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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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奥平信昌 婿殿 第二話

 妻を迎え初陣で武功を上げた定昌はこれからの前途に希望を抱く。しかし戦国の動乱はそんな希望をいとも簡単に打ち砕く。そして定昌にある悲劇が起ころうとしていた。

姉川の合戦は織田徳川連合軍の勝利で終わった。しかしここから織田徳川両家の苦難が始まる。織田家は朝倉・浅井をはじめとする反織田家の勢力との長い戦いを強いられた。この頃が織田信長にとって最もつらい時代であっただろう。

徳川家はいよいよ武田家との関係が悪化してきた。しかし武田家の隣国には同等の力を持つ北条家がいる。武田家は北条家と対立していたので徳川家との戦いに費やす余力がなかった。しかしながら武田家は北条家との戦いにおいて優勢になりつつあった。それは徳川家への圧力を強めることにもなる。情勢は武田家と徳川家との戦いに傾きつつあった。

この情勢の変化を貞能も感じとっていた。

「いよいよ信玄殿が襲い掛かってくるか」

「左様ですね。どうやら浅井・朝倉とも同盟を結ぼうとしているようです」

「織田家もろとも潰すつもりか」

 武田家は織田家と敵対する勢力と手を結ぼうとしていた。これにより織田家と徳川家は周囲を敵に囲まれることになる。

 貞能は与十郎に尋ねる。

「信玄殿との音信はどうなっている」

「通じていますよ。それどころか向こうから誘いの使者が来ています」

「そうか…… ならばいよいよだな」

 そこで貞能は苦い顔をした。与十郎にはそれが不思議でならない。こういう事態になれば是も非も無く誘いに乗るのが貞能である。

「どうしましたか? 」

「いや。定昌が何というか」

「なるほど…… 」

 与十郎は納得した。姉川の合戦以来、定昌は家康を強く慕っていた。そんな定昌が徳川家を裏切ることを何と思うのだろう。貞能にはそれが心配であった。

 そんな貞能を与十郎は諭した。

「心配いりませんよ。若だって家の存続のために殿がどれほど苦労してきたか。それは分かっているはずです。今回のことも受け入れるでしょう」

「だと良いのだがな」

 貞能はため息をついた。それは今までなりふり構わなかった自分が変わったことを嘆くこと、それと可愛い息子を傷つけることへの後悔。それらが詰まったため息であった。

一方でそんなやり取りがされていることを定昌は知らない。知っているのは武田家といよいよ戦になろうかということだけである

「家康さまのためにも奮起せねば」

 姉川の戦いで見た家康の姿に定昌は心酔しきっていた。ゆえに武田家との戦いについても乗り気である。それは若さゆえの蛮勇であるのだが。

「次の戦で活躍すれば奥平の家も安泰だ」

 そんなことも定昌は考えていた。これも武田家の力を軽んじる甘い見通しである。

 親の心子知らず。まさしく定昌はそんな状況であった。


 元亀元年。武田家は東美濃(現岐阜県)の遠山氏の領地に侵攻した。遠山家は織田家に従属する勢力である。またこの遠山家の領地は家康が治める三河への橋頭堡にもなりうる場所であった。

そうした事情もあり家康は遠山家に援軍を派遣することにした。選ばれたのは奥平家を含む三河の領主たちである。

「ここで武田家を防がなければ我々も信長殿も危うい」

 家康としてはここで武田家を防いでおきたかった。もし遠山家が武田家に下ればいよいよ武田家の圧力が強くなる。

 こうした家康の事情を貞能も定昌も聞き及んでいた。

「今回は私も出陣します」

 定昌は貞能に出陣を直訴した。それに与十郎は難色を示す。

「今回の留守は若に努めていただきたいと考えていたのですが」

「いや、この危機にじっとしていられない。留守は与十郎に任せたい」

「ですが…… 」

 与十郎は食い下がった。そして貞能を横目で見る。しかし貞能は黙ったままだ。

「(まさか武田家と内通しているとは言えませんね…… )」

 実はこの時には貞能、というか奥平家は武田家と内通していた。それはもちろん与十郎も一部の重臣も知っている。しかし定昌は知らない。知れば確実に揉めるというのが分かっているからだ。

「(若に不要な行動をとられるわけにはいかないのですが)」

 与十郎はそう言う心境であった。ゆえに食い下がっている。

 定昌は強い調子で貞能に訴えた。

「どうか私も連れて行ってください。きっと武功を上げて見せます」

 すると黙っていた貞能が口を開いた。

「わかった。ついて来い」

 これには与十郎が驚いた。

「殿!? 」

 驚く与十郎を貞能は見つめた。その目線から与十郎は定昌の意志を悟る。

「承知しました。留守はお任せください」

 ついに与十郎は折れた。そして定昌は喜び勇躍する。

「必ずや武功を上げて見せます」

「そうか。頼んだぞ」

 そんな息子に貞能は淡々と答える。

 こうして出陣した奥平親子。そして遠山氏の領地に到着すると陣地を作って武田家の到着を待った。しかし定昌は陣地の配置を不思議に感じる。

「ここはいささか遠いのでは? 」

 奥平家の陣地は主戦場と目されている場所より少し離れている。これでは戦が始まってから参戦しにくい。

 不思議がる息子に貞能は言った。

「ここは少し高い位置にある。さすれば戦場もよく見渡せるという事だ」

「なるほど」

 貞能の説明に定昌は納得したようだった。しかし貞能の本当の意図には気付かない。

 奥平家を含む徳川家の援軍が到着して数日後武田家の軍勢が襲来した。そして遠山家と交戦し始める。

 武田家はすさまじい勢いで遠山家の軍勢に襲いかかった。戦いはあっという間に武田家の優勢に傾く。

 これを見て慌てて定昌は叫んだ。

「早く助けに向かわないと」

 一方の貞能は何かを確認すると鷹揚に言った。

「そうだな…… 頃合いか」

「頃合い? 」

「いや、気にするな。行くぞ」

 そう言って貞能率いる奥平家は救援に向かう。しかしそこに武田家の軍勢が立ちふさがった。数はそれほど多くない。

「この程度の数で…… 」

 定昌はそう言ったが武田家の将兵は精強でなかなか突破できない。定昌は焦った。

「急がないと。遠山殿が危うい」

 そう考えるが焦れば焦るほど敵はこちらを翻弄するような動きをする。こちらに損害は出ないが突破することもできなかった。

 そうこうしているうちに報告が入った。

「遠山勢が総崩れした模様です! 」

「何だって!? 」

 驚嘆する定昌。この戦で数は遠山家と徳川家の連合軍の方が上であった。なのにこうも簡単に敗れてしまう。

「これが天下の武田家か…… 」

 定昌は自分の認識の甘さを痛感するのであった。一方貞能は冷静に指示を出す。

「これより兵をまとめ撤退する」

「退くのですか!? 」

「これ以上この場に残っても危険だ。遠山殿が総崩れになっては務めも果たせん」

 貞能の冷静に物言いに定昌は絶句した。しかし貞能の言っていることも理解できる。ゆえに

「…… わかりました」

定昌は撤退を受け入るのであった。

 こうして遠山家は敗れ、武田家は三河への橋頭堡を手に入れる。定昌は己の無力さに意気消沈しながら作手に帰るのであった。


 定昌は失意のうちに作手に帰った。そんな定昌をおふうは優しく迎える。

「定昌さま。よくご無事で帰ってこられました。本当にうれしい」

 しかし定昌の心は晴れない。

「武田の者どもに翻弄され、挙句味方を助けることもできんとは」

 今回の敗戦に若い定昌は打ちひしがれる。そんな定昌をおふうは優しく慰めるのであった。

「気をお確かに定昌さま。確かに今回は敗れました。ですがそれはめぐりあわせの悪さがあったからこそ。きっと次は運が向いてきます」

「そうか…… そうだな。ありがとう。おふう」

 こうして絆を深めあう二人だが後日衝撃的なことを告げられる。

「おふうを人質に!? 」

 それはおふうを人質として浜松に送るというものだった。当然定昌は抗議する。

「どういうことですか! 」

「どうもこうもそういう事だ。先だっての戦で家康さまは我らに不信を抱いたらしい」

「それは遠山殿を助けられなかったからですか」

「まあそんなところだ」

 実際の所、貞能は武田家と内通していた。まさしく家康の慧眼である。もっとも証拠はないので追及は出来ないが。しかし人質を取ることはできる。もっとも定昌にとってそれがおふうで無ければならない理由は思いつかなかった。

「それでなぜおふうなのですか」

「おふうだけではない千丸も一緒だ」

 千丸というのは定昌の弟のことである。またこの時の人質はほかに一人いたというが詳細は分からない。

 ともかく定昌は抗議した。しかし貞能は言う。

「もはや決まったことだ」

 そう言って定昌の講義を遮った。それでこの話は終わりとなる。こうしておふうは人質として浜松に送られることになった。

 定昌はおふうに頭を下げる。その眼には涙が浮かんでいた。

「すまん。おふう」

 しかしおふうは微笑んでいた。

「お気になさらないでください。これも奥平のお家のため。父上だって千丸殿を泣く泣く人質に送るつもりなのでしょう」

「しかしそれとこれとは」

「定昌さま。私も武士の娘。覚悟はできています」

 おふうはそうはっきりと言った。そこまで言われれば定昌はおふうの決意を受け入れるしかない。こうしておふうと千丸は人質として浜松に旅立った。定昌は悲しみを隠さず見送る。

「おふう…… 体に気をつけてな」

 そしてそれが定昌の見たおふうの最期の姿であった。


 こうして家康への忠誠のために人質を送った貞能。しかし元亀二年、貞能はある決断を下す。

「これより我らは武田家に従う」

 それは武田家への従属の決定であった。

 この貞能の決断に与十郎をはじめとする重臣たちは動じなかった。しかし定昌は仰天する。何のためにおふうを人質に送ったのか。そう思えば抗議しないわけにはいかなかった。

「どういうつもりですか父上! 」

「若。落ち着いてください」

「なんだと与十郎! 」

 定昌は諌める与十郎に食ってかかる。しかし与十郎は動ぜず貞能を見た。貞能は頷くと定昌に言う。

「今回のこと、お前に内密に進めたのは悪くおもう」

「それはいいのです。ですが武田につくのならなぜおふうと千丸を人質に送ったのです」

「まず落ち着け。それにはいささか行き違いがあるのだ」

 まだ興奮の冷めやらない定昌に貞能は語り始めた。

「わしらは昨年の頃から武田家に通じていた」

「まさか…… 遠山殿への援軍の時も」

「ああ、そうだ」

 貞能はあっさりと肯定した。あまりにあっさりと肯定され定昌は固まってしまう。貞能は定昌が黙ったのを見計らって話を続けた。

 なんでも貞能が言うには家康の人質要請は作手に帰還してすぐだったという。さらに人質の提出期限も早かったそうだ。一方この時点で奥平家と武田家の密約も完全なものではない。武田家から今後の明確な保証がない限り表向き徳川家よりの立場をそのままにしなければいけなかったという。

「それで人質を出したのですか」

「本当は時間稼ぎをしたかったのだが思いのほか強情でな。やむなく急ぎおふうと千丸を浜松に送ったのだ」

 しかしおふうたちが旅立ってから少しして武田家から最終的な返事が来る。それは奥平家の領地、立場の保証をするというものであった。

「まさかこうなるとは。本当にすまん」

 貞能は頭を下げる。その姿に定昌は怒りにやりどころを失ってしまった。

 定昌は苛立ちながら問いかける。

「おふうや千丸はどうなるのですか」

「すぐには殺されんはずだ。よほどのことがない限り」

「それは本当ですか!? 」

 つい定昌は怒鳴ってしまった。だが貞能は答えない。周りの者たちも黙っている。

「…… くそ! 」

 そう吐き捨てると定昌はその場を去った。与十郎は大きくため息をつく。

「若は…… いささか血の気が多すぎます」

 そんな与十郎の言葉を貞能は否定する。

「そうではあるまい。しかしまさかあの娘にあそこまで入れ込むとは」

「本当に…… この時代を生き抜くには情が熱すぎますね」

「そうだな。だが定昌はまだ若い。ここからだ変わるかもしれん。我らはそれまで家を保たねばならん」

「左様ですね。しかし人質たちはどうなりましょうか」

「人質は抱えてこそ意味がある。ならばそうそう殺されるようなことはあるまい」

 貞能は冷徹に言った。ひどい物言いであるがこうでなければこの時代は生きていけない。そう貞能も与十郎も思っている。しかし二人とも定昌への同情は少なからずあった。

「何とかできませんかね」

「難しいな」

 与十郎も貞能も唸る。周囲の者たちも頭を抱えるのであった。

 この日定昌は自分の部屋から出なかった。

「おふう…… すまん。すまん…… 」

 自分の無力さに打ちひしがれ一人泣いていた。


 元亀三年(一五七二)遂に武田家が徳川家の領国に攻め入った。武田家はその圧倒的な武力で遠江の徳川家の城を落としていく。一方で別働隊も派遣していた。こちらは三河方面へと出陣する。

 奥平家はこの別働隊への参加を要請された。三河の国人である奥平家は周辺の地理に詳しい。そのため道案内の役目を与えられたという事である。

「家康さまに弓を引かなければならないのか…… 」

 暗澹たる気持ちで定昌も参加する。もはやほかに選択肢もない。ただ心中にあるのは妻と弟の心配である。

「(父上が言うにはまだ死んではいないという事らしいが…… それが当てになるものか)」

 投げやりな気持ちで参戦する定昌。もっとも武田家の軍勢は定昌一人が投げやりになったところで変わりはない。圧倒的な力で徳川家を蹂躙していく。

 その後別働隊は武田信玄の別働隊と合流した。勿論、奥平家やほかの武田家に従属した三河の領主たちも一緒である。

 そして十二月に遠江の三方ヶ原で家康率いる軍勢と合戦に及んだ。いわゆる三方ヶ原の戦いである。この戦いは武田家の圧勝で終り、命からがら家康は逃げ延びるのであった。

 武田家の陣中で定昌は家康が生き延びたことを知った。

「家康さまは無事か…… よかった」

 不意にこぼれてしまった本音である。しかし現状では敵の無事を喜んでいるようなものであった。当然与十郎に注意される。

「若様。口を慎んでください」

「すまん。だがつい口から出てしまった」

 定昌はそう心苦しそうに言った。それを見た与十郎は溜息をつきつつもそれ以上は何も言わない。定昌の苦しみは与十郎なりに理解しているつもりである。

「(おふうを引き合わせたのは私だ。若の苦しみは私が原因のようなものだからな)」

 与十郎はそう考えていた。与十郎も与十郎の苦しみがある。

 奥平家の人々がいくら苦しんでも武田家の侵攻は止まらない。三方ヶ原で勝利したのちも徳川領内を進んでいく。このまま武田家は徳川家を滅ぼすのか。そう誰もが思ったが、武田家の本隊は遠江の刑部で足を止めた。これには皆首をかしげる。

「いったい何があったのか? 」

 貞能もこれに関する情報は手に入れてなかった。しかしこの急な足止めは疑問が残る。とりあえず年が明けてから武田家は再び足を進める。しかし疑念は消えない。

「与十郎よ。武田家の内情さぐれるか」

「いささか難しいかもしれませんがやってみます」

 与十郎は貞能に命じられ武田家の内偵を進めるのであった。

 その後武田家は三河の野田城を攻め落とした。しかし野田城を落とした武田家は反転して領国に帰ってしまう。これに貞能は驚いた。そして確信する。

「これは何かあったな」

 それは貞能だけでなく多くの人が感じたことなのだろう。実際武田家当主武田信玄は本拠地に帰る途中で病死したのである。

 さて野田城が落城した際に城主の菅沼定盈が捕らえられた。武田家は定盈と徳川家の下にいる奥平家をはじめとする三河の国人たちの人質とを交換する。この時の交換された人の中におふうと千丸もいた。

それを聞いた定昌はとりあえず安堵した。

「無事でよかった…… 」

 しかし今度は武田家の人質になってしまうのである。これが定昌にある悲劇をもたらすのであった。


 戦国時代は人質のやり取りが良く行われていました。これは裏切り防止の手段なのですが、裏を返せば裏切りは横行していたという事でもあります。もっとも裏切る方もそうしなければ生き残れないと判断しての行動ということもあるので一概に悪行とも言えません。結局一番ひどい目に合うのは人質になる人々です。そんな人質たちの悲劇は様々な形で語り継がれています。興味がある方は調べてみると良いでしょう。

 さて奥平家は徳川家から武田家に鞍替えしました。この時は奥平家のほか武田家に従うようになった武家もあります。奥平家のような国と国の境目にあるような武家は状況に即応しなければ生きていけない境遇です。戦国時代のこうした裏切りの多さはこの時代の過酷さの象徴といえるでしょう。改めて怖い時代なのだなと感じますね。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

 

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