戸田忠次 亀鑑 後編
忠次は家康に仕えることになった。しかし三河一向一揆を平定したとはいえ家康には数多くの苦難が待ち受ける。そんな中で忠次は家康のために戦い続ける。
三河一向一揆を鎮圧した家康はその後に姓を徳川と改める。そして袂を分かった今川家との戦いを始めた。
勿論忠次も家康に付き従い戦いに参加した。
「功を立てて名を上げよう。そして何より殿のお役に立つのだ」
忠次は家康に心酔していた。あれほどの度量を見せつけられたのである。無理もない。
徳川家は忠次をはじめとする家臣たちの活躍で今川家の領地である遠江を制圧した。これで徳川家は三河、遠江の二国を治める大名になったという事である。
しかし徳川家の躍進はここで一時止まることになった。それは隣国の武田家の存在である。武田家は徳川家と同盟し今川領である駿河と遠江を分け合う形になった。しかし同盟の内容に齟齬が生じ両家の関係は悪化してしまう。そして元亀三年(一五七三)に武田家の当主の武田信玄自らが出陣し圧倒的な軍勢で攻め込んできた。
この事態に徳川家は大変な騒ぎとなった。
「信玄殿は本気で我々を滅ぼそうとしている。一体どうするのだ」
「我々の勝てる相手ではない。いっそ降伏してしまってはどうだ」
「いや、そんなことをすれば信長殿は我々を許すまい。むしろ信長殿からの援軍を待って戦うべきだ」
喧々囂々様々な意見が出た。そんな中で忠次は特に何もせずじっとしている。それを見て家臣の一人が心配そうに尋ねた。
「我々はどうするべきなのでしょうか」
それに対し忠次は静かに答えた。
「どうするもこうするもない。我らは殿に従うだけだ」
「しかしそれでは戸田家の行く末が」
「もはや戸田家やほかの皆の家の行く末も殿とともにある。我らは殿の決断に合わせ最善を尽くすのだ」
忠次は決意のこもった目で家臣を見るのであった。
最終的に家康は武田家との戦いを決意する。それに伴い織田家から援軍が送られてきたが大した数ではなかった。正直武田家に勝てる陣容ではない。
武田家との戦いに臨む前、忠次はわずかな時間家康と話す機会を得ることができた。
「殿。此度の戦ですが」
「なんだ忠次」
「生き延びることのみを考えましょう」
忠次はそうきっぱりと言った。この陣容では武田家に勝てない。そう感じての言葉であった。
家康は少し驚いた顔をした。
「初めから勝ちを捨てるのか? 」
「そうではありません。しかし何よりも殿が生き延びることが肝心です」
「確かにそうだ。しかしその物言いではお前は生き延びなくてもいいと言っているように聞こえるぞ」
そう問われて忠次は笑った。
「その通りです。きっと殿なら戦って死んだ家臣の家を見捨てるようなことはありますまい」
忠次の言葉に家康は一瞬驚いた。だがすぐに笑って
「馬鹿を言うな。お前も生き残るのだぞ」
と言って去っていった。
結局徳川家と武田家との戦いは武田家の圧勝で終わる。のちに三方ヶ原の戦いと呼ばれたこの戦いは家康の人生において最大の敗北であった。
しかし多大な損害を払いながらも家康は生き延びた。そしてこの敗戦を糧に成長するのである。
忠次も生きている。危うく死ぬかと思ったが運よく死なずに済んだ。
領地に帰った忠次を迎えるのは当時八歳の息子であった。
「帰ったぞ」
「おかえりなさい。父上」
駆け寄ってきた息子を忠次は抱き上げた。
「これ生き延びてこそか」
忠次は生き延びた喜びを噛みしめながらつぶやいた。
この数年後徳川家は織田家と共に武田家を打ち破り、その数年後には武田家を滅ぼした。より一層の飛躍を遂げた徳川家だがさらに時代は激動する。
天正十年(一五八二)。武田家が滅亡したこの年に起きたのが本能寺の変である。この事件により織田家は当主の信長と嫡男の信忠を失った。
この事態を家康は好機と見た。
「信長殿を失った織田家は大きく衰えるだろう。この機に我らは勢力を拡大する」
家康は信長の死で支配者不在となった武田家の旧領、甲斐(現山形県)信濃(現長野県)を制圧する。これにより徳川家はさらに大きくなった。
天下に名だたる大大名になった家康。忠次も満足げである。
「俺の選択は間違いではなかった。もしやすると家康さまが天下を握るかもしれん」
忠次はそんな期待も抱くようになった。それはほかの徳川家臣も同様だし家康も天下統一を目指している。しかしその前に立ちふさがるものがいた。羽柴秀吉である。
秀吉は織田家の家臣であったが信長の死後は勢力を拡大し家康同様天下取りをもくろんでいた。そして天正十二年(一五八四)に直接対決することになる。のちに小牧・長久手の戦いであった。
この戦いに忠次は勿論参加した。そして息子も共に参戦している。
「腕が鳴りますな父上」
「当然だ。しかし焦りや短慮は禁物だぞ」
「もちろんです」
忠次の息子も三方ヶ原の戦いの頃はまだ幼かったが今では立派な青年である。元服し尊次と名乗っていた。
尊次は中肉中背で普通の体格である。一見忠次とは親子に見えないともいわれる。しかしその面立ちは忠次のように血の巡りの良い赤ら顔であった。
忠次は今にも飛び出しそうな尊次をたしなめる。
「何度も言っているがまず考えてから行動するのだ。考えて得心が言ったら」
「勢い良く行け、でしょう。わかってますよ」
尊次は忠次の言葉を遮っていった。その反応に忠次は頷いた。
「わかっているならいい」
「そりゃあわかっていますよ。いつもいつも言われていますから」
「お前の良いところはそれを素直に受け止めるところだな。俺の若いころとは大違いだ」
「そうなんですか」
「ああ。おかげでよく父上を困らせた」
そう言って忠次は亡き父に思いをはせた。
「(俺も息子に色々と言う年になったのか。今なら父上の苦労もわかるか。いや、尊次は素直だ。俺とはまるで違う。父上の方がよっぽど苦労している)」
忠次は自分の若いころと息子を照らし合わせて苦笑いした。今では本当に若いころは血の気が多かったと認識している。
尊次は苦笑いを浮かべている父を不思議そうに眺めていた。そんな尊次に忠次は言った。
「わかっているだろうがまずは生き延びることだ。生き延びれば希望はある」
「それと生きていれば道は開けるでしょう」
「そうだ。それを胸に戦いに赴けばそうそう死ぬことは無い」
「承知しました。私も手柄は立てたいが死ぬのは嫌です」
「わかっているならいい。ならば行くぞ」
そう言って戸田親子は戦いに赴むくのであった。
小牧・長久手の戦いははっきりとした決着がつかず終わった。家康は局地的には秀吉に勝利したものの、その後の外交では秀吉に敗れている。結果家康は秀吉の風下に立たされることになった。
これを尊次は悔しがった。
「戦場以外のことで後れを取るとは」
しかし忠次は動じない。
「殿は生きている。我らも生きている。全てはこれからだ」
忠次はまだ家康の天下をあきらめていない。それは家康も同じである。
秀吉に従属したのちの家康はとにかく従順であった。その姿にほかの大名たちは
「もはや徳川殿に野心はない」
と、思わせるほどである。一方で徳川家臣たちはまだ家康の野心を信じている。
「今は耐える時期なのだ。今に殿の天下がやってくる」
「その通りだ。そのためならどんな屈辱にも耐えて見せよう」
勿論忠次と尊次もこうした家臣の一人である。
「今は力を蓄えるとき。来るべき日に備えていろいろと準備をしておくのだ」
「わかっていますよ父上。私だってまだ殿を信じています」
だがその来るべき日と言うのはなかなかやってこない。そうこうしているうちに天正十八年(一五九〇)になった。この頃には秀吉は関白に就任し豊臣の姓を名乗るようになる。これにより秀吉の天下統一の名分が立った。そしてその仕上げとして関東の大大名北条家の征伐を行う。
徳川家と北条家は婚姻関係もあり同盟関係でもあった。しかしこの北条征伐において徳川家は主力として参戦する。これに尊次は困惑した。
「父上。徳川と北条は親戚ではなかったのですか」
そう息子に問われる忠次。そしてこう答えた。
「ああ、そうだ。だがここで関白様に従わなければ徳川に明日はない」
忠次は尊次の疑問にそう答えた。しかし尊次は納得いかなかったようである。
「しかし…… 」
そう言って食い下がろうとした。だが
「今回は俺が出陣する。お前は留守を頼む」
そう言って忠次は会話を断ち切った。
この後忠次を含む徳川軍は北条領に侵攻し覆いに戦った。忠次も奮戦し手柄を立てる。結局徳川家を含む豊臣軍は圧倒的な戦力で北条家の城を陥落させ、本拠地の小田原城をも攻め落とした。
こうして北条家は滅亡し関東の広大な領地が豊臣家の物となった。秀吉は家康に今回の褒美として北条家の旧領を与える。しかしそれと引き換えに今まで治めていた三河や遠江などの五ヶ国は失われた。これには徳川家臣たちも憤る。
「これは褒美という名目で我々を遠ざけようとしているのではないか」
「その通りだ。慣れ親しんだ土地を召し上げて少し前まで戦があった土地をあてがうとはこれも関白殿の企みじゃ」
「しかし殿も殿だ。このような処遇を甘んじて受け入れるとは」
家康はこの関東移封をためらいなく受け入れた。これで徳川家は完全に豊臣家に従ったことになる。その後は粛々と領地を移動して行く。これには明日の徳川の天下を信じた家臣たちは憤り悲しんだ。
尊次は憤った方だった。戸田家一同で新しい領地に向かう途中何度も不満を口にしている。
「いったい殿は何を考えているのですか。もはや天下をあきらめたのですか」
しかし忠次は冷静であった。
「前にも言った通りだ。徳川や我々の明日のためには関白様に従うしかない」
「父上はそれでいのですか! 」
尊次は忠次に抗議した。しかし忠次は動ぜず目の前を指さす。
「見ろ、尊次」
そう言われて尊次は忠次が指さす方を見た。そこには城とそれに面する海原が広がっている。忠次たちの新たな居城となる下田城であった。
下田城を指さして忠次は言う。
「この城は西からの船を見張る重要な拠点だ。我々はそんな重要なところを任されたのだ」
「それはそうですが」
「殿は俺に言った。大願を果たすうえで何が起こるかわからない。ゆえに海の玄関口であるこの城はお前にまかせたい、と」
「殿の大願? それはまさか」
尊次の表情が興奮に染まっていった。それを見て満足そうに忠次は頷く。
「殿は何もあきらめてはいない。時間はかかるかもしれんが我々はそれを信じて自分たちのやるべきことを成そうではないか」
「は、はい! 」
先ほどまでの不満そうな態度はどこかに行ったのか嬉しそうに尊次は頷いた。忠次は強い瞳で下田城とその前の海を見つめている。
家康は入府した関東の良く治めた。家臣たちも不満を持つ者は多かったが家康に従い新しい領地を治めていく。
一方で秀吉は目を国外に向けて大陸制圧の手始めに朝鮮に侵攻することを決めた。そして文禄元年(一五九二)に全国の大名を動員する。勿論徳川家も例外ではない。
この秀吉の行動にさすがの忠次も憤った。
「こちらは転封して間もないというに」
しかしそれでも従わなければならないのが今の徳川家の状況である。秀吉は肥前(現佐賀県)の名護屋に城を築き前線基地とした。
家康も兵を率いて名護屋に向かった。忠次も同行する。
もともと同行するのは尊次の予定であった。もう忠次も六一歳である当時としてはもう老齢であった。
「無理をしないでください。父上。私が行きます」
尊次は心配そうに言った。しかし忠次は頑として聞かない。
「それはいかん。此度は海を渡って異国での戦。何が起こるかわからん」
「ならばそれこそ私が」
「尊次よ」
忠次は尊次の言葉を遮った。そして優しい笑顔を見せて言った。
「もはや戸田の家はおぬしがいれば問題ない。何より年寄りの俺より若いお前の方がこの先も殿の力となろう。だから俺が行く」
そこまで言われれば尊次も引き下がるしかなかった。
こうして忠次を含む徳川軍は名護屋に向かった。徳川家は名護屋で待機となったがいつ渡海するかわからない。臨戦態勢で出陣を待った。
そんな時忠次は家康に拝謁できることになった。
「此度はご苦労だったな。忠次」
「いえ。これしき大した苦労ではありません」
「そんなことは無いだろう。お主ももうずいぶんと年老いた」
家康は慈しむように言った。それは年老いても付き従ってくれる家臣へのいたわりの心である。しかしそんな家康に忠次は言った。
「殿」
「なんだ。忠次」
「もし殿が朝鮮へ行くときは私も付き従います」
そう言われて家康は絶句した。そんな家康に忠次は続ける。
「殿のおっしゃる通り私は老いました。ならば残り少ない命は殿のために使いたいと思います」
「まずは生き延びること、ではなかったのか」
「それは若かりし頃のこと。それは息子や殿が考えなければならないことです」
「ならば今のお主は何と考える」
家康にそう問われて忠次はこういった。
「若き者たちの明日の希望や道のために命を賭けること。それが今の本懐です」
迷い無くそう言い切る忠次。家康は感心して膝を叩いた。
「なるほど…… 見事だ忠次」
「何の。大したことではありませぬ」
忠次は何を当然な、と言ったふうに家康を見るのであった。
のちに家康はこの話を聞いた秀吉に話した。話を聞いた秀吉はこう言ったという。
「戸田忠次、見事な男よ。常に己のなすべきことを考え生きているか」
「はい。拙者も驚きます」
「まさに壮者の亀鑑。そう言うべきか」
そう言って賞賛したという。
結局家康は渡海することなく講和が成立。戦いは終わった。
名護屋から戻った忠次はあることを尊次に提案した。
「これより家のことはお前が差配するのだ」
「それは…… 父上が隠居するという事ですか? 」
「そうではない。俺は殿への奉公に専念するという事だ。家のことはお前が仕切れ」
「しかし…… まだ私は若輩者です」
尊次の言葉は本心であった。これまで忠次が引っ張ってきた戸田の家である。尊次が気後れするのも仕方のないことである。
そんな息子に忠次は言った。
「俺が名護屋に行っている間、家のことはうまくいっていた。それを見て俺は決めたのだ」
「父上…… 」
「お前は俺の教えを守り考えるときはよく考え、動くときにはよく動く。それができるお前なら戸田の家を潰すようなことは無いだろう」
そう言って忠次は尊次の肩をたたく。
「あとはお前に任す」
尊次は忠次の言葉に感涙する。そんな息子の頭を忠次は優しく撫でるのであった。
この後忠次は家康や徳川家全体への奉公に専念した。しかしこのころから老齢ゆえか忠次の健康も思わしくなくなっていく。そして慶長二年(一五九七)六月。秀吉が再び朝鮮に出兵していたころ忠次は家康に拝謁した。病を隠しての拝謁である。
「お久しぶりです。殿」
「忠次か。健勝であったか」
家康もこのところ忙しい。豊臣家は秀吉の後継者問題で動揺し、重鎮となっていた家康が様々なことをこなしていた。
二人が会うのは名護屋以来である。忠次は晴れ晴れとした顔で言った。
「殿。この度はお別れを言いに来ました」
「ほう。どういうことだ」
家康は動ぜず聞き返した。
「もはや私の命もこれまでのようです」
「そうか…… お主がそう言うのだからそうなのだろう」
「はい。そのようです」
忠次は穏やかな顔をしている。もうすぐ死ぬと感じている人間とは思えなかった。
家康は優しいまなざしで忠次を見ている。すると忠次は平伏していった。
「この戸田忠次。殿のおかげで安らかに死ねまする。本当に御礼申し上げます」
「何を言うか。それはすべておぬしが成したことのおかげ。むしろ儂はずっと助けられてきたのだ。むしろ礼を言うのは儂の方だ」
「ありがたき言葉…… ですが忠次は一つ心残りがあります」
「なんだ? 」
忠次は顔を上げた。その眼には涙がにじんでいる。
「天下人となる殿を見とうございました」
家康は忠次に頷いた。そして言う。
「儂の動きがのろまなせいでお主を悲しませたな」
「いえ。よく考えるのは悪いことではありませぬ。あとは動くべき時に動ければいいのです」
「そうか」
「そうです」
二人は見つめあうと頷きあう。それだけでこの主従は分かり合えた。
忠次は再び平伏した。
「それではお暇させいただきます」
「うむ。さらばだ」
「はいおさらばです」
そう言って忠次は去っていく。残された家康は老いも病も感じさせない力強い背中を見つめていた。
この後領地に帰った忠次は同月の二三日に死んだ。享年六七歳。当時とすれば大往生と言えた。
この後家康が関ヶ原の戦いの後天下を統一したのは周知のことである。そして尊次は下田から転封された。その場所は忠次の故郷田原である。もしかすると忠次に自分の天下を見せられなかった家康の償いなのかもしれない。
忠次の家は江戸時代を通じ大名として存続し幕末まで残った。
忠次が数奇な経緯を経て家康に仕えたことは前の話で記しました。正直忠次の山場は三河一向一揆の所であとはほかの知名度の低い家臣とそれほど変わりません。ですが晩年に二つ見せ場があります。それは秀吉に賞賛されたことと死期を悟り家康に拝謁したこと。この二つから私が感じたのは家康への強い忠誠心です。正直旗揚げ以来と言える立場ではない忠次がそこまで尽くしたのは家康に魅力を感じたのでしょう。そうなると家康の天下を見れなかったのが忠次にとっては残念だったのではないかと考えました。それが最後の展開にもかかわっています。
さて、次の主人公はぶっちゃけた話戦国時代の人物とは言えない人です。ただ乱世に生きたという事には間違いありません。どうか寛容な心で見てください。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




