茨木長隆 盛衰 後編
政敵を排除し長隆は細川家の中で大いに出世する。だが出世した長隆に待ち受ける運命は過酷なものだった。
長隆は細川家内で隔絶した立場になった。これで長隆の人生も順風満帆に進むかと思われる。だが時が経つにつれて長隆の権勢にも陰りが出てきた。
一つは同士ともいえる三好政長と木沢長政の関係に亀裂が生じてきたことだった。この頃政長は晴元の腹心の一人として行動している。晴元との関係はまさに蜜月と言ったふうで絶大な信頼を置かれていた。そんな政長は主に摂津を拠点に活動している。
一方の長政は相変わらず畠山家臣の立場でありながら独自の行動をとっていた。長政は絶大な権力を誇り、畠山家を牛耳っている。さらに畠山領国の隣国の大和(現奈良県)に侵攻し制圧していった。
一見二人の活動には齟齬が見えないようにも見える。しかし長政は摂津の領主たちと独自につながりを持っていた。一方で政長は摂津の領主たちに対して高圧的な態度で臨んでいる。これが二人の関係に亀裂を生じさせた。
長隆は細川家臣として二人の間を取り持とうとした。
「ここまで来たのだからいがみ合うような真似はやめようではないか」
しかし政長はこう反論した。
「木沢は畠山家臣のくせに細川領国のことに関わってくる。それがいかんのだ」
一方で長政はこう反論する。
「三好殿の傲慢さは私にも届いてくる。私は彼らに変わって三好殿に意見しているだけだ。それが嫌なら態度を改めればいい」
という感じであった。
かつて共謀して戦ったころの絆はもう三人の間にはなかった。と言うか皆自分のために戦っていたわけでもともと絆などなかったのかもしれない。
さて長隆の頭を悩ませることがもう一つあった。それは三好元長の遺児、三好千熊丸の台頭である。千熊丸は元服し名を利長と改めた。利長は晴元を自邸に招き歓待して主従の絆を深めたりしている。これが長隆にとっては気に食わなかった。
「晴元さまに取り入るつもりか」
しかし一方で利長は阿波の領主たちの支持を受けていた。利長は父譲りの才覚を早くも発揮し声望を集めていたのである。それゆえにその軍事力は侮れず長隆としても迂闊に扱うことはできなかった。
そんな中で天文八年(一五三九)の閏六月に利長は政長に奪われた父の権利の返還を晴元に求めた。この際利長は軍勢を引き連れて上洛するほどの強硬な態度を見せている。この事態に晴元は京の郊外に避難し、将軍の義晴が説得に乗り出すほどの事態になった。
この事態に長隆は政長を支援した。
「利長の好きにさせてはならん」
「当然だ。今までの苦労を水の泡にしてたまるか」
政長の軍と利長の軍は小規模な戦闘を繰り返した。しかしお互い大規模な戦闘は望んでいなかったので小競り合いに終始する。
やがて六角定頼が両者の間に入り和睦することになった。利長は父の権利を取り戻すことはできなかったが自分の軍事力を見せつけることに成功する。一方で政長は自分の権利は守ったが利長に対抗する力が無いことを見せてしまった。
そして長隆はこの事態に何も有効な手を打つことができなかった。
天文十年(一五四一)九月。細川高国の残党ともいえる塩川国満が一庫城に籠城した。これを受けて晴元は三好範長(利長が改名)と政長を中心とした軍勢を派遣する。晴元の主力が投入されたわけであるから結果は長隆の目から見ても明らかであった。
ところが摂津の領主の伊丹親忠と三宅国村が国満に同調した。二人は長隆と同じ摂津の領主である。そんな二人の離反と言うことで長隆は動揺した。
「伊丹殿も三宅殿も何を考えているのだ」
だがさらに驚愕の事態が起きる。なんと木沢長政も国満に同調し晴元に敵対したしたのだ。この事態に長隆は慌てふためく。
「何を考えているのだ木沢殿は。いや、それより木沢殿が裏切ったのならば攻城軍が危ない」
実際長政は範長に襲い掛かり敗走させてしまった。これで一庫城の攻撃は頓挫する。
今回の長政の裏切りは政長との確執が原因であった。長政は親忠と国村と共に幕府たいしてこう釈明している。
「今回のことは三好政長の素行に問題があります。あくまで政長との争いであって幕府にたてつくつもりは毛頭ありません」
さて長政はこの勝利の余勢をかって京に進撃した。そして将軍義晴を擁立しようとするが義晴は近江に逃げてしまい失敗する。
一方の晴元は京の郊外に避難して長隆らと対策をねる。長隆はこう主張した。
「まずは木沢殿を孤立させるべきでしょう」
「どうするのだ」
「まず摂津の領主たちと和睦しましょう」
この長隆の発言に政長は異を唱える。
「それはいかん。謀反者を許しては晴元さまの名に傷がつく」
これに対し範長は言った。
「今は木沢殿を討つべきでしょう。摂津の領主たちを許せばむしろ晴元さまの器の大きさを知らしめることになります」
「いいやいかん。和睦などいかん」
政長は範長に反論した。と言ってもいかんと言うだけで反論になってはいないのだが。
結局長隆の案が通り摂津の領主と和睦することになった。そのうえで
「木沢殿を攻めるのは政長殿にお任せします」
「よし。任せろ」
ということになった。
晴元は六角定頼の後援を受けて長政への攻撃に着手した。さらに摂津の領主たちとも和睦し長政を孤立させる。対する長政は強力な後ろ盾であった晴元と直に戦うことになり不利な状況に追い込まれた。
さらに天文十一年(一五四二)長政に更なる不幸が襲い掛かる。
その情報は長隆の下にも入った。長隆はいち早く晴元に情報を伝える。
「どうも植長様が河内(現大阪府)に戻られたようです」
「それは本当か? 」
「はい」
植長と言うのはかつて長政が追放した畠山家の当主であった。しかし長政と手を組んでいた遊佐長教が植長をひそかに迎え入れる。これにより畠山家内で長政の味方はほとんどいなくなった。
こうなったのは情勢が長政不利に傾いたからである。それだけ長政が嫌われていたわけであるが、長隆は少し物悲しい気持ちにもなった。
「(これで木沢殿も終わりだな。しかし致し方ないとはいえ哀れなものだ)」
追い詰められた長政は数少ない味方を集めて最後の賭けに出る。
「私がここで終わるものか。私は何度も窮地を脱してきた男だぞ」
確かに長政は何度も追い詰められそのたびに窮地を脱してきた。しかしそれは情勢の変化や味方がいたからで、長政の独力で脱してきたわけではない。
長政は兵を率いて長教が籠る高屋城を攻めようとした。しかしこれを読んでいた長教は大平寺にて長政を迎撃する。そこには援軍にやってきた政長もいた。
「覚悟するがいい。裏切り者め」
兵力差は明らかであり戦いは日の目を見るより明らかであった。
後日戦死した長政の首が将軍義晴のもとに届けられた。長政をはじめ木沢一族は皆討ち死にしている。こうして動乱の畿内で暗躍した木沢長政は今までの報いを受けるかの如く無残な死を遂げるのであった。
長政の末路を見て長隆は震えあがった。
「私はああなりたくない。絶対にああはならん」
長隆には長政の死にざまが人ごとに思えなかった。
何はともあれ長政は死にこれで細川家も晴元も安泰か。誰もがそう思ったがまたもや大きな事件が起こった。
天文十二年(一五四三)七月に細川高国の養子だった細川氏綱が挙兵したのである。氏綱の実父は晴元の命を受けた木沢長政によって討たれており、晴元とは不倶戴天の敵ともいえた。
氏綱は晴元に反感を抱く勢力と手を組んで一万もの軍勢を集めた。氏綱はこれ以後反晴元の戦いを続けていく。
この事態に晴元は三好範長を出陣させて対応した。範長も晴元の期待に応え各地で奮戦し活躍する。これで範長の声望はますます高まった。
一方でそれが面白くないのが三好政長である。政長は長政を討った以外では特に活躍は無かった。また範長と共に出陣することは多いが活躍するのは殆ど範長である。
政長はこうこぼす。
「このところ晴元さまは範長を重用している。一体何を考えているのだ」
そんな政長を長隆は慰める。
「晴元さまは政長殿を信頼しているのだ。範長殿だけでは不安だから政長殿を共に出陣させているのだ」
「ふむ。そうか」
「きっとそうです」
実際問題このところ政長は目立った軍功を挙げていない。しかしそれでも政長への晴元の信頼は絶大なものがあった。
長隆は何としても政長とのつながりを維持しておきたかった。
「(晴元さまは政長殿を信頼しきっている。そんな政長殿とのつながりを維持しておけば私の立場も安泰のはずだ)」
かつて共闘した長政はもういない。かといってほかの細川家臣からはそこまで信頼されていない長隆であった。今頼れるのは政長しかいない。
そうした長隆の考えは政策にも表れた。長隆は細川家領内の公卿や宗教勢力の権益を保護している。これは政長もそうした方針であったしそうした勢力との関係の強化は京を抑える細川家の事情にもあっていた。
しかしこうした方針は細川家に仕える領主たちの反発も招いた。彼らは自分の領地を完全に掌握したかったが長隆の方針はこれを阻む者でもある。特に長隆と同じ摂津の領主たちは激しく反発した。
「茨木殿は我らと同じ出なのに我らを苦しめるような政治を行っている」
「その通りだ。このまま細川家に付いていっていいのだろうか」
こうした声も出るようになっていた。
しかし長隆は方針を改めない。この方針を続ければ政長とのつながりも保てるし晴元の覚えもよくなった。
「すべては生き残るためだ。それに晴元さまの後ろ盾があれば何も恐れることは無い」
今の長隆の脳裏にあるのは己の地位を守ることだけである。そして常に長政の死にざまがよぎっていた。
天文十二年に挙兵した細川氏綱は断続的に晴元方への攻撃を続けた。これが実現できたのは畠山家の有力者である遊佐長教が氏綱を後援していたからである。
長教、ひいては畠山家の支援を受けた氏綱は一時晴元に対して有利に立つほどであった。そしてその結果天文十五年(一五四六)ごろには摂津の領主たちは氏綱に従うようになる。これには長隆は絶句した。
「私に何の相談も無いとは」
長隆も摂津の領主であった身である。そのうえで細川家の有力者であったから相談を受けることも多々あった。しかし長隆は政長との関係を重視し摂津の領主たちの意見をないがしろにしている。この時相談が無かったのも当たり前のことであった。
さて裏切った領主の中に池田城の池田信正と言う人物もいた。彼は長隆の仲介で政長の娘を妻にしている。そのた摂津の領主たちの中では長隆や政長に近い人物であった。
「信正殿も裏切るとは」
長隆は愕然とする。ここまで自分たちと近い人物まで裏切るとは思わなかったからだ。またこの知らせを聞いた政長は激昂する。
「婿の分際で裏切るとは。絶対に許さん」
政長は信正のこもる池田城を攻撃したが抵抗が激しくなかなか落城しないでいる。
ともあれ摂津の領主たちの離反は晴元たちに痛手を与えた。さらにこのところ晴元と将軍義晴の関係も悪化してきている。
この晴元は長隆など主要な家臣を集めて今後の対応を協議した。そして四国から援軍を上陸させ氏綱に対し反攻に出ることにした。
この反攻作戦の具体的な立案に長隆は参加できなかった。反攻作戦は四国の勢力が中心に計画されたからである。
長隆は範長に尋ねた。
「摂津の領主にはつながりがある。何かできることは無いか」
しかしこれを範長は跳ねのけた。
「無用です。すでに計画は固まっています」
「そ、そうか」
長隆は自分の話を押しのける範長に元長の姿を見た。あの時長隆は内心反発したがこの頃にはそう言う気持ちも残っていない。
この後範長は長教を置いて先に摂津を攻撃した。年が明けて天文十六年(一五四七)のことである。範長は迅速に城を攻めると同時に有力者に和睦の仲介をさせた。摂津の領主たちは範長の四国勢の威容に恐れを抱き戦わずして和睦に応じる。この和睦はもちろん範長に有利なものであるが領主たちの立場も保障するものだった。こうして硬軟織り交ぜた軍略で摂津の領主たちは降参し再び晴元の軍門に下る。この中には池田信正もいた。
「池田殿も帰参したのか。これは良いことだ」
長隆としては数少ない親しい摂津の領主である。帰参したのは素直に喜ばしい。しかし政長の怒りは収まらない。
「俺は信正を絶対に許さん」
「ですが晴元さまが許された以上仕方ありません」
怒り狂う政長を長隆はなだめる。しかし政長の怒りは収まらなかった。
それはともかく範長の活躍で戦況は晴元方有利に傾いた。そして範長軍と長教軍は直接対決し範長軍が勝利した。この戦いでは四国の勢力の活躍が大きかったという。これにより戦況は晴元の有利に傾いた。そして天文十七年(一五四八)の四月に六角定頼の仲介で晴元と長教は和睦し氏綱の攻勢もここで終わった。
長隆は胸をなでおろした。氏綱はまだ生きているがもう長教の後援は受けられない。ここまでの事態は二度と起きないだろう。そう考えていた。
「一時はどうなる事かと思ったが。まずは良しとしよう」
しかし和睦の翌月に衝撃的な事件が起きる。
「信正殿が殺された?! 」
それは池田信正が京で殺されたという事件であった。そしてそれを命じたのが主君の細川晴元だという。だが本当は違うということを長隆は理解していた。
「政長殿…… 何という事を」
政長は晴元に信正を殺すようにと言ったのだろう。晴元は政長のいう事は確実に信じる。だから長隆も政長と接近していた。しかしこれには絶句するしかない。一度許したものにこんなことをすれば確実に人心は離れる。
「いったいどうなるのだ。この先…… 」
長隆は目の前が真っ暗になるのを感じた。そして長隆の終わりの時が近づいてくる。
政長は信正の死後その跡を自分の孫に継がせた。この信正死去から続く政長の暴挙は摂津の領主たちの大きな反発を招く。
長隆は摂津の領主たちを説得しようとした。
「皆ここで怒れば信正殿の二の舞になるぞ」
だがもはや長隆の言葉を聞く者はいなかった。
摂津の領主たちは範長のもとに集い政長の排斥を訴えた。しかし政長を信頼する晴元は取り合わない。晴元はまだ政長をかばっていた。
ここにきて範長もついに決意をした。範長は遊佐長教の娘を娶って名を長慶と変える。そして政長に戦いを挑んだ。
この行動は晴元への敵対ともいえる。しかし長慶としては表立って晴元への敵対は表明していない。しかしそれも時間の問題であった。
長隆は晴元に訴えた。
「このまま政長殿をかばい続ければ長慶殿は氏綱殿を擁するでしょう。ここは政長殿に隠居していただきことを穏便に治めては」
「うむ…… しかしそれでは政長が納得しまい」
「ですが晴元さま」
「儂は政長を見捨てることは出来ん」
晴元は長隆の訴えを受け入れなかった。ここまで晴元は政長に入れ込んでいたのである。政長は晴元の幼いころから付き従い、元長の死の前後から晴元の腹心として傍にあり続けた。晴元にとってはここで政長を失うということは考えられない。
長隆は晴元の説得を断念した。そして政長と長慶の戦いが始まると晴元は政長を支持する。ここにきて長慶は完全に晴元と断交し潜伏していた氏綱を擁した。
こうなれば長隆も腹を決め策動する。しかし三好長慶と言う男が手強いのは百も承知であった。そこで長隆は晴元に提案する。
「ここは六角殿に合力を頼みましょう」
「それは名案だ」
「それと御足労ながら晴元さまも自ら出陣していただきます。元さまが現れればこちらの士気は上がり敵も攻撃をためらいましょう」
「そうか。それは良いな」
晴元は長隆の策受け入れ自ら出陣した。また長隆は六角定頼との交渉に挑む。
「長慶殿は六角殿の苦心を踏みにじりました。ここで長慶殿を討たなければ六角殿の面目がつぶれましょう」
長隆は長慶の行動が、定頼が仲介した晴元と長教の和睦を無駄にする行為だと説いた。定頼は大きくうなずくとにやりと笑う。
「いかにも。それにまた晴元殿に貸を作るのも悪くない」
六角氏の中興の祖ともいわれる傑物はこういった。ここまで定頼は戦火に深くかかわらずに己の存在価値を高めている。そしてそれを実現する武力も維持していた。
「(恐ろしいお方だ。しかしこの方が味方ならば勝てる)」
長隆は定頼に畏怖を抱いたが同時に援軍の約束も取り付けた。
「これで晴元さまは勝つ。そして私の立場も安泰だ」
定頼が軍勢を引き連れて出陣するのを見て長隆は安心した。これで自分の役目は終りである。あとは晴元と政長の勝利を待つだけであった。
しかし事態は急変した。天文十八年(一五四九)六月に政長が籠る榎並城が長慶の総攻撃を受ける。これは六角氏が京に入ったという情報を受けての攻撃であった。この戦いでなんと政長は戦死してしまう。さらに別の城に籠っていた晴元も城を捨てて脱出してしまった。しかも六角軍は晴元も戦死したという誤報を聞き引き上げてしまう。
すべてを京で知った長隆は愕然とした。
「な、何という事だ」
しかし長隆は晴元が生存しているという正確な情報を得ていた。つまりまだ勝機はある。
「まずは晴元さまとこの後の協議をしなければ」
だが晴元は長隆に何も言わず将軍の義晴を連れて近江に逃げてしまう。これを聞いた長隆は絶望した。
「わ、私の人生は何だったのだ…… 」
こうして晴元の政権は崩壊し京には長慶と氏綱が入った。
戦う術を失った長隆は氏綱に降伏した。長隆は長慶の父の元長を排除した一人である。当然殺される覚悟もした。しかし長慶は長隆を何も言わず許した。
「よかった。よかった」
長隆は素直に喜んだ。もっとも要するに長慶にとって茨城長隆と言う男はどうでもいい存在だったという事である。
この後長隆は元の小領主に戻った。そしてその後の動乱には関わらずひっそりと生きたという。いつ死んだかもわからない。
長隆は都合十年近く細川家の重臣であり続けました。そして主君の晴元は管領の座に付き幕府の政務を行っています。諸説ありますが長隆は管領代として晴元に匹敵する権限を持っていたという説もあります。それが事実ならば茨木長隆と言う人物は相当の人物だったと言えるでしょう。ただこの説に関しては異論も多いようですが。
長隆が没落した後は三好長慶が機内での中心人物となります。ですが彼は不幸に次々と襲われてしまいます。その結果三好家は畿内で確固たる基盤を築けませんでした。その結果畿内は織田信長の入京まで混沌とした状況が続きます。つまり細川政元から始まる混乱は七十年近く続いたわけですから恐ろしい話ですね。
さて来週二十三日の投稿ですが特別編としてこれまでの主人公を活躍時期でまとめたリストを投稿しようと思います。そして三十日は休ませていただいて新年の六日から新しい話を投稿させていただきます。というわけで年内はこの話までです。ご容赦を。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




