは奥平家の存亡に関わることだ」
「左様ですね…… とりあえず話してみましょう」
「ああ、頼んだ」
こうして与十郎は信昌の下に帰っていくのであった。
与十郎は帰還するとまず定直にすべてを話した。定直は長篠の戦での活躍もあり奥平家中で中心的な人物になっている。
定直は驚いた。
「殿と家康さまの御息女を…… それは大変なことでは」
「その通りだ。しかし殿は頷くか…… 」
「確かにそうですね」
二人とも信昌のおふうへの思いは知っている。しかしだからといて家康の意向を無視するわけにはいかない。
「我ら二人で説得するしかありませんね」
「そうだな」
とりあえず二人は内密の話があると信昌を呼び出した。呼び出された信昌は不思議そうな顔をしている。
「二人そろって内密の話は何だ? 」
信昌に問われまず与十郎が話し始めた。
「先だって大殿の下に行った時のことですが」
「ああ。父上は元気だったか? 」
「はい。それで大殿は先だって家康様にお目通りをしたそうです」
これには信昌も驚いた。そして真剣な表情になる。
「それで何があった」
「それは…… どうやら家康さまは先だっての殿の戦ぶりをとてもお気にいられたそうです。そこで…… その」
そこで与十郎は口ごもった。そして定直の方を見る。定直はそのまま行けといわんばかりの顔をして頷いた。与十郎も覚悟を決める。
「家康様ご息女の亀姫様をぜひ殿の妻にと申されたそうです」
与十郎は言い切った後で信昌の顔を見た。信昌は腕を組み瞑目する。その様子に与十郎も定直も言葉を発せられない。
しばらく三人の間を包んだ。だが耐えられなくなったのか定直が口を開く。
「此度の家康さまの申し出。とても名誉なことだと思います。何より奥平の家にとってはかつてないほどの吉事」
与十郎もそれに続いた。
「左様です。定直殿の言う通り。ここで徳川家との縁が深まれば奥平家は末永く反映するでしょう」
そこから二人はこの婚姻のメリットを信昌に説く。しかし信昌は反応しない。
やはりだめか、そう二人が思ったとき信昌が口を開いた。
「与十郎よ」
「は、はい」
「父上を通じ家康様にこう伝えよ。『ありがたき幸せ。此度の申し出謹んでお受けいたします』と」
信昌の発言に与十郎も定直も絶句する。一方信昌はそんな二人を尻目にその場を去っていくのであった。
しばらくして定直が言った。
「まさかお受けになるとは…… 」
定直はまだ信じられないと言った雰囲気である。しかし与十郎は嬉しそうであった。
「殿も奥平家の長としての自覚ができてきたという事でしょう」
しかし定直はまだ信じられないと言った雰囲気であった。
「うーん…… そうゆう事なのかな」
「まあ何はなくともめでたいことです。早速貞能様に知らせましょう」
そう言って与十郎もその場を去る。残された定直はまだ納得いかないのか一人悩むのであった。
こうして信昌は亀姫との婚姻を受け入れた。すると当然とんとん拍子に話は進む。
与十郎が貞能に使者を送った翌日、貞能はすぐに家康に伝えた。
「先日の件。喜んで受けさせていただきます」
家康も喜んだ。
「それは良いことだ。すぐに話を進めよう」
すると家康は婚姻に関わる準備を手早く進め、半月後には無事結納時に至った。
この動きの速さに定直は舌を巻く。
「なんとまあ。家康さまは思ったより気の早いお方なのだな」
そんな定直を与十郎はたしなめる。
「そもそも話は前々から進んでいたのです。それを殿の御意思を尊重してうまく引き伸ばしていました。家康様からしてみれば待ちに待ったことなのでしょう」
「それほど娘を嫁がせたかったのでしょうね」
「それもありますが殿をよほどお気にいられたようです。何はともあれこれで奥平家は安泰ですね」
与十郎はご満悦といった様子で言う。一方で定直はまだ納得いっていないことがあった。
「しかし殿が心変わりを成されるとは。それが信じられません」
「先立っての戦を通して殿も当主としての御自覚ができたのでしょう。よいことです」
「それはそうだと思いますが…… 」
定直はいまだ納得がいっていなかった。
そうこうしているうちについに婚礼の日の前日にになった。婚礼は浜松城内の屋敷で行われる。定直は信昌や家臣たちと共に数日前から浜松の奥平家の屋敷にいた。ここには貞能も住んでいる。
婚礼の前日まで貞能は上機嫌であった。
「これで奥平の家は末永く安泰じゃ。武田を打ち払った以上徳川の家を脅かすものも早々いまい。いやはやめでたい」
そう浮かれる貞能を信昌も定直もほほえましく見ている。貞能はこれまで奥平家を盛り立て存続させるために尽くしてきた。その苦労がこういう形で実ると感動もひとしおなのだろう。
この日も奥平屋敷は終始明るい雰囲気であった。しかしある時貞能がこんな発言をしてしまう。
「主君の娘を娶るという誉を我が息子は授かった。あの時危険を冒し武田を離反したことはこの貞能の最大の功績かもしれん」
その発言が出た途端信昌の表情が凍り付いた。しかし浮かれる貞能も与十郎やほかの家臣たちも気づかない。定直のみが気付いた。
定直はどうすることもできぬまま信昌を見た。すると信昌は立ち上がると部屋を出て行く。それを貞能が呼び止めた。
「どうしたのだ? 」
「婚儀も近いので一足先に休ませてもらます」
「うむ。それもそうだな。我々もそろそろお開きとしよう」
そう言って貞能は宴会を終わらせた。女中たちが片づけを始める中信昌はふらりと座敷を出て行く。定直はこっそりとそれを追う。
しばらくして信昌は縁側に座った。この場はあまり人の通らないところである。定直は周りに人がいないことを確認すると出て行った。
「殿」
「定直か。どうした」
そう言う信昌は浮かない顔をしていた。定直はズバリ言う。
「殿は亀姫様との婚儀に乗り気ではないのですね」
定直の言葉に信昌はためらいなくうなずく。そして話し始めた。
「これが奥平家の繁栄と存続につながることは理解している。そして当主としてそのために動かなければならないことも。だが…… 」
信昌はそこで言葉を区切った。そして月を見上げるとますます物憂げな表情になる。
「私は妻を見殺しにその上で新しい妻を娶ろうとしている。これは許されることなのだろうか」
定直は何も言えなかった。正直それは仕様がないことなのだろうと定直は思う。しかしそれを言ったところで信昌の心が晴れるとは思えない。
「(おふうさまはここまで殿のお心に入っているのだな。驚くばかりだ)」
信昌は浮かない表情のまま月を見上げている。この時どう言葉をかければいいか。少し考えた後定直は言った。
「過去を悔やむのなら繰り返さぬようにするしかありません。それと今回のことは避けられぬものではございまぜぬ」
「そうか?」
「はい。結局人は前に進むしかないのでしょう。出会うすべてを受け止めそれで進む。それしかありません。私は現実を受け止め前に進んだからこそあの戦いを生き残れたのだと思っています。それは皆もそうです」
定直は強い言葉で信昌に言った。信昌はそんな定直をじっと見ている。そして微笑んだ。
「ありがとう定直。私も前に進んでみようと思う」
「はい。それは良いことです」
信昌は晴れやかな顔で自分の部屋に戻っていく。残された定直も安堵して自分の部屋に戻るのであった。
数日後、信昌と亀姫の婚礼が行われた。婚礼は和やかに進み参加した家康も満足そうである。徳川家も奥平家も満足のいく婚礼になった。
やがて初めての夫婦だけの夜が訪れた。だが信昌はいざ亀姫と二人きりなって思い至る。
「(彼女は家康さまの御息女なのだよな)」
今更過ぎる話だが信昌はそう思った。そしてそこに気付くとぎこちない対応になる。
「まずは体を楽に…… 」
妻に言うにはおかしい言葉である。しかし相手が家康の娘だと思うと自然とそう言う態度になってしまった。
信昌の言葉に亀姫は何も言わなかった。二人の間に何とも言えない沈黙が流れる。だがやがて亀姫が不満そうに言った。
「なんですか。その態度は」
亀姫はこの時十代半ばの可憐な少女である。そんな少女が頬を膨らませて言うのはかわいらしい。しかしこう言われては信昌も戸惑う。
「しかし…… 主君の御息女であらせられるあなたに粗相があっては」
信昌がそう言うと亀姫はますます不機嫌になった。そして不満を言い始める。
「そもそも父上は私の話を聞かず縁談を進めて。それが徳川の家のためならよいのにまさか褒美として私を嫁がせるなんて。本当に何を考えているの」
亀姫の物言いに信昌は呆気にとられた。そんな信昌にも亀姫は不満をぶちまける。
「だいたいあなたも可笑しいではないですか。今の私はあなたの妻。それなのに私を主君の娘だからと遠慮して。それでも武士ですか」
そう言って亀姫は信昌を睨んだ。しかし信昌はキョトンとした顔でいる。そしていきなり笑いだした。これに亀姫は驚く。
「な、何を笑っているのですか」
戸惑う亀姫に信昌は言った。
「いえ。自分の不甲斐なさを改めて感じていました。まさにあなたの言う通りだ。定直に出会うすべてのことを受け止めろと言われたのにそれができなかった。情けない男だ。私は」
信昌は亀姫の手を取った。亀姫はさらに驚く。
「亀姫様、いや亀」
「は、はい」
「これよりは私の妻として奥平家と徳川家のために生きてほしい」
しっかりと亀姫の目を見つめて信昌は言った。それに亀姫は心を落ち着かせて答える。
「わかりました、私も武家の娘。奥平の女として生きていく覚悟はできています」
「そうか…… ならばよろしく頼む」
「はい。こちらこそ…… ですが、その」
亀姫は言いにくそうにしていたが言った。
「亀、という呼び方は、その。やめてほしいのですが」
それを聞いて信昌はキョトンとした。だがすぐに笑い出す。亀姫もそれにつられて笑い出すのであった。
こうして戦国の世に新たな夫婦が生まれた。そしてここから奥平家と徳川家はさらなる激動に巻き込まれるのである。
この話で信昌はついに家康の婿殿になりました。そもそも信昌と亀姫の婚姻は奥平家を取り込むための策の一つでした。つまり娘を差し出しても構わないと思うほど奥平家の価値を見出していたのでしょうね。
さてこれまでの話は比較的ゆっくりとした速さで進んでいました。次からは時間の流れがだいぶ早くなります。別に長くなってきたから早く終わらせようとかそういう事ではありません。本当ですよ?
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




