豊臣秀勝 激流、されど短く 前編
豊臣秀吉の甥、豊臣秀勝の話。
戦国の世で出世街道をまい進した豊臣秀吉。それは秀吉の肉親たちの運命も大きく変えた。秀吉の甥に生まれた秀勝はどのような運命を迎えるのか。
小吉が生まれたのは永禄十二年(一五六九)のことである。父は弥助、母はともと言って尾張(現愛知県北部)の農民だったらしい。らしいと言うのは小吉の物心つくころには父の弥助は侍でともの弟、要するに小吉の叔父に仕えていた。叔父の名は羽柴秀吉と言う。
その叔父の秀吉も元々は農民であった。しかし侍になるために家を出て見事に立派な侍になったという。そして今でも出世している。そんな話を父親から小吉は言い聞かせられて育った。
「俺もお前も立派な侍になって秀吉を助けなければいかん」
弥助は秀吉に仕えるようになって身なりは多少立派になった。しかしまだ畑仕事をしていた頃の泥臭さが抜けていない。正直あまり侍らしく見えない。
一方で息巻く夫と違いともは何とものんびりとした雰囲気で言った。
「とにかく無理をせず、生きていければそれでいいんだよ。食うに困らなければそれ以上のものはいらないね」
ともも農民の頃の雰囲気が抜けていない。もっとも本人はそれでよさそうだが。
小吉はどちらかと言うと父の考えに惹かれた。それは叔父が身一つで出世していったという話を聞いていつか自分もという気持ちになっていたからでもある。
「俺も叔父さんのようになるんだ」
そう幼い小吉は考えていた。
さて小吉には兄弟がいた。兄が一人と弟が一人である。
兄は治兵衛と言った。治兵衛は小吉より一つ年上である。小吉と治兵衛は年の差もほとんどなく友人のように幼いころ過ごした。また治兵衛も弥助から秀吉の話を聞かされて育ったので、小吉と似たような考えをしている。
「小吉。俺はいずれ城持ちの侍になるぞ」
「俺もだ兄者」
幼い兄弟はそんなことを話しながらすくすく育っていく。そうしてしばらくすると天正七年(一五七九)、小吉が十才の頃に弟が生まれた。名は辰千代と言う。
この頃には秀吉はさらに出世して城持ちの侍になっていた。この頃には弥助も名前を吉房と侍らしいものに変えている。小吉も治兵衛も侍の息子らしい教育を受けさせられた。ともは相変わらず変わらないが小吉の家族の暮らしはだんだんと変わってきている。そんな中で小吉は成長していった。
辰千代の誕生からしばらく経った天正十三年(一五八五)。この頃に小吉の身にいろいろなことが起こった。まず七月に叔父の秀吉が関白になった。
「めでたいめでたい。これで秀吉の天下じゃ」
「本当だ親父殿」
そう吉房も小吉も喜んだ。もっとも関白になることでどうして天下を治められるかということはわかっていない。
そんな中で小吉は元服することになった。ついでに叔父の秀吉の養子になることも決まる。秀吉は子供に恵まれていなかった。そのため別にも養子を貰っている。ついでに何があるかわからないということで甥の小吉を養子にと考えたのだろう。
小吉は養子になるにあたって元服した。そして名乗りを秀勝と改める。
「叔父上の字に勝利という意味を加えて秀勝じゃ」
だがこのことで少し悶着があった。と言うのも秀吉の養子にすでに秀勝という人物がいたからである。
これにはさすがに父親の吉房が苦言を呈した。
「さすがに紛らわしい。それに秀勝さまは秀吉を取り立てた信長様の息子なんだぞ」
しかし小吉改め秀勝は拒否した。
「俺はこの名前が気に入っている。絶対に変えん」
秀勝が強硬に主張したので吉房もあきらめた。またこれを聞いた秀吉も苦笑し
「そこまで言うなら仕方ないだろう」
と、一応認めるのであった。
元服した小吉は九月に近江(現滋賀県)の瀬田城を与えられた。また八月には兄の治兵衛が近江に領地を与えられている。治兵衛はすでに元服して秀次と名乗っていた。
「これでお互い城持ちだな」
「そうだな。それにしても兄者がしでかしたときはどうなるかと思ったぞ」
「それは言うなよ」
この秀次がしでかしたことと言うのは小牧長久手の合戦での敗戦である。この時秀次は自ら別働隊の大将に志願し出陣した。しかし大敗し多くの将兵を失ってしまう。この時の秀吉の激怒はすさまじく秀次は勘当されるかもしれないというところまで行った。
秀次はしみじみと言った。
「お前も気をつけろよ。叔父上は怒ると本当に怖い」
「心配いらんよ。俺はそんなへまはしない」
秀勝は自信満々に言うのであった。
さて元服し城ももらった秀勝にさらに新たな出来事が起こる。それは結婚であった。
秀勝は吉房に尋ねた。
「俺はどんな嫁を貰うのだ」
「喜べ。信長様の姪ごの江様だ。なんでも大層な美人だそうだぞ」
「そんなに美しいのか」
「ああ。江様のお母上も大層な美人で秀吉も惚れたそうだ」
「それは叔父上が女好きだからじゃないのか? 」
こんな親子の会話があったかどうかはわからないが秀勝と江は結婚した。
二人は婚約の日に初めて顔を合わす。はたして江は吉房の話通り美しかった。もっともまだ十三歳の少女なので可憐と言った方が正しいかもしれないが。
秀勝はともかく喜んだ。
「こんな別嬪さんを嫁にもらえるとは。叔父上に感謝しなければ」
一方の江の顔は暗い。それは秀勝にも気になった。
「何でそんな暗い顔をしているのだ」
「私の父を討ったのは秀吉殿です。そんな人の思い通りにさせられるのが悔しいのです」
「そうなのか。だがまあ必ず俺が幸せにするぞ」
「本当ですか? 」
「本当だ」
にこやかに言う秀勝。だが江は不審そうに秀勝を見ていた。
そんなこんなで結ばれた二人の結婚生活は一応うまくいった。秀勝は粗野な面があるが悪人ではない。江も多少は心を許して行くのであった。
さて天正十三年も終わりが差し迫った十二月。秀吉の養子であった秀勝、もちろん小吉の事ではなく信長の子供であった方である、が死んだ。こちらの秀勝には子供がおらず領地を継ぐ者がいない。そこで白羽の矢が立ったのが小吉の方の秀勝であった。
「丹波亀山をお前にやろう。これからも励むのだぞ」
秀吉は秀勝にそう言い含めた。それに秀勝は元気よく答える。
「もちろんです。叔父上」
とはいえ秀勝はまだ十代。いろいろと血の気の多い年齢でもあった。えてしてこの年頃と言うのは間違いをしでかしてしまうのである。
天正十五年(一五八七)、昨年に姓を豊臣に変えた秀吉は反抗的な態度をとる薩摩(現鹿児島県)の島津氏を討伐するために九州に向けて出陣した。これに秀勝も参加する。
「手柄を立てるいい機会だ」
意気揚々と出陣の支度をする秀勝。しかしその手伝いをする江は心配そうであった。
「あまり気をせいてはことを仕損じます」
「心配はいらん。俺は兄者のようにはならん」
「ですが義母上様も心配しております」
秀勝の出陣が決まったときともから手紙が届いた。内容は秀勝が無茶をしないかと心配しているものである。
「おふくろは心配性なのだ」
不機嫌そうに秀勝は言った。そしてそのあとは何も言わずにせっせと支度を続けた。
その後秀吉は大軍を率いて出陣し部隊を二つに分けた。一方は自ら総大将を務め、もう一隊は弟の秀長に任せている。秀勝は秀吉の隊に配属された。
秀吉の軍勢は豊前(現福岡県)にから入り進軍する。そして目の前に立ちふさがったのが堅城と名高い岩石城であった。
「これはいい機会だ」
秀勝はそのことを知って喜んだ。ここで堅城と名高い岩石城を落とせば手柄にもなるし自らの名も上がる。そして秀吉に名乗り出ようとした。
しかし秀勝に先立って前田利長と蒲生氏郷が岩石城攻撃を申し出た。
「「我々にお任せを」」
秀吉はこの申し出を受け入れた。
「見事攻め落として見せよ」
一方で抜け駆けされる形になった秀勝は面白くない。
「(俺が言おうとしたのに…… )」
だがそんな秀勝の心情を知ってか知らずか秀吉は言った。
「秀勝よ」
「は、はい」
「この岩石城攻め。お主が総大将をせよ」
「は、はい! 」
秀吉の思わぬ言葉に秀勝は喜んだ。この時の秀吉の思惑は数少ない一門の秀勝に経験と実績を積ませようとしていた。幸い岩石城は名声の一方で何度か落城の憂き目にもあっている。そうした意味ではいい相手であった。
「(さすがに秀次のようにはなるまい)」
秀次の時は敵が天下に名だたる徳川家康であったからしてやられてしまった。しかし今回は圧倒的に有利な状況での戦いになる。秀吉としてはそこも当然含めてある。
「とにかく無理はするのではないぞ」
秀吉は口を酸っぱくして言った。しかしそれを秀勝が呑み込んでいたかどうかは不明である。
「俺はここで名を挙げる。そうすればだれも文句は言わなくなるはずだ」
こうして秀勝率いる軍勢は岩石城に攻撃を仕掛けた。その作戦はいたって単純な力攻めである。
「総大将としては一日でも早く城を落としたい」
一応秀勝なりに総大将の威厳を醸し出そうとした。もっともそう言う虚勢は岩石城攻めに参加している氏郷にも利長にも見透かされている。しかし二人ともそれを表立ってからかおうなどと言う人間ではない。二人としてもここは主君の甥であり豊臣家の明日を担おうという青年を支えようと考えていた。それゆえに自分たちが言い出した岩石城攻めの指揮を秀勝がとることに異論はない。
二人とも秀勝に同意した。
「尤もな話だと思います」
「ここで後攻の憂いを発つことこそ勝利の道です」
「そ、そうか。ならば前田と蒲生の両軍で力攻めにせよ! 」
秀勝は張り切って言った。二人ももとよりそのつもりである。こうして岩石城攻めが始まった。
蒲生・前田の両軍は猛然とした勢いで城に攻めかかる。その攻撃はすさまじく岩石城は城兵に多数の死者を出し一日で陥落した。
この戦果を聞いた秀勝は狂喜した。
「見たか! 俺の思った通りだ! 」
確かに秀勝の考えた通り力攻めで岩石城は陥落した。もっともそれは両軍の兵力の差と蒲生・前田軍の精強さによるものである。秀勝の力量かと言うと微妙なところであった。
しかし何はともあれ秀勝が総大将を務める軍が岩石城を落としたことを事実である。この岩石城攻めの功は秀勝のものとなった。
「これが俺の力よ」
秀勝は自信満々に言った。しかしこの功績が蒲生氏郷と前田利長の奮戦にあるということは誰もが承知している。勿論秀吉も。
秀吉は氏郷と利長を呼んでねぎらった。
「今回は小吉めが苦労を掛けたな」
「何のこれしき」
「これも豊臣のお家のためです」
「そうかわかってくれるか」
今回の城攻めが成功して秀吉は心の底から安堵した。もし秀勝が秀次のような失敗をしていたらせっかくの豊臣の姓にも傷がつく。
「あとは小吉が落ち着いてくれればいいのだが」
秀吉はそんなことを陣中でつぶやいた。しかし秀勝は今回の勝利に浮かれている。
「この先の豊臣の家は俺が背負って立つ! 」
そんな夢見がちなことを豪語してはしゃいでいるのであった。
はしゃぐ秀勝をよそに秀吉の島津征伐軍は順調に進軍した。そして最終的には島津家の降伏という形で戦いは終わる。
戦が終われば論功行賞が始まる。秀勝はこの場に大きな期待を寄せて参加した。
「(俺の戦功は叔父上も認めるもの。きっと今より多い領地になるはずだ)」
秀勝は意気揚々と沙汰を待った。
そして論功行賞が始まる。その内容は主に今回制圧した九州の領地の配分であった。そんな中で秀勝の名はなかなか上がらない。
なかなか自分の名前があがらないので秀勝はいらいらしだす。
「(どういうことだ。あれだけ活躍した俺に何の沙汰も無いはずがない)」
しかし論功行賞は淡々と進む。そして
「これで論功行賞は終りとする」
という秀吉の言葉で終りとなった
秀勝は秀吉の言葉を聞いて思わず立ち上がる。そして不満を述べようとした。
「(叔父上は何を考えているのだ。ここは一言言って俺の名をさらに上げて見せる! )」
そう決意する秀勝。しかし秀吉は立ち上がった秀勝を睨みつけた。
「なんだ? 小吉」
秀吉は秀勝が聞いたことも無いような声で言う。その声は地の底のように低く極寒の地のように冷たいものだった。それを聞きさらに凄みのある目で睨みつけられては秀勝の決意も消滅する。その上足がすくんで座ることもできなかった。
秀勝は立ったまま震えていた。そんな秀勝を論功行賞に参加していた諸将は冷たい目で見つめる。ここにきて秀勝は自分がとんでもないことをしようとしていることに気付いた。
「お、俺は…… 」
必死で言葉を紡ごうとする秀勝。しかし言葉にならない。その間も秀吉や諸将は秀勝を見つめていた。
もしここで秀勝がおとなしく座れば秀吉もこれ以上言及することは無かった。しかし悲しいかなこの戦で芽生えた秀勝の小さな面目がさらに事態を悪化させる。
「お、叔父上…… 」
震える秀勝が何とか言葉を紡ごうとする。そしてついに言葉になった。
「お、俺の所領、は、す、少なすぎます。こここ今回の、せ、せ、戦功でもう少し、増やしてもらえないかと…… 」
やっと出てきたのはそんな言葉だった。そして秀勝が言い終えるとその場に沈黙が訪れる。
そして参加していたうちの一人がため息をついた。そしてそれが呼び水のなったかのごとく秀吉が立ち上がり言った。
「此度の戦はで働きを見せたのは蒲生前田の両名! 貴様の戦功は儂が総大将にしてやったがゆえのもの! それを理解せず挙句に己の分際を越えた所領を望むなどもってのほか! 恥をしれい! 」
その大音声はあたり一面に聞こえるほどだった。叫ぶがごとく言葉を紡ぐ秀吉の顔は怒りで真っ赤に染まっている。秀勝はその剣幕に腰を抜かしてしまう始末であった。
秀吉はその後も秀勝の態度や言行を非難し続けた。そしてすべてい終わった後で腰を抜かしている秀勝を見下ろす。そして言った。
「貴様のようなものは知らん。勘当じゃ。勿論領地も没収する。」
静かにそう告げて秀吉は去っていく。腰を抜かして座りこんでいた秀勝は呆然自失の体であった。
その後秀吉の宣言通り秀勝は勘当され領地も没収となった。秀勝は気落ちしたまま妻の江と一緒に秀次の下にいる両親のもとに転がり込む。
江は今回のことを聞いて呆れ返った。
「だからあれほど言ったでしょう。調子に乗ってしまったあなたがいけないのです」
ともは今回のことを聞いても動じなかった。
「調子に乗ると痛い目に合うものよ」
妻と母にたしなめられて秀勝はさらに落ち込むのであった。
以前藤掛永勝を主役にした話を書きました。そこで永勝の主君に羽柴秀勝と言う人物がいましたが、本文にも触れていますが今回の主人公とは別人です。区別のために幼名を取って小吉秀勝と於次丸秀勝と呼ばれることもあります。ちなみに小吉が秀勝と名乗るようになった時期は諸説あります。その一つには於次丸秀勝の名を引き継いで秀勝と名乗るようになったというものもありますが、今回は於次丸秀勝が存命中に小吉も秀勝と名乗ったとしました。しかし実際紛らわしい話です。
さて秀勝と兄の秀次は叔父の秀吉の養子になりました。また弟の辰千代は叔父で秀吉の弟の秀長の養子になり秀保と名乗るようになります。なんでこうなったのかと言うと当時の秀吉はもちろん秀長にも男子がいなかったからです。しかし弟たちに息子を持っていかれた秀勝の母のともはかなりかわいそうな女性だと思います。もう少し知名度が上がってもいいんじゃないんでしょうか。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では
 




