豊臣秀勝 激流、されど短く 後編
思慮の足りない行動から勘当され領地を失った秀勝。秀勝は兄の世話になりながら己の軽率な行動を悔やむ。そんな秀勝に転機が訪れる。
勘当された秀勝は兄の秀次の世話になることになった。今回の一件はさすがに堪えたのかだいぶ大人しくしている。九州で調子に乗っていたのが嘘のようであった。
肩を落として秀次の仕事を手伝う秀勝。秀次はそんな弟が哀れに思えたのか必死で励ました。
「そう気落ちするもんじゃない。ほとぼりが冷めれば叔父上もきっと許してくれる」
「本当にそうか? あの怒りようは並みのものじゃないぞ」
「確かに怒ったときの叔父上はすさまじく恐ろしい。だが俺にもちゃんと名誉挽回の機会を与えてくれた。お前だって例外じゃない」
「そうかなあ…… 」
「ともかく今は真面目に働くことだ。そうすればきっとうまくいく」
「うーん…… 信じられんなぁ」
秀勝は秀次の言葉を半信半疑で聞いていた。だが実際のところは秀次の考えている通りだったようである。
天正十七年(一五八九)に蜂屋頼隆と言う大名が死んだ。頼隆には子供がいない。そのため越前(現福井県)の所領が宙に浮く形となった。
ある日秀勝は秀吉に呼び出された。
「いったい何なんだ」
また何かしてしまったか。そう怯えながら秀勝は秀吉に拝謁する。
秀吉は手短に要件を言った。
「蜂屋の遺領をお前に与える」
「は? 」
秀勝には秀吉の言葉の意味が分からなかった。そんな秀勝の困惑を察したのか秀吉はもう一度言う。
「お前に蜂屋の遺領をやるといったのだ」
「お、俺にですか」
「他に誰がいるのだ。今後は謙虚に励むのだぞ」
「は、はい! 」
怯えていたのが嘘のように明るい返事だった。秀吉は平伏する秀勝を横目に見ながら去っていく。残された秀勝は涙を流しながら畳に額をこすりつけていた。
実際の所、秀吉の血縁、特に男子は少ない。この先のことを考えると秀勝を勘当したままに出来なかった。そう言うわけである。
何はともあれ秀勝は無事に所領を得ることができた。このことを吉房や秀次、江に話すと二人ともわがことのように喜んでくれる。
「よかったな。秀吉もお前を見捨てるつもりなどなかったのだ」
と、吉房。
「これよりはしっかり叔父上の尽くすのだぞ」
と、秀次。
「これで一安心ですね」
と、江。
そして最後にともはこういった。
「無理をせず頑張ればいいんだよ」
ともは相変わらずであった。
秀勝に新しい領地が与えられた翌年の天正十八年(一五九〇)秀吉は天下統一の仕上げとして関東の雄、北条家の征伐に乗り出した。
この戦に秀勝も勿論出陣する。今回は兄の秀次の旗下での出陣となった。
九州へ出陣するときは意気揚々と言った雰囲気であった秀勝だが今回は違った。
「もう俺に失敗は許されない…… 」
一応は許してもらったとは言えすべてが帳消しとなった訳ではない。ゆえにもう一度失敗すれば自分はおしまいだ。そう言うことを秀勝は考えていた。
そんな夫に江は優しく言った。
「そもそもあの時は戦場で失敗したわけではないのでしょう。大丈夫です。きっとうまくいきます」
「そ、そうか? 」
「はい。きっとそうです」
この頃になると二人も夫婦として落ち着いてきた。皮肉にも秀勝の失敗は二人の絆を深めたと言える。
「今回は義兄上様もおります。二人で協力すればきっといい結果になると義母上様も申しておりました」
「そうか。おふくろが。よし、やってやるぞ」
こうして妻と母に励まされ秀勝は出陣した。
秀勝を含めた豊臣軍は約二十万の兵で東海道を進む本隊と約三万の兵で東山道を進む別働隊に分かれた。秀勝は秀次の旗下で本隊の方に所属している。
東海道を進む本隊の前に立ちはだかるのは北条家の山中城である。秀吉は秀次に山中城攻めの総大将を命じた。
「立派に務めを果たして見せよ」
「かしこまりました」
この頃秀吉には待望の男子の鶴松が生まれていた。秀吉としてはまだ幼いわが子を支える一族が欲しかったのだろう。そうした意味で秀次に経験を積ませようとしていた。
秀吉はこうも言った。
「小吉が無理をせんよう見張っておけ」
「かしこまりました。でも大丈夫でしょう。あいつも反省しています」
「ほう。ならばいいのだが」
こうして秀次の指揮のもと山中城攻めが始まった。もっとも豊臣軍は大軍で負ける要素の無い戦いである。
「一気呵成に力攻めだ」
秀次の作戦は単純なものだった。実際ここで時間をかける理由もない。諸将も賛成し山中城攻めが始まる。
いざ城攻めが始まると山中城に籠る北条軍は必死で抵抗した。山中城自体も堅城でなかなか落ちない。
そんな中で秀次の家老である一柳直末が戦死するという事態が起きた。これには秀次も動揺する。
「ここまで抵抗が激しいとは。小吉は大丈夫なのか」
苦い顔をして弟を心配する秀次。そこにさらに報告が入る。
「申し上げます」
「なんだ! 」
「豊臣秀勝さまが城門を破ったそうです」
「なんだと! 」
それは秀勝が城門を突破して突入したという報告だった。
秀勝はこの戦いにすべてをかけるつもりで参戦していた。
「なんとしても汚名を漱ぐ。そして必ず武功を挙げるのだ」
そう言って秀勝は手勢を率いて突撃した。そして苦戦しながらも奮戦し一番に城門を突破したのである。
城内に突入した戦いながら秀勝は叫んだ。
「俺の旗を立てろ! 」
山中城に秀勝の旗が立つ。それを見た豊臣軍の意気は上がり攻撃はさらに激しくなった。
こうして秀勝の奮戦もあり山中城は数時間で陥落する。山中城の城兵は多く死に主な城兵も皆戦死するのであった。
戦いが終わった後で秀次は秀勝をねぎらった。
「見事な戦いだったぞ」
「ああ。これで叔父上に見放されなくて済む」
そう言う秀勝の表情は安堵に満ちていた。実際今回の戦いでの秀勝の功績は大きい。
「きっと叔父上も喜ぶぞ」
「だと良いんだが」
秀勝はまだ不安そうだった。それだけ勘当された一件が応えているという事である。
山中城落城の後、豊臣軍は北条家の本拠地の小田原城を包囲した。秀勝は秀次と共にこれに参加する。
この包囲戦で秀次も秀勝も特に目立った行動は行わなかった。
「あまり好き勝手動けばまた大目玉を食らう」
そうした認識を兄弟は共有していた。
結局北条家はこの包囲に屈し降伏する。そして北条家は滅亡した。
この戦いで秀次も秀勝も秀吉から何か言われるということは無かった。
「とりあえず一安心だ」
そう言って秀勝は胸をなでおろした。
北条家の征伐も無事に終わり東北の諸大名も豊臣家に従属した。これでついに日本は豊臣家の下に統一されたのである。
戦いが終われば当然戦後処理がある。その一番大きな目玉は徳川家康の関東移封であった。
徳川家康は三河(現愛知県南部)をはじめとした五つの国を治める大大名である。その家康が転封されるのだから大きな騒ぎになった。
「これは加増の形を取って家康殿を遠ざけたのではないか」
「左様。秀吉様は家康殿を警戒されているからな」
秀吉と家康は小牧長久手で一戦交えている。最終的には秀吉の勝利と言っても過言ではないが、秀次の敗戦を始め局地的な戦いでは家康に煮え湯を飲まされていた。またその結果完全に武力で屈服させることもできていない。家康の持つ広大な領地の存在もあり秀吉は家康を特に気にしていた。
現状家康はこの転封も含めて秀吉に従順である。もっともその真意は本人以外わからない。
さて家康の転封と北条征伐の論功行賞もありに様々な大名が転封された。そして秀勝も転封することになる。
秀吉は秀勝に言った。
「お主に甲斐(現山梨県)をやる」
「甲斐のどこですか? 」
そう質問する秀勝。この頃になると秀吉への恐怖心はだいぶおさまっている。もっとも偉大な叔父への畏敬の気持ちは消えていないが。
秀勝の素朴な疑問に秀吉はにやりと笑って返した。
「甲斐一国だ」
「は? 」
「甲斐一国をやる。これからも励むのだぞ」
「は、はい! 」
今回秀勝に与えられたのは甲斐一国であった。今まではどこかの国の一部と言った具合であったが今回は丸まる一国である。これに秀勝は舞い上がった。すぐに敦賀に戻ると江にこのことを話す。
「喜べ江! 俺も国持ちになったぞ」
「それはまあおめでとうございます」
「しかし家康殿の旧領だ。これは大変かもしれない」
秀勝はさっきまでの様子と打って変わった真剣な表情になった。それを見て江は微笑んだ。
「大丈夫でしょう」
「そうか? 」
「いまのあなた様は浮かれることなく真剣になっています。かつての失敗をちゃんと生かしている証拠です」
にっこりとほほ笑んで言う江。秀勝は照れて顔をそむけた。そしてそっぽを向きながら言う。
「そ、そうか」
「はい。そうです」
「そうか…… よし。ならばすぐに転封の準備をしよう」
そこで秀勝は気合を入れ直す。そして諸々の準備を始めるのであった。
一方の江はともに今回の件を報告する手紙を書いた。そして転封の準備が着々と進む中で手紙が帰ってきた。
秀勝は江に尋ねた。
「何が書いてあったんだ」
「それが」
江は苦笑しながら手紙を見せた。
手紙にはいろいろと細かく秀勝を心配する内容が書かれていた。無理をしていないかとか江に迷惑をかけていないかなどである。
「全くおふくろは」
秀勝は少しうんざりした顔で言った。そして手紙を読み進めていくとこんなことが書かれている。
「叔父上に転封先を変えるように頼むだと!? 」
ともは甲斐は遠い上に山々に囲まれた僻地だという。そんなところに行ってしまっては簡単に会うことができなくて心配だ。だからせめて別の場所に変えてもらうよう秀吉に頼むと書いてあった。
これを見て秀勝は呆れた。
「おふくろは何を考えているのだ」
「仕方ありません。義母上様はあなた様のことが大切なのです」
「しかし祝辞なのだから喜ぶべきだろう」
「それはそうですが」
江は困った顔をして頷いた。
その後も秀勝は手紙を読み進める。そして最後にはこう書いてあった。
「早く孫の顔を見せてくれ」
この一文に秀勝も江も顔を赤くするのであった。
甲斐に移った秀勝は早速領内の行政を行う。秀勝の支配は可もなく不可もなくといった無難なものであるが兎も角領地は安定していた。
一方で以前にも記していた通りともは秀勝の領地について歎願を続けていた。そしてこの結果秀勝は転封することになる。天正十九年(一五九一)三月のことである。
「まさかおふくろの言い分が通るとは」
秀勝の甲斐統治は一年足らずで終わった。これには秀勝も呆れてしまう。
新たな領地は美濃(現岐阜県)であった。ちなみに隣国の尾張を統治しているのは兄の秀次である。
さて秀勝が転封した天正十九年は豊臣家に様々な出来事が起きた。
まず一月に秀勝の弟の辰千代改め秀保が叔父の秀長の婿養子になる。実はこの頃秀長は危篤状態で余命いくばくもないという状況であった。この事態に対処するため秀吉は数少ない血縁である秀保を秀長の養子にしたのである。そして秀保を養子にしたのと同月に秀長は死んでしまった。
この結果ともと吉房の間に出来た子は皆養子に出ていくことになってしまった。
この話を聞いた江は悲しんだ。
「いくらお家のためとはいえ実の子をすべて取り上げてしまうとは」
「これも仕方のないことだ。それはおふくろだってわかっている」
「そうかもしれませんが。これで義母上様はとても寂しいでしょうね」
このことが秀勝の転封に影響を与えたかどうかは不明である。
秀勝が転封してしばらく経った八月、秀吉の待望の跡継ぎであった鶴松が死去するという事態が起きる。これにより秀吉には跡継ぎがいなくなった。
この時秀吉は五四歳。当時としては老齢と言える。側室には江の姉の淀を含め数人いたが今までに子供ができなかった。今後も期待できそうにない。そこで秀吉は決心した。
「秀次を跡継ぎとする」
十一月に秀吉は秀次を正式に跡継ぎとした。この一ヶ月後秀次は関白の座も譲られる。
これらの結果秀勝の豊臣政権内での序列も上昇した。実質秀吉、秀次に続く立場と言ってもいい。
秀勝は自分にかかる期待と重圧をひしひしと感じていた。
「ここからは本当に迂闊なことは出来んな」
改めてそう考える秀勝。そんな秀勝に江は言う。
「これからはご苦労が多いでしょうがわたくしも精一杯支えます」
「そうか、すまんな。しかし義姉上は落胆しているだろう」
「そのようです。なんとしてでもわが子を秀吉さまの跡継ぎにするつもりだったようで」
江の姉の淀は鶴松の生母でもあった。母の市が秀吉に思いを寄せていたこともあり淀は特に可愛がられていたという。一方の淀の心境は複雑であったが腹を痛めて生んだ我が子は可愛かったようである。
「義母上様もお母様もそうですが子を思う母の気持ちとは強いのですね」
「そのようだ。出なければ叔父上に転封など申し出ん」
「わたしにはまだわかりません」
そう江がつぶやくと二人はしばらく無言になった。思えば結婚してから六年経っている。二人の間にそろそろ子どもができても不思議ではない。
何とも言えない沈黙が二人の間に流れた。しばらくして秀勝が口を開く。
「少し本腰を入れてみるか」
秀勝の言葉に江は顔を赤くする。
「あなた様…… 」
「おふくろも親父殿も早く孫の顔を見せろとうるさいしな」
「そうですね」
その日二人はいつもより早く床に入った。
日本は秀吉によって統一され後継者も決まった。しかし秀吉の野望はまだ終わらない。秀吉が次に目指したのは明であった。
秀吉は以前から外征を計画していた。そして日本も統一したということで計画を発動させたのだろう。
この明への侵攻に際して秀吉は朝鮮を治める李氏に明への道案内を要求した。しかし李氏はこれを拒否する。これを受けて秀吉はまず朝鮮の制圧を目論見て軍を編成するのであった。文禄元年(一五九二)のことである。
この外征軍に秀勝も動員された。
「まさか異国の地に行くことになるとは」
この事態に秀勝も動揺していた。江に至っては青い顔をしている。
「これで戦も終わりだと思っていましたのに。秀吉様は何を考えているのでしょう」
「叔父上の野心には限りが無いという事だ」
「しかし巻き込まれるものには…… 」
「そう言うことを言うな。それに俺は豊臣の一門としてやらなければならんのだ」
強い口調で言う秀勝。しかし江は浮かない顔で腹をなでた。
「この子のこともあります。無理はなさらないで」
「ああ、そうだな」
秀勝は頷く。この頃江は懐妊していた。二人の間にやっと出来た子供である。秀勝は身重の妻を残して渡海することになった。
「必ず帰ってくる」
そう秀勝は強く決意した。
渡海した秀勝は朝鮮の巨済島に到着した。ここでほかの大名たちと共に進軍の準備を始める。しかし
「む、なんだ…… 」
異国の水があわなかったのか秀勝は急激に体調を悪くしてしまった。そして時が経つにつれて体調はさらに悪くなる。しまいには病気になってしまった。
「ああ、いったい何なんだ」
どんどん悪くなる自分の体に絶望する秀勝。しかし目には強い意志が残っている。
「生きて帰るんだ。日本には江とわが子が待っているんだ」
だがいくら秀勝が願っても体調は良くならなかった。
「まだ死にたくない…… 俺はまだやりたいこともやらなければいけないこともあるんだ…… 」
そして文禄元年の九月。豊臣秀勝は異国の地にて死ぬ。享年二四歳の若さあった。
この報せを聞いた江は絶句した。だがすぐに気を取り直す。
「この子のためにもしっかりしなければ」
のちに江は娘を生む。秀勝の血を受け継ぐ唯一の子供であった。のちにこの娘は公家に嫁ぎその子孫は大正天皇の皇后となった。
秀勝の死の三年後、弟の秀保が急死した。さらに同年には秀次と秀吉との間に不和が生じ秀次が切腹してしまう。そして秀勝たち兄弟の父親である吉房は讃岐に配流されてしまった。
ともは秀吉の姉と言うこともあり難は逃れる。しかし秀次と秀保死の翌年出家して尼になった。
「これよりは息子たちを弔い続けます」
息子たちを手放さざる負えなくなっただけではなく、早くに失ったともの悲しみは計り知れないものである。
この後豊臣家は滅亡の道を進んだ。秀吉の一族で後世まで血を残したのは秀勝の家系だけである。
秀勝は秀次、秀保と共に豊臣一族の第二世代と言える立場です。本来なら彼らは秀吉亡き後の豊臣家を支えていくべき存在なのですが尽く早死にします。しかも同時期に。このことが豊臣家が滅亡してしまう遠因になったのだと考える人も多いようです。
一方で秀勝たちの母親であるともは九十代まで生きたそうです。これは当時の人間としてはかなりの長寿です。しかしその人生の大半を早逝した息子たちの弔いに費やしていたかと思うと悲しいものですね。
さて次の話の主人公は摂津の武将です。時代は細川政元が死に養子の高国と澄元の戦いが終わった後の時代です。この時代の話は初めてとなるので自分でも楽しみにしています。読者の方もぜひお楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡。では




