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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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奥平信昌 婿殿 第三話

武田家の猛威に屈した奥平家。だがある一人の男の死により再び転機が訪れた。そして定昌とおふうにある悲劇が降りかかる。

 武田家の徳川領国への侵攻は中途半端な形で終わった。これは明らかに不自然であり多くの人間にある疑惑を抱かせた。

「武田信玄は死んだのではないか」

 多くの人間がそう思った。勿論貞能と与十郎もそう思ったし家康も同様である。定昌のみが妻の身を案じて手一杯であったが。

 一方与十郎は手を尽くし武田家の内情を探った。当主が死ねばいくら隠そうともほころびは出る。また急な撤退である以上死んだまではいかなくとも病になったとか緊急の事態は起きたはずだった。それによっては奥平家の行く末も決まる。

「何としてでも調べなければならない」

 与十郎は不眠不休の努力を続けついに武田信玄死亡の情報を得た。そしてそれを貞能、そして定昌に伝える。

 報告を聞いた定昌は驚いた。それと同時に納得する。

「だから急に反転したという事なのですね」

「左様です」

 肯定する与十郎の顔色は悪い。定昌は言った。

「父上。まずは与十郎を休ませては」

「そうだな。与十郎、よくやってくれた。今は休め」

「はい。ありがたき幸せ」

 そう言って与十郎は引き下がった。残されたのは奥平父子だけである。

 定昌はふさぎ込んでいた。貞能はそれを不思議がる。

「どうしたのだ? 」

「いえ。父上も与十郎も武田家が撤退を始めた時すでに気付いていたのでしょう。それだというのに私はおふうや千丸のことばかり…… 」

 気落ちした様子で定昌は言う。そんな定昌に貞能は優しく言った。

「儂も与十郎も始めから勘がさえていたわけではない。儂も父上に倣い経験を積むことで今に至るのだ。お前も今回のことを気に学ぶのだ」

「…… はい」

 父の励ましに定昌は大きくうなずいた。少し自信を取り戻した定昌は貞能に問いかける。

「しかし信玄殿が死んだとなれば武田家はどうなりましょうか」

「そうだな。そこが問題だ」

 武田信玄という人物は稀代の傑物であった。大名の家というのは傑物の当主が死んだからといってすぐに崩れるわけではない。だが信玄のカリスマというものは隔絶したものであるのは内外に知られていた。

「家を継ぐのは四男の勝頼殿だろう。しかし正室の子ではない勝頼殿に武田の家臣は従うのか…… 」

 そんなことをつぶやく貞能。一方で定昌の意識は別の所にあった。

「父上」

「なんだ? 」

「ことと次第によっては武田家を見限るおつもりですか」

 定昌の問いに貞能は驚いた顔をする。しかしすぐに笑った。

「それは今後の次第によるな」

 貞能の笑みは息子が少しだけ成長したところを見せたからのものである。しかし笑みを向けられる定昌は浮かない顔をしている。

 定昌は絞り出すように言った。

「そうなれば…… おふうと千丸は…… 」

 やはり定昌の心配はそこにある。そこは変わらぬ息子に貞能は苦笑するのであった。


 奥平親子は今後の去就に悩んだ。そんな折に徳川家から極秘裏に使者がやってくる。貞能は使者と面会した。

「それで如何様かな」

「はい。わが殿は貞能殿の力を再び借りたいと申しております」

「なるほど…… 」

 そう来たか。貞能はそう思った。

「(おそらく家康殿も信玄殿が死んだと思っているのだろう。しかし果たして事実を知っているかどうか)」

 貞能は使者の顔をじっと見る。それでわかるはずもないが。

しばらく考えて貞能は言った。

「ご厚意に感謝します」

「承知しました」

 使者の方も意図は分かっているのかそのまま去っていくのであった。

 このやり取りを聞いた定昌は与十郎に尋ねた。

「父上はどういう意図でああいう返事をしたのだ? 」

 それに対し与十郎は逆に定昌に質問した。

「どういうつもりだと思いますか」

 そう問い返された定昌はしばし考える。そして答えを出した。

「父上は家康さまとのつながりも残しておきたい。しかしすぐに武田家から離れるのは危険だ。だからあくまで繫がりのみを残すような回答をした、という事か」

「左様でございます」

 定昌の回答を与十郎は喜んで肯定した。だが定昌の答えはまだ続く。

「それに父上のことだからここで距離を取っておいてさらにいい条件を引き出すつもりなのかもしれん。危険を冒すのだから当然なのだとでも考えていそうだが」

 そこまで言って定昌が与十郎を見るとなんと目を潤ませていた。これには定昌も仰天する。

「どうしたのだ?! 与十郎」

「申し訳ありません。ただ若がここまでの読みを見せるとは…… その成長にこの与十郎嬉しくて仕様がありません」

「そ、そうか」

 思いもよらぬ与十郎の喜びように定昌は戸惑うのであった。

 さて家康からの勧誘があった後日、今度は武田家から使者がやってくる。その用事は武田方の城の長篠城の救援であった。

 この救援要請に貞能は即答した。

「承知しました」

 しかしこうも付け加える。

「先年の戦のせいでいささか準備が遅れるかもしれません」

 武田家の使者はそれを了承して帰っていった。

 この時は定昌もその場にいた。そして貞能に尋ねる。

「遠山殿の援軍の時と同じようなことをするつもりですか」

 その質問に貞能は困ったような表情をする。

「難しいところだな。ただ長篠城は堅城という。ならば武田家の手勢が来てから行っても間に合うかもしれん」

「しかし迂闊なことをすれば武田家からも徳川家からも睨まれるのではないのですか」

「さてどうか。武田も我々を手元に置いておく意義は分かっているはずだが。それに徳川殿もすぐに味方するとは思っていないだろう」

「だと良いのですが。おふうや千丸の命にもかかわります」

 定昌は深刻な表情で言った。しかし貞能は心配した様子はなかった。いささか楽観視しているようにも見える。

 その後貞能は出陣に向けて準備を進めていた。そんな時に再び徳川家からの使者がやってくる。そして使者は奥平家の帰参の見返りを提示した。

「まず一つは領地の加増」

 これに貞能は黙ってうなずいた。これくらいのことならよくある話である。

「(まあこんなものだろうな)」

 しかし次に提示された条件に貞能は驚嘆した。

「もう一つに嫡子定昌殿に亀姫様を嫁がせる、と殿はおっしゃっております」

「なんだと…… 」

 貞能は思わず立ち上がってしまった。それほど信じられない見返りである。

「それはつまり我が息子が家康さまの婿になると」

「その通りでございます」

「なんと…… なんと」

 二の句が続かないほど貞能は驚くのであった。

 使者が帰った後、貞能は与十郎を呼び出した。そして家康の出した見返りのことを教える。これには与十郎も驚いた。

「これは大変なことです」

「そうだな。しかしこれを飲めば徳川の家において確固たる立場を持つことになる」

「逆に裏切りにくくなるとも言えますが」

「そうだな。だが娘を嫁がせる以上こちらを粗略には扱うまい」

「左様ですね。しかし殿」

「ああ。定昌が頷くか」

「その通りです」

 二人の心配事はそこである。しかしここまでの条件を出されて回答を保留するわけにもいかなかった。

 貞能はこう返事をした。

「我ら奥平家は家康さまに帰参いたします」

 ついでにこんなことも付け加えた。

「武田信玄殿がお亡くなりになられたとの噂。真のことでございます」

 こうして奥平家は再び徳川家の傘下に入ることになった。だがこれがある悲劇を起こすことになる。


 貞能が徳川家への帰参を決めた少しあと、奥平家は長篠城への救援に向かうことになる。この時点では表向き武田家の所属であるからだ。

 出陣の前夜、定昌は貞能に呼び出された。

「お前に伝えておかなければならないことがある」

「それは…… 徳川家に帰参するという事ですか」

 貞能は驚いた。実際それを伝えようと呼び出したのだが言い当てられるとは思っていない。むしろ情報の漏洩すら疑った。

 そんな貞能の疑念を察したのか定昌は笑って言う。

「この前の徳川家からの使者が来て以来、父上と与十郎の接し方が変わりました。おそらくおふうのことを考えてのことでしょう」

 そこまで言って定昌は表情を引き締める。

「武田家はおふうと千丸をどうするのでしょうか」

「正直わからん。ただ徳川家から離反した時は無事であった。人質を殺すということはそうそうできんはずだからな」

「だと良いのですが」

 武田家は現在信玄四男の勝頼が運営している。その勝頼の人柄について奥平家は十分な情報を持っていない。

「おそらく短慮はしないだろう」

 貞能はそう言った。定昌も不安であったが当主である父が決めた以上逆らえない。こうして定昌も徳川家への帰参を了承した。

 翌日、定昌は貞能に従い長篠城への救援に向かった。勿論徳川家と本気で戦うつもりはない。いざ抗戦するとなればうまくごまかすつもりである。

 ところが救援に向かう途中で長篠城が落城したという知らせが入った。

「これでは退くしかないな」

 貞能は嬉しそうに撤退していく。定昌もほっとした様子で帰っていく。ところが亀山城に帰ると思わぬ事態が起きた。

「新たに人質を差し出せと? 」

 武田家は新たに人質の要求であった。これに定昌は激怒する。

「いったい勝頼殿はどういうつもりなのか」

 それに与十郎が答えた。

「実は長篠城の菅沼正貞殿に内通の疑惑がかかったようです」

 与十郎の口にした理由に貞能は呆れ返った。

「降伏したから、という事か」

「左様です」

「なるほど。武田家も随分と余裕がないようだな」

 そう言うと貞能はしばらく考え込み始めた。その様子を定昌は心配そうに見ている。一方の与十郎動じた様子はなかった。

 やがて貞能は言った。

「これより一族郎党を率いて家康殿の下に走る」

「なんですと! 」

 定昌は驚嘆した。要するに城を捨てるという事である。

 驚きのあまり呆然とする定昌。そんな定昌に貞能は理由を話す。

「おそらく確証はないのだろうが武田家は我々を強く疑っている。もし新しい人質を差し出さなければ我々への疑念は確たるものになるだろう。そうなれば最悪攻め込まれる。そうなれば終わりだ」

 いつになく真剣な様子の貞能。そしてそんな貞能から語られる言葉には真剣みがあった。定昌は深くうなずいた。それを見て与十郎も立ち上がる。

「すぐに主だったものを集めます。それと準備ができ次第私は先発いたします」

「ああ。頼んだ」

 数日後、奥平家は一族郎党の大半を連れて遠江にある奥平家の領地に向かう。ここは家康からもらった土地であった。勿論家康からの了解は得ている。

貞能たちの逃避行は隠密裏に進められた。しかし武田家はこの動きをつかんでいた。

 奥平家の離反を知った武田勝頼は激怒した。

「奥平家から預かっている人質たちを殺せ! 」

 家臣たちは押しとどめたが勝頼は聞き入れなかった。

 おふうと千丸を含む奥平家の人質は武田家の本拠地躑躅ヶ崎館で処刑されることになった。

 処刑が決まったその日、おふうは千丸に言った。

「お父上様や兄上様を恨んではいけませぬ。これも戦国の世の習い。仕方のないことです」

「はい」

 千丸は震えながら頷いた。おふうも必死で耐えているようだったがやはり恐怖のためか表情が引きつっている。しかし取り乱すようなことは無かった。

 そしておふうたちは処刑された。おふうには一つだけ心残りがある。

「(定昌さま。ご健勝で。でも最後に一目会いたかった…… )」

 こうして奥平家の人質たちは命を散らすのであった。

 定昌はまだそのことを知らない。必死で遠江への道を進んでいた。


 必死の思いで領地たどり着いた定昌たちは与十郎に迎えられた。

「よくご無事で…… 」

 何とか一族郎党かけることなく到着することができた。定昌と貞能はとりあえずそれを喜ぶ。

「皆無事で何よりだな」

「はい。これでひとまずは安心ですね。父上」

 一方で与十郎は浮かない顔をしていた。それに気づいた定昌は嫌な予感を覚える。貞能も同様のようだった。

 しばらく重苦しい沈黙が流れる。しかし定昌は思い切って与十郎に尋ねた。

「与十郎…… 何があったのだ」

 与十郎は逡巡の後に言った。

「おふう様と千丸様、それにほかの人質たちが皆処刑されたようです」

 それを聞いた定昌は膝から崩れ落ちた。貞能は与十郎に尋ねる。

「それはいつのことだ」

「はい。私がここにつく数日前のことだそうです」

「そうか…… そうか」

 貞能は瞑目した。与十郎もうつむいたままである。

 一方でしゃがみ込んだままの定昌はおもむろに立ち上がるとその場を去ろうとした。それを貞能が止める。

「何処に行く気だ」

 定昌は振り向いた。その顔に生気はない。

「心配はいりません…… 」

 そう言う言葉にも力が無かった。そしてそのままふらふらと歩いていく。

「止めなくてよろしいのですか」

 与十郎は貞能に尋ねた。その言葉には定昌を一人にして大丈夫かという意味もある。

 貞能は首を縦に振った。

「きっと大丈夫だ。定昌も覚悟を決めているはず」

「しかし定昌さまは…… 」

「心配はいらん。それにここで立ち直らなければ奥平の家は任せられん」

「左様ですか…… 」

 与十郎は心配そうに定昌の後ろ姿を見送る。しばらくして定昌の姿は見えなくなった。

 定昌は一人小高い丘に向かった。周りに人はいない。そして甲斐(現山梨県)の方を見つめる。そこにはおふうが死んだ躑躅ヶ崎館があるはずだった。

 しばらく甲斐の方を見つめる定昌。次第にその眼に涙があふれてくる。そして膝をつき地面を殴りつけた。

「すまん。すまん、おふう」

 定昌は何度も地面を殴りつける拳は傷つき血が流れる。噛みしめたぎりぎりとなり口からも血が流れた。それでも定昌の心は収まらなかった。

 その心にあるのは自分への怒りと己の行動への後悔。そのほかに色々な感情が混ざり整理できない。ただ涙があふれ出た。

 定昌は夕日が暮れてもそのままでいるのであった。


 今回の話で奥平家は再び徳川家の傘下に入りました。しかしそのためにおふうと千丸は殺されてしまいます。この二人についての史料は少ないのですが、戦国時代に起きた悲劇の一つであることは違いありません。

 戦国武将というのは基本的に自分の家の存続を第一に考えていました。そのために様々な手段を講じます。その中で様々な悲喜こもごもの事件が起きました。そうした人間ドラマが多くの人々を戦国時代に引き付けるのでしょうね。勿論筆者もその一人です。今後もそうした事件を描いていきたいです。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では


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