豊田頼英 戦国に行く中で 後編
大和永享の乱が終わり平和を取り戻したかに見えた大和。しかしある事件をきっかけに再び大和は乱世に戻る。混迷の大和で頼英はいかに生きていくのか。そしてその先には何があるのか。
何はなくとも大和での戦乱は終わった。誰もがそう思っていた。しかし驚愕の事態が起きる。
嘉吉元年(一四四一)将軍足利義教が赤松満祐に殺されるという事件が起きた。この事件は日本の各地に衝撃を与える。勿論大和も例外ではない。
大和において最も動揺していたのは筒井氏である。筒井氏は大和永享の乱に勝利したもののその勝利は幕府の後援あってのものだった。そして筒井氏をもっとも強く支援していたのは将軍の義教である。強力な支援者を失った以上筒井氏は自分の力を頼みにするしかなかった。
頼英は手を尽くして様々なところから情報を得ようとした。しかし流動的な情勢と信憑性の低い風聞が飛び交う中では情報収集にも限界がある。
「さすがに弱ったな」
疲れた顔をして頼英は言った。話を聞いているのは相変わらず宗玄である。もっとも話を聞いている宗玄も弱った顔をしていた。
「弱っているのはお前だけではない」
大きなため息をついて宗玄は言った。そんな態度に思わず頼英は噴出してしまう。そんな頼英を宗玄は睨んだ。
「笑い事ではないぞ」
「ああ。わかっている。しかし興福寺もこの事態には慌てているようだな」
「当然だ。まさか将軍があのような死に様とは誰も思うまい」
「全くだ。しかしこうも情報が錯綜しては動きにくい。わかっていることと言えば維綱殿の息子が越智氏を継いだぐらいか」
「そのようだな…… 」
そう言って宗玄はまたため息をつく。頼英はそんな宗玄の様子を不思議に思った。
「(今日の宗玄は妙だな。何か懸念があるがそれを口に出そうとしない。よっぽどのことなのか? )」
頼英としては宗玄が抱えているものが情勢に関わるものなら知りたかった。そうでなくとも古い付き合いの友人である。個人的な悩みの相談でもやぶさかではない。そう思い頼英は尋ねた。
「何かあったのか? 宗玄」
「ん、まあな」
「せっかくだから話してみないか。内密にしたいのならほかには漏らさん」
「むう…… そうだな」
宗玄は少し思案したが結局話し出した。
「実は経覚殿のことでな」
ここで名前の挙がった経覚と言うのは興福寺の僧侶のことである。経覚は興福寺の中でも高い立場にあったが義教の不興を買い冷遇されていた。ここまでは頼英も知っていることである。
「その経覚殿がどうした」
「このところいろいろ動き回っているようだ。筒井の方々とも会っているらしい」
「筒井殿か。そう言えばこのところいろいろ揉めているようだな」
「ああ。順弘殿と光宣殿の仲がうまくいっていないとか」
そう言ってから頼英は察した。
「経覚殿は筒井殿の内紛に関わろうとしているのか」
「おそらくは」
宗玄は頷いた。そして頼英はため息をつく。
「また大和が荒れそうだな」
「ああ、おそらくは」
二人はそろってため息をつく。そのため息は大和の平穏を望む人々のものを代弁しているようだった。
頼英の懸念は当たった。筒井氏は順弘と光宣が父から譲られた権利をめぐり対立。家臣に支持されたのは光宣であった。結果順弘は追放されてしまう。
光宣は僧侶の身であったので筒井氏は弟の順永が継いだ。一方の順弘は返り咲きを狙って経覚と手を組む。さらに越智氏も順弘に与した。
「いよいよ荒れるか」
頼英は覚悟を決め越智氏と共に行動する方針を取った。やはりかつてともに戦った縁がある。頼英はそちらの方がいろいろとやりやすいと判断した。
こうして再び大和に戦乱が訪れた。しかし前とは明らかに違うところがある。それは経覚の存在であった。
頼英が越智方への合流を決めた後に経覚と接触している。
「お初お目にかかる。大乗院経覚にござります」
そう言って頭を下げる経覚。しかし頼英は油断できないものを感じていた。
「(この男。本当に僧侶か? )」
大乗院経覚と言う男は色白でやせ型の体格をしている。顔立ちは爬虫類をほうふつとさせた。しかし頼英が気になったのはその眼である。
「(なんという光だ。これほどギラギラした目は見たことがない)」
経覚の目は爛々と輝き現世への欲を感じさせた。とても僧侶の目ではない。迂闊に油断すれば食われてしまう。そう頼英は感じていた。
頼英の内心を知ってか知らずか経覚は軽やかに話し始めた。この話し方がまた風貌に似合わぬさわやかなものである。
「此度の合力、真に感謝しています」
「いえ。それは越智殿との縁によるもの。旧来の縁を忘れては仏罰が下りましょう」
「なるほどそれは良いお心がけです」
そう言って経覚は頼英を見た。その眼はやはり爛々とした光を湛えている。
「これよりは拙僧も豊田殿と良いご縁を築ければいいと思います」
「左様ですか」
「ええ。お互い縁があればいろいろとよきことも起こりましょう」
頼英はそのよきことと言うのが功徳なのか、それとも金や土地などの現物なのか。それが分からなかった。何より経覚の欲が底知れないのを不安に思っている。
こうして経覚の暗躍もあり順弘は大和の国人たちに味方を作った。しかし頼英からすると順弘と言う人物は経覚のお飾りのように見えてしまう。事実、順弘方の中心人物は経覚であった。
「(それを順弘殿はわかっているのか)」
そうは思ったが味方に付いた以上は全力で手を貸すつもりである。頼英を含む順弘軍は奮戦し光宣、順永方に対して有利に立った。
やがて嘉吉三年(一四四三)に順弘は光宣、順永を追い落とした。そして筒井氏の当主に返り咲く。
「これでひとまず終わりか」
頼英やほかの国人たちはそう考えた。しかし同年中に順弘が筒井氏の一族と家臣に殺されるという事件が起こる。これには頼英も愕然とした。
「我々はいったい何のために戦っていたのだ」
順弘方の誰もがそう思った。
こうして順弘の死で戦いは終わったかに見えた。しかし経覚はこの後も戦闘を続けることを宣言する。
「この上は奴らを滅ぼして大和を我らの手に握ろう」
経覚は筒井氏の持つ権利を狙っていた。そのために頼英達も順弘も利用されていたのである。頼英は怒ったがどうしよも無かった。戦いの終わりが見えない以上は戦い続けるしかない。それが現実である。
筒井氏の内部争いから変わって大乗院経覚と筒井氏との戦いが始まる。経覚は管領畠山持国の支援を受けて攻勢に出た。その一環として頼英は古市胤仙や小泉重弘と共に光宣、順永兄弟に攻撃を仕掛ける。
「悪く思わないでくれ。私も守らなければならん家がある」
この戦いには頼英の息子も参加している。頼英は子沢山で嫡男の覚英を始め五人の男子がいた。頼英には自分の子たちと豊田氏を守る役目がある。そのためには自分の属する勢力を何が何でも勝たせなければならない。
頼英達は猛攻を仕掛けて光宣、順永を打ち破った。光宣たちは筒井城に逃げ込む。戦況は経覚方の有利となった。
この勝利に気を良くした経覚は持国と話し合い頼英と胤仙、重弘に「奈良中雑務」を命じた。これは要するに大和の支配を三者に任せるという事である。
この命令に豊田氏の一族や家臣は色めき立った。さほど大きくない国人である豊田氏が大和の支配に関われるようになったのである。
「これも頼英様が当主になったおかげか」
「全くだ。ありがたい」
喜び合う豊田氏の面々。しかし頼英はあまり喜んではいなかった。それを不思議に思った宗玄は頼英に尋ねる。
「あまりうれしそうではないな」
「ああ。そうだな」
頼英はあっさりと肯定した。
「別に豊田氏の領地が増えたわけではない。それに事態が変われば。すぐに終わる役目だ。ぬか喜びするくらいなら始めから喜ばん方がいい」
そうにべもなく頼英は言う。それに宗玄は苦笑するしかなかった。
やがて年が明けて改元し文安元年(一四四四)経覚は鬼園山城を築城し新たな拠点とした。そして決着をつけんと光宣、順永兄弟への総攻撃を仕掛ける。しかし兄弟はこの攻撃を耐えきった。
頼英はその理由を知っている。
「細川殿が肩入れしたか」
筒井氏は畠山氏と対立する細川氏の支援を受けていた。さらに大和の国人たちは筒井氏を滅ぼそうなどとは考えていない。そこが経覚が思い違いをしていたところである。
「そろそろ潮時か。できれば早いうちに和平したいものだな」
頼英はそんなことを考えている。苦々しい表情が多くなった経覚とはまるで違った。
その後細川氏の細川勝元が管領に就任。形勢は逆転した。光宣たちは鬼園山城を攻撃し経覚は落ちのびる。そして頼英の大和の支配権も失われた。しかし頼英は気にしない。
「これで厄介ごとからも逃れられるか」
頼英は経覚方に属しつつも筒井氏と適度な距離を保とうと努力した。光宣たちもあっさりと大和の支配権を手放した頼英にはあまり敵意は無いようである。
それからしばらくは経覚方と筒井方の戦いは続いた。しかし享徳二年(一四五三)に古市胤仙が戦死すると経覚もついにあきらめる。翌年に筒井方と和睦し大和の戦乱はひとまず終わった。この頃になると経覚の目も随分と輝きを失っていたという。
戦いが終わっても豊田氏は特に変わらなかった。一時は大和の支配権を握ったことを惜しむ声もあったが、皆こうなっては仕方がないとあきらめている。
もとよりこうなることを予期していた頼英は言わずもがなである。
経覚と筒井氏の和睦の翌年、畠山持国が死去する。実は畠山氏は持国の生前から後継者争いが勃発していた。持国は庶子の義就を後継者にしようとしていたが、一部の家臣がこれに反発。甥の弥三郎を擁立していた。この問題は持国の存命中に決着がつかずに義就が当主に就任しても対立は解消されていない。
畠山氏は大和の政情にも深くかかわっている。そしてこのお家騒動が大和に大きく影響を与えるだろうというのは誰の目にも明らかだった。
案の定、大和の国人たちも義就派と弥三郎派に分かれた。豊田氏は義就派に付く。
このことを知った宗玄は頼英に尋ねた。
「理由は何だ」
「将軍様は義就殿を支持しているらしいからだ。あとはまあ越智殿と筒井殿のどちらにつくとすれば越智殿の方だろう。筒井殿は我らに遺恨があるからな」
「まあ、そうだな」
大和の国人で越智氏は義就派に、筒井氏は弥三郎派に付いた。そして国人たちはどちらかの勢力に与する。結局、大和はまたまた二分された。
戦況は義就の優位で始まった。実際義就は正式に家督を受け継いでおり将軍の足利義政からも立場を保証されている。頼英の読み通りだった。
勢いに乗る義就派の越智家栄や頼英は筒井氏の光宣、順永兄弟を攻撃する。この戦いで光宣たちは敗れ一時没落することになった。また弥三郎も領地を追われてしまう。持国が死んだ同年のことである。
この戦いで頼英は活躍した。そしてその功績を認められて国人の筆頭の職を得る。もっともあくまで越智氏を除いてという話ではあるが。
なんにせよ出世ではあるが頼英は相変わらず喜ばない。またすぐに失われるだろうと踏んでいるからだ
「今度はいつまでの話か」
そんなことを言う頼英を宗玄はたしなめる。
「そうゆうことを言うな。いくら何でも後ろ向きすぎるぞ」
「諸行無常の理もあろう。坊主のくせにそんなこともわからんのか」
そこまで言われれば宗玄も返す言葉はない。
こうして畠山氏のお家騒動は義就の勝利で終わるかに見えた。しかし義就は将軍義政の意向を無視する行動をとり始める。これは義就が大和において確固たる地盤を築こうと考えていたからだった。当然義政はこれを許さない。
長禄三年(一四五九)に没落した光宣と順永が大和に復帰した。これは細川勝元の後援を受けてのことである。さらに弥三郎を義政が支持したため義就派は一気に不利となった。そして越智家栄が敗れると戦況は完全に逆転し今度は義就が追い詰められた。
この敗戦の余波と順永の復帰で頼英は筆頭から外された。もっとも頼英は「奈良中雑務」を失ったときと同様に動じていない。今考えているのは義就派が追い詰められている現状においての生き残る方法だった。
「これ以上周りの都合に振り回されるのは嫌だな」
頼英は終わらぬ戦いにうんざりし始めていた。
この後弥三郎は死んでしまうが弟の政長がその後継者とされた。そして政長派は義就を追い落とし畠山氏の当主となる。義就は吉野に逃げ延びた。
大和の国人たちは一時和睦をして休戦となった。豊田氏は相変わらずの立場で生き残っている。東寺の領地の代官などを任じられるなどそこそこの立場であった
それからしばらく経った文正元年(一四六六)。世はまさに混乱の時代に入ろうとしていた。前年に義就が挙兵したのである。義就は細川勝元と対立する山名宗全らの後援を受けていた。勿論これに対し政長も勝元の後援を受けて相対する。
この事態に義就派の国人たちも挙兵した。これに頼英も含まれているが乗り気ではない。
「また戦いか」
しかしいくら呆れてもどうしようもない。大和で生きるにはどちらかにつくしかなかった。
当然政長派の国人たちも挙兵する。そして改元したよく応仁元年(一四六七)京都で義就軍と政長軍が合戦を行った。これをきっかけに幕府の内部争いや各大名家の争いも絡み大規模な合戦に発展していく。応仁の乱が始まった。
大和も西軍(義就派)と東軍(政長派)に分かれて抗争を始める。しかし実態はただの国人同士の勢力争いだった。
頼英はいよいよ世の中が嫌になってきた。そこで宗玄にこう告げる。
「私は頭をそって坊主になる」
「また急だな」
「もう戦いには関わりたくないんだ」
「豊田の家はどうするんだ」
「そこは息子たちがどうにかする」
その言い分に宗玄は呆れる。しかし止める手立てでもなかった。
「わかった。準備しよう」
「ああ。すまんな」
「しかしこれだけは覚悟しておけ」
宗玄は頼英を睨んだ。そのまなざしに頼英はたじろぐ。
「なんだ? 」
頼英は不安そうに尋ねた。それに宗玄は答える。
「お前がお前であることに変わりはない。どうしたって今までの行いからは逃げられん。お前は厄介ごとにまた巻き込まれる」
容赦なく宗玄は言う。その言葉を頼英はうなだれて受け止めるのであった。
こうして頼英は僧侶になった。しかしこれまで豊田氏を盛り立ててきた重鎮である。息子や家臣からは度々助言を求められた。
「これでは何も変わらんな」
ある時に豊田氏の領地の村が興福寺の兵に攻撃を受けるということがあった。この村は興福寺に収める年貢を未納していたため制裁を受けたのである。
この事態に頼英はどうすることもできなかった。興福寺に敵対することも、村を助けることもどちらも豊田家に不利になる。そう考えたからだ。頼英の息子や家臣たちはこの頼英の考えに従った。しかし家臣の一人が村の味方をして討ち死にするという事態になってしまう。
これを聞いた頼英は悲しんだ。
「いったい何のために坊主になったのだ。これでは何も変わらない」
結局は宗玄の言う通り何も変わらない。大和が、いやこの時代の日本全体で戦いに関わらないなどと言うことは出来なかった。
気づけば応仁の乱の勃発から二十年近くたっていた。頼英は僧侶として権律師に任じられる。これは僧侶としてはそこそこの出世と言える。もっとも頼英は喜ばなかった。
「何も変わる訳じゃない。この職にそこまでの意味があるのか」
そして延徳二年(一四九〇)に豊田頼英は八八歳で死んだ。この時代においてかなりの長命である。それを頼英が喜んだかどうかは誰も知らない。
この後日本は戦国の乱世に本格的に突入していく。乱世が終わるまで室町幕府が滅び江戸幕府が誕生するまでの一二〇年以上の年月を要した。
この長い月日の間に豊田氏の名前はいつの間にか消えていた。
頼英が死んだ延徳二年(一四九〇)には京や大和で土一揆が蜂起しています。前年には将軍足利義尚が死に足利義材が将軍に就きました。しかしこの三年後の明応二年(一四九三)に明応の政変が起きて義材は将軍職を奪われます。これをきっかけに日本は本格的に戦国の世に突入していきます。頼英が生きた時代は戦国時代への助走と言うべき時代で戦国時代に通じる世相を持っていました。頼英は長寿でしたが世の中が混迷に突入していくのをどう見ていたのかは非常に気になるところですね。
さて、続いての主人公は讃岐のある武将です。この人物は知っている人もそれなりにいるのではないかと思います。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




