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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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足利晴氏 空晴れず日は落ちる 後編

 古河公方家の宗家を争う叔父の義明を滅ぼした晴氏。しかしその一方で関東では北条家の影が濃くなっていた。

 そして晴氏は落ちぶれる。それまでに何があったのか。

相模国波多野の晴氏の屋敷。相変わらず晴氏は、曇り空を見上げている。頭上の雲は分厚く晴れるような様子はない。

「思えばあの頃が最高の時であったな…… 」

 晴氏は寂しげにつぶやいた。こう口に出すとますます無力感が募ってくる

 かつての晴氏は気付いてはいなかった。自分を見つめる北条親子の目が冷ややかなものであったことを。そして自ら墓穴を掘っていったことに。

 晴氏はまたつぶやいた。

「その後も平和であったしなあ」

 小弓公方の滅亡からしばらくの間、晴氏は平穏な時を過ごした。北条家から嫁いできた妻との間に子も生まれている。周りで何か大きな戦も起きるわけでもないし、ある意味で関東は平穏であったと言える。

 しかし、北条家と上杉家は依然として対立していた。今でこそ小康状態であるが何が起こるかわからないという状況である。そんなかで北条氏綱が死んだ。あとをついだのは晴氏の義兄弟でもある北条氏康である。

「それからはあっという間にことが進んだな…… 」

 悲しげに目を伏せる晴氏。そして再び過去に思いをはせた。


 その頃の晴氏は何かと苛々していた。その理由は氏綱のあとをついだ氏康の事であった。

「氏康め。私をないがしろにしおって」

 晴氏は古河公方としての職務を一応は全うしようとしていた。だが、関東管領として自分を助けるべき北条家、特に氏康は勝手に行動していた。尤もこれは氏綱の頃からそういう傾向があったのだが、氏康に代替わりしてからは露骨に感じるようになった。。

「これでは上杉と変わらないではないか」

 もともと関東管領であった上杉家も己の所領の維持と拡大のため、古河公方の意向を無視した行動をとっている。その対抗措置としても北条家を関東管領に任じたのだがまるで意味がない。しかも氏康は北条家の軍事行動の根拠に関東管領の立場を利用していた。要するに晴氏はお飾りとして利用されていたのである。もっとも北条家が晴氏に接近したのはもともとそういう目論見があったからで、それが見破れず上機嫌になっていた晴氏も情けないのだが。

 とにかく晴氏は自分の認識の甘さを棚に上げ憤っていた。

「氏康に目に物見せる方法は何かないか…… 」

 このところ晴氏はそんなことを考えていた。だが、北条家に担がれる立場ではあまり迂闊な行動はとれない。また自力で北条家を排除しようにも難しいというのは理解していた。

「何か、何か方法はないのか」

 そう苛々し続ける晴氏。するとそこに小姓がやってきた。

「失礼します」

「なんだ」

「晴氏様にお目通りしたいという方が」

 その言葉に晴氏は苦々しい顔つきになった。この流れはかつて北条家の使者として遠山綱景がやってきたときのことを思い出す。

「何処の者だ」

「はい。なんでも上杉の者だと」

 晴氏の顔がますますゆがむ。吐き捨てるように晴氏は言った。

「何の用だ」

「いえ、その…… 」

 小姓は口ごもった。

「なぜ言えん」

 いらいらしながら晴氏は小姓に尋ねる。

「これは、その。いささか申し上げにくいことでして」

「構わん。言え」

 晴氏は小姓を睨みつける。晴氏の剣呑な目つきを受け、小姓は思い切っていった。

「なんでも北条殿を討ち滅ぼす策があると…… 」

「今すぐ通せ! 」

 晴氏は叫んだ。それを受けて小姓はすぐさま駆け出していった。


 上杉家の使者との面会後、晴氏は一人部屋にこもっていた。部屋にこもる晴氏の表情はどこか楽しそうである。しかし同時に禍々しさを感じるものだった。

「くくく…… これで氏康も終わりだな」

 晴氏は一人で手紙を書いていた。それは古河公方に従う諸勢力に向けてのもので、内容は出兵を要請するものである。その目標は北条家の河越城であった。

 現在北条家を取り巻く状況はかなり厳しい。まず北条家の領地の西端を隣接する今川家と交戦状況にあった。さらに北条家と敵対する二つの上杉家、山内、扇谷の二家は同盟を組み北条領へ進軍している。この二つの軍事行動は連動したもので、東西に同時に対応せざるをえなくなった北条氏は窮地に立たされていた。

 晴氏のもとに上杉家の使者がやってきたのはこのころであった。上杉家は北条家の重要拠点、河越城を攻撃する軍勢に晴氏の参戦を要請したのである。この要請に晴氏は歓喜した。

「やはり上杉もいざというときには私の威光に縋り付くようだな」

 相変わらず自分の都合のいいように解釈する晴氏。実際のところは国府台の戦いの時と同じで古河公方を利用しようというのであるが、晴氏は相変わらずそれに気づかない。結局のところこの傲慢さが高基の指摘した晴氏の欠点であったのだが。

「義明を滅ぼした時とは違うぞ。今回は私自ら出陣して北条の者どもを蹴散らして見せよう。くくく…… 」

 晴氏はゆがんだ笑みを浮かべながら書状をしたためる。だが、この判断が晴氏の人生を決定づけることになるとは、この時は思いもよらなかったのである。


 武蔵国、河越。ここにある河越城はかつて扇谷上杉家の本拠地であったが、それを北条家に奪われたというのは前にも記した。とは言え滅亡には至らず虎視眈々と逆襲の機会をうかがっていた。この時はかつて対立していた山内上杉家と手を組み、さらに駿河の今川とも同盟して勝負に出たのである。

 そんな両上杉は必勝の策として古河公方足利晴氏に出陣を促した。もちろん両上杉も古河公方と北条家の微妙な関係を十分理解したうえでの要請である。もちろん晴氏の性格も十分心得て、あくまでへりくだった態度で要請した。

 そんな両上杉の思惑を知らずに晴氏は意気揚々とやってきた。そして晴氏の従えてきた軍勢は関東のほとんどの勢力であったという。そこはやはり古河公方の威光というのがまだ生きていたという証でもあった。晴氏が浮かれてしまうのも無理はない。

 晴氏が河越に到着したのは天文一四年(一五四五)の一〇月。関東の諸将を率いて現れた晴氏は、まさしく関東武士の総帥というにふさわしい姿であった。

 河越に到着した晴氏の陣所に両上杉の当主がやってきた。山内上杉の当主は上杉憲政。扇谷上杉の当主は上杉朝定。二人は床几に腰掛ける晴氏の前に平伏した。この時二人は内心焦っている。というのもここまで巨大な軍勢を率いてくるのは完全に予想外だったからだ。

 ひれ伏す二人を前に晴氏はふんぞり返っている。その顔には余裕しゃくしゃくと言った感じの笑みが浮かんでいた。

「此度は逆徒たる北条への攻撃、大儀であった」

「ははっ」

「私が来た以上はもはや北条など敵ではない。安心するがいい」

「それはもう。ありがたき幸せ(何を言うか。北条に翻弄されていたくせに)」

「われら扇谷、そして山内殿もまことに嬉しく思います(我慢だ、我慢だ。今は河越城を取り戻すことだけを考えるのだ)」

 大仰に言う晴氏。それを聞いている両上杉当主は悔しさのあまり歯噛みしていた。二人からしてみれば苦労したお膳立てを横からかっさらわれたわけである。

 だが晴氏に噛みつこうにもやってきた軍勢はあまりに大きかった。ここで晴氏にへそを曲げられてはどうしようもない。それよりも利用するのが得策であろう。

 タイミングを見計らって憲政が顔をあげた。

「これよりは上様直々の指揮を持って城を落としましょう」

「そうだな、それが良い」

 憲政の発言に朝定も同意する。

「ふん。あのような城、私の手にかかればあっという間に落ちようぞ」

「左様で」

「しかし貧相な城よのう」

 晴氏はそんなことをつぶやく。実際のところは堅牢な名城であるのだが調子に乗る晴氏にはそんなことは関係なかった。一方で本来自分の居城である城を馬鹿にされた朝定の額に青筋が浮かぶ。

「晴氏様。それはあまりにも…… 」

 朝定は晴氏に食って掛かろうとする。しかし

「上様! お手数ですが我らの兵を閲兵してもらって構いませんでしょうか! 」

 憲政は声をあげて朝定の声を遮った。そして朝定の方を睨み小声では話しかける。

「(何を考えているんだ。お主は)」

「(だが、さすがにあの物言いは)」

「(今晴氏様にへそを曲げられては困るのは我々だぞ)」

「(それはわかっているが)」

 晴氏に聞こえないようにそんなやり取りをする。

「どうしたのだ。早く案内せんか」

「「ははっ」」

 晴氏は二人のやり取りに気付かなかった。憲政と朝定は晴氏がへそを曲げていないことに安堵する。そしてそそくさと立ち上がると晴氏を案内していった。


 晴氏が上杉軍の兵の閲兵を終えるといよいよ河越城の攻撃に入る。この足利・上杉連合軍の総兵力は何と八万にのぼる。対する河越城にこもる兵はおよそ三千。

「たやすくひねりつぶしてくれるわ」

 晴氏は自信満々に言う。もっともこの戦力差ではだれでもそう考える。それは両上杉の当主も同じであった。

 ところが河越城はなかなか落ちなかった。

 河越城にこもるのは北条氏康の義弟で、北条家中随一の猛将北条綱成。さらに晴氏に貧相と罵られた河越城は名将太田道真、道灌親子が築いた名城である。名将のこもる名城を、いくら戦力差があろうともたやすく落城するはずがなかった。

 いくらせめても落ちない河越城に晴氏は苛立ちを隠せない。

「なぜ、落城しないのだ! 貴様ら真面目にやっているのか! 」

 本陣に集まった諸将に対して当たり散らす晴氏。諸将は面目なさげに顔を伏せている。もっともその中で朝定だけは内心得意げであった。

「(これでもまだ貧相などと言えるかな)」

 もちろん得意げな様子は表に出さないが、かつて自分が本拠とした城がここまで奮闘すると少しうれしく感じている。

 一方で晴氏の苛立ちは収まらない。

「なぜあのような城一つ落とせんのだ! 」

 怒鳴り散らす晴氏の前に憲政が進み出てくる。

「まあまあ上様。落ち着かれよ」

「これが落ち着いていられるか! こう手間取っては古河公方の名に傷がついてしまうだろうが! 」

「いえいえ。そんなことはございませぬ」

「なんだと? 」

 思わぬ憲政の言葉を晴氏は聞き返した。憲政は愛想笑いをうまく浮かべながら晴氏をなだめていく。

「この大軍を率いることが何よりも古河公方の威光の証でございます。たかが城一つ落とせないところで何も問題はありません」

「むう、そうか」

 晴氏は憲政の言葉にうなずいた。晴氏が落ち着いたのを確認して憲政はさらに続ける。

「ここはこの大軍をもって兵糧攻めにするのがよろしいかと」

「だが一気呵成に攻め北条の者どもに目に物見せてやらねば」

「奴らは今、駿河の今川との戦いに主力を投入しています。その主力を破らねば北条の勢いも衰えはしませんでしょう」

「ならばどうするのだ」

「ここでこの大軍を率いる晴氏様の姿を見せつければ、戦わずして北条に従う者共も降伏しましょう。そこで北条を一気にたたけばいいのです。そうすれば古河公方の名も関東に、いやこの日本中に響き渡るでしょう」

「そうか…… そうか、そうか! 響き渡るか! 」

 憲政におだてられて晴氏はすっかり上機嫌になった。それを見て諸将はほっとする。

「ならば兵糧攻めの準備をせよ蟻の子一匹通れないくらいに城を囲むのだ」

「「ははっ」」

 晴氏の号令で動き出す諸将たち。先ほどは晴氏の機嫌が直ってほっとしたが今は在陣が長引くかもしれないという不安が頭の中を支配していた。

 結果この不安は的中することになる。


 晴氏が到着したのは天文一四年の一〇月であった。そして年が明けた天文一五年。晴氏はまだ河越にいた。まだ河越城は落城していない。

「まだ耐えるのか」

 晴氏は河越城を睨むが、その姿に覇気はない。明らかに疲れ切っていた。

「ここまで来れば見事としか言いようがないな…… 」

 今だ屈せぬ河越城と城将綱成に晴氏は感心していた。それほどまでの奮闘である。

「しかしいい加減あきらめればいいものを」

 そうつぶやく晴氏。正直我慢比べの様相を呈してきたこの戦いにうんざりしていた。それは両上杉の当主もそうだし、晴氏についてきた関東諸将も同様にうんざりしている。だからと言って今更力攻めに転じるのもどうか、という状況であった。

 連合軍の中で厭戦気分が高まっていた。だが何の成果も出せずに引き上げるわけにいかないというのは連合軍の皆同じである。この引くに引けぬ状況は晴氏たちを苦しめていた。

 今日も事態は変わらずに推移しようとしていた。だが実はこの直後に事態は急変していくのである。


 あくる日、河越の連合軍本陣。そこで報告を受けた晴氏は昇天した。

「北条の使者だと!? しかも講和の?! 」

 それは北条方から講和の使者が到着したというものだった。しかも使者を出したのは河越城に籠る綱成ではなく氏康である。

「今川と講和が成ったという話は聞いていたが」

 晴氏は緊張感のある面持ちで憲政と朝定に尋ねる。憲政は無言でうなずき朝定が続ける。

「一応、甲斐の武田の仲介で講和が成立したようです。ですがその後も今川を警戒して動かずにいたはずですが」

 氏康が現れたのは少し前だった。率いる兵力はおよそ八千。連合軍には遠く及ばない数である。

「それがいまさら講和とは。くくくく…… 」

 緊張感のある面持ちから一転、晴氏の顔にあくどい笑みが浮かんだ。

「ついに我らの威光に屈したという事か」

 晴氏はそう自信満々に言った。その言葉に憲政と朝定は顔を見合わせる。だが諸将はこぞって晴氏をはやし立てた。

「その通りでございます」

「北条殿も己が身をわきまえたという事でしょう」

「これで戦も終わりですな。いや、めでたい」

 次々と声をあげる諸将。だがその心中にあるのは早く戦を終わらせ帰りたいという本音であった。

「うむ、そうだな。ここは義兄弟でもあることだし許してやるとするか」

 諸将の声に晴氏もうなずく。正直晴氏もこの長陣にはうんざりしていた。

 陣中を周旋ムードが漂い始める。だが、両上杉は納得がいかなかった。

「お待ちください上様」

「なんだ憲政」

「ここで手を緩めてはまた奴らは息を吹き返します」

「憲政殿の言う通りでございます。この機会に北条の者どもの息を完全に止めねば後に厄災が降りかかりましょう」

「むう、だが」

 晴氏は諸将の顔を見渡す。その顔には晴氏でも簡単にわかるくらい早く帰りたいという本心が浮かんでいた。

「これ以上は我らも苦しくなるぞ」

「それは承知でございます。ですがここで手を緩めるわけにはいきません。こうなれば一気に河越城を力攻めしましょう」

 憲政はそんなことを言い出した。包囲する前とは全く逆の事である。もっともそのことを誰も指摘しない。皆、力攻めで早く終わるならそれでいいと思っているのだ。

 憲政の提案のあと朝定が進み出てきた。

「私も憲政殿の意見に賛成です。ならば私は手始めに軍勢を率いて氏康の軍を蹴散らしてまいりましょう」

 勢いよく言う朝定。それを受けて晴氏の気分も盛り上がってくる。

「なるほど。それは良いな。ならば氏康を追い払ったのちに城を攻め落とそう。それでこの戦は終わりだ」

「おおっ」

 晴氏がそう言い切ると陣中は色めき立った。こうして軍議は終わった。

 その後、朝定はすぐさま軍勢を率いて氏康軍を攻撃した。だが

「なんだ? 」

 氏康軍は攻撃を受けるや否やすぐに退却していった。これには朝定も呆れた。

「これは本当に怖気づいているようだな。ははは」

 退却する氏康軍を家臣ともども笑う朝定。

 この報告を帰還してきた朝定から聞いた晴氏と憲政も嘲笑する。

「なんと意気地のない者どもだ。これでは城に籠る兵たちが哀れだ」

「全くです上様。この上は引導を渡してやるのがよろしいでしょう」

「ふはは。全くその通りだ」

 こうして連合軍の首脳陣は上機嫌のまま夜が更けていった。この時、三人はこのあと自分たちに起こる悲劇など思いもよらなかった。


 氏康を打ち払ったその夜、晴氏は自分の陣屋で休んでいた。さすがに古河公方たるものの陣屋であるから少しは住み心地の良いものではある。だが当然古河城の自室には格が違いすぎる。

「この陣屋にも慣れたものだな…… 」

 もうここで寝泊まりして半年近くになる。なれるのは仕方ないが嬉しくもない。

晴氏は陣屋から空を見上げる。あいにくとその夜は雲が出ていて月が隠れていた。そういうわけで非常に暗くて見通しが悪い。

「しかし、もう少しでこの戦も終わる。北条のやつらを打ちのめし、堂々と古河城に帰還しよう」

 晴氏は一人つぶやく空を見上げた。その時

「ん? 」

 どこからか何か叫び声のようなものが聞こえた。両上杉の陣の方である。

「何事だ? 」

 晴氏は陣屋から出て両上杉の陣の方を見た。晴氏の旗下の諸将や兵たちも同様に同じ方を見ている。

 晴氏はまだ知らなかったがこの時両上杉軍は奇襲を受けていた。仕掛けたのは昼逃げたはずの氏康の軍勢である。昼間のことで油断していた上に長期の在陣で士気が下がっていた両上杉軍は、この奇襲になすすべもなく打ち取られていった。

 その事実をまだ晴氏は知らない。そしてすぐ後に自分の身に降りかかる恐怖など想像していなかった。

「何が起きているのだ」

 不安そうにつぶやく晴氏。周りの諸将も不安そうにあたりを見まわしていた。晴氏の耳にはまだ叫び声のようなものが聞こえていた。

「ん? 」

 そこで晴氏は何かに気付いた。よく聞けば先ほどとは聞こえる声が違うような気がする。そしてそれが近づいてくるようにも感じた。

「な、なんなんだ」

 さらに地響きのようなものも聞こえてくる。そこでやっと何かがこちらに近づいてきているということに気付いた。そして晴氏は声の聞こえる方を向いく。そちらには河越城がある。

「ったぞ…… 」

「ん?! なんだ?! 」

 あいにくと月が雲に隠れていて視界は悪い。ただ何者かの叫び声が聞こえる。晴氏の視線は叫び声の聞こえるほう、河越城の方向に釘付けであった。そして

「勝ったぞォォォォォォォォ! 」

「んなぁ! 」

 晴氏の耳にはっきりと叫び声が届いた。だがその声の主が河越城に籠城していた北条綱成であることを晴氏は知らない。ほんの数秒前までは。

「あ、あれは」

 闇夜を切り裂き土煙をあげながら突進してくる一団。その先頭を走るのは北条綱成。

「勝ったぞォォォォォォォォォォォォ」

 雄叫びをあげながら足利軍を蹴散らす綱成。その姿を見た晴氏の表情が恐怖で引きつる。

「ひぃぃぃぃ」

 晴氏は情けない声をあげながら一目散に逃げていった。だがそれを咎めるものは誰もいない。皆一様に逃げるのに必死だったからだ。

「うおおおおおおおおおおお」

 叫び声をあげる綱成軍。逃げる足利軍。ここにのちに河越夜戦と呼ばれる戦いが終わった。

 山内上杉家は当主憲政が何とか生き残った者の重臣と多くの兵を失った。扇谷上杉家にいたっては当主朝定を失いこの後滅亡している。

 晴氏率いる足利軍は散々に打ち破られて壊滅した。参加していた諸将は皆命からがら逃げるのに精いっぱいであった。

 晴氏は途中で合流した家臣たちと必死で逃げている。

「何故だ、何故こんなことになったのだ…… 」

 逃げる途中でつぶやく晴氏。だが家臣たちには答える余裕もない。

「何故だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 晴氏のむなしい叫びが武蔵にこだまする。その姿はかつて河越に軍勢を率いてやってきた時とはまるで逆のみじめなものであった。


 晴氏は何とか古河城に帰ることができた。身も心もボロボロになり疲れ切った晴氏だが休んでいる暇などなかった。

 河越夜戦で勝利した北条家は完全に武蔵を掌握した。これにより古河公方はより北条家の圧迫を受けることになる。また古河公方家中でも北条家に接近するものも増えてきた。

 こうして晴氏は地理的にも政治的にも北条家の圧力を強く感じるようになっていた。もちろん晴氏はこれらに対抗しようとしたがもはや力の差は歴然である。内部にも不安を抱えた現状ではどうすることもできなかった。

「今に見ておれ。最後は必ず私が勝つ…… 」

 それでも晴氏はあきらめてはいない。もっとも家臣たちもそんな晴氏に冷めた目を向けるようになっているのだが。

 だが事態はどんどん悪い方向に進んでいく。まず天文二十年(一五五一)に頼みの綱であった上杉憲政が、北条の圧力に耐えきれずから越後に逃げ出した。これで晴氏に味方してくれる勢力はいなくなったと言ってもよい。

 そして、天文二十一年(一五五二)晴氏のもとに使者がやってきた。北条家の使者である。

「…… 何用か」

 晴氏は疲れ切った表情で使者に問いかけた。もはやその表情にかつての覇気はない。

「晴氏様に置かれましては近頃ご健康に優れないと殿は聞き及んでおります」

「そうか」

「それについて殿から口上がございます。よろしでしょうか」

「ああ。構わん」

 体調が悪いのはお前らのせいだとも言えず晴氏は頷いた。正直使者の口上をとっとと聞いて休みたいところである。だが使者の口から出たのはとんでもないことだった。

「この上は古河公方の座をご子息に譲られゆっくりご静養なされてはどうかと」

「なんだと…… 」

「またご世継ぎに関しては、嫡男の藤氏様ではなく義氏様にされてはどうかとも申しております」

「ふ、ふざけるな! 」

 晴氏は思わず立ち上がった。そして使者に向かって怒鳴り散らす。

 北条家が跡継ぎに押したのは北条家の血を引く義氏であった。それに後を継がせろというのは降伏勧告に等しいことである。晴氏に飲めるはずのない要求であった。

「そんな提案など受け入れられるか! 」

 口から泡を飛ばしながら怒鳴る晴氏。だがそこに家臣の一人が進み出てくる。

「上様」

「なんだ! 」

「ここは北条殿のご提案をのまれてはいかがかと」

「き、貴様…… 」

 晴氏は家臣を睨んだ。だが家臣に怯える気配はない。

 晴氏は居並ぶ家臣の顔を見渡す。家臣たちは無言で晴氏を見つめるもの、気まずげに目をそらすもの様々いたが、誰も晴氏の意見を支持しようという気配はなかった。

「お前達…… そうか、そういう事か」

 晴氏は座り込んだ。そしてもう終わりなのだということに気付いた。

 晴氏は使者に言った。

「義氏はまだ幼い。あとを譲るのは元服後でもよかろう」

「さようですか」

「ほかのことは氏康殿の申す通りにしよう。そう伝えてくれ」

「かしこまりました」

 そういうと使者はすぐに出て行ってしまった。家臣たちの緊張がゆるみ安堵の声が漏れる。晴氏はその場で顔を伏せていた。そんな晴氏を気遣ってかどうかはわからないが家臣たちもその場を去っていった。

一人残された晴氏は力の抜けきった様子で座り込んでいた。


 こうして晴氏と古河公方は完全に北条に屈した。そもそもずっと前から古河公方にかつての力はなく、晴氏にももう反抗するだけの気力はなかった。

「(もう後は古河の片隅で静かに暮らそう)」

 晴氏はそんなことを考えていた。自分は義氏の父親であるし、下手なことをしなければ北条も自分を放っておくだろうという考えである。しかしこの結果に納得していないものもいた。晴氏の嫡男の藤氏である。

 藤氏は晴氏の部屋に入るや否や晴氏を問い詰めた。

「どういうことですか! 父上! 」

「藤氏か…… すまぬ」

「済まぬではありません。私は納得していません! 」

「納得していないのは私も同じだ。だが仕方ないのだ」

 晴氏は疲れ切った様子で言った。この昔の自分に似た息子をなだめるのはとにかく苦労する。

「(父上の気持ちが少しわかったな…… )」

「とにかく私は納得していません。誇り高き古河公方の血をなんだと思っているのだ」

「藤氏よ…… 」

「もうこれ以上、父上と話していてもらちがあきません。とにかく義氏にあとを継がせる気持ちはありませんよ! 」

 そう言って藤氏は部屋を出ていった。残された晴氏は大きなため息をつく。

 この後も藤氏は廃嫡に抵抗した。これに対し本当は同じ気持ちである晴氏も強くは言えない。だが北条はそれを許さなかった。

 天文二十三年(一五五四)古河城は北条の軍勢に包囲された。北条側の言い分は義氏に跡を継がせる約束を果たさないこと。そして藤氏が氏康を打倒するための計画を企てている、という事だった。

 後者の件について晴氏は何も知らなかった。だが藤氏は覚えがあるようである。

「藤氏。お主…… 」

「父上。これは」

「いや、もうよい。もうよいのだ」

 晴氏には息子の気持ちが痛いほどわかった。だがもうどうしようもない。

「私が行き、降伏してこよう」

「父上…… 」

 晴氏は降伏した。北条方は晴氏を捕らえ秦野に送った。もともと最後通牒のための包囲であったのか晴氏の命を奪うつもりはなかったようである。

 こうして晴氏の古河公方としての人生は終わった。


 幽閉先の秦野で晴氏は過去を思い返していた。

「何処で間違ったのだろうな…… 」

 自分はどこで間違ったのか。両上杉の誘いの乗ったことか。叔父を倒すために北条の力を借りたことか。それとも父親を打ち倒したことか。

「結局は父上の言う通りだったのかもな」

 父、高基の言う通り自分の驕りが招いたことなのかもしれない。晴氏はそういう答えに行きついた。それで何関わる訳でもないのだが。

 晴氏はもう一度空を見上げた。相変わらず曇っている。

「なかなかに晴れんな」

 何処か自嘲気味につぶやく晴氏。見上げる空は今の自分を現しているようだった。

 この後、晴氏は別の場所に移り永禄三年(一五六〇)に一生を終える。享年五三歳。古河公方の栄光と転落を見せつける人生であった。そして晴氏の代を機に関東の戦国は新たな段階に移っていった。


 これで晴氏の話は終わりです。なんというか浮き沈みのわかりやすい人だったなと感じますね。

 実は古河公方家は義氏の代で断絶します。そして皮肉にも義氏の娘と義明の孫が結婚し喜連川家として存続しました。晴氏も自分の孫が滅ぼした叔父の孫と結ばれるとは思わなかったでしょうね。

 さて、次の話は全五話と結構長くなります。その主役の人物はマイナーな人なのですが、不思議と有名人にかかわっていて様々な事件に巻き込まれます。お楽しみに。

 最後に、誤字脱字を見つけた方は連絡をお願いします。

 

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