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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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石井与次兵衛 座礁

 明石の海賊石井与次兵衛の話。

 明石でつつがなく海賊稼業にいそしんでいた与次兵衛。今度の与次兵衛の仕事は織田家臣羽柴秀吉の戦を助けることであった。こうして秀吉に仕えるようになった与治兵衛の行く末には何が待つのか。

 与次兵衛はこれまでの人生で多くのことを望んだつもりはない。ただ己の技を生かして生きていいられれば良かった。いわば静かな海の上を行く船のように生きて入れればよかったのに。だが突然に座礁してしまった。


 播磨(現兵庫県)の明石。この辺りは商船が多く行き交う土地柄であった。そう言うわけだから海賊と呼ばれるものも多い。石井与次兵衛もそんな海賊の一人である。

 与次兵衛は常々こう言っていた。

「俺たちは世の中の隙間をついて生きているようなもんだ。だからあまり目立たずひっそりと生きて行ければいい」

 このころの海賊と言うと戦国大名の合戦の助太刀をしたり縄張りを通過する商船から金品をせしめたりするのが生業である。ある意味与次兵衛の言う通り世の隙間をついて生きていると言えるかもしれない。

 そんなふうな考え方をしている与次兵衛だから金は手堅く稼ぐし派手に使わない。時々安酒を飲んで憂さ晴らしができればいいと考えている。そんな男であった。

 ある日そんな与次兵衛を訪ねてきたものがいた。訪ねてきた男は

「羽柴秀吉さまの使いです」

と名乗った。

「誰だ? 」

 与次兵衛にとっては聞きなれない名前である。思わず聞き返した。

 その使いの男が言うには秀吉は織田信長様に仕える身で、今度西国を制圧するので与次兵衛にも手を貸してほしいそうだ。さらに世のなかは変わりつつあるとか織田信長様はいつか日本を治めるようになるとか語った。

 正直与次兵衛にとってはそう言うのはどうでもよかった。

「それでいくら出すんだ」

 与次兵衛にとって興味があるのはそこである。誰が何をしようとかではなく自分がいくら稼げるかに興味があった。

 いろいろ語っていた使者の男は与次兵衛の物言いに絶句した。そしてしばらくすると少し軽蔑したように与次兵衛を見る。与次兵衛のことをあさましいと思っているようだった。もっともそんな視線を与次兵衛は慣れきっている。今までも時々どこそこに仕える侍とやらがやってきた。そして金の話をすると途端与次兵衛を蔑んで見る。よくあることだった。

「(生きる上で金と命以上に必要なものがあるのか)」

 与次兵衛はそんなことを考えていた。しかし口には出さない。

 使者の男は与次兵衛に対して報酬と条件を提示する。その内容はそれほど無茶なものではない。与次兵衛は頷き言った。

「引き受けよう」

 こうして与次兵衛は秀吉に従うことになった。もっともこの時は今までやってきた仕事と何も変わらない。そう考えていた。

 

 ともあれ与治兵衛は秀吉の下で仕事をすることになった。その仕事は以前とほとんど変わらないものである。唯一違うのは後方支援が多いことだった。

「米やら武器やら人やらを運んでばかりだな。戦の手伝いではないのか? 」

 与次兵衛にしてみると侍からの仕事の依頼はだいたいが海戦の手伝いである。後方での物資の輸送はあまり記憶がない。

「物を運びたければ商人に頼めばいいのではないか」

 そんなことを与次兵衛は考えていた。

 そもそも秀吉やその主である信長が海賊に期待したのは操船の技術である。その操船技術を戦いに生かすのはもちろん円滑な物資にも生かそうと考えていた。今回与次兵衛は後方の支援に回されたというだけである。

 さてそれはともかく秀吉の西国攻略は着々と進んだ。そして西国の雄毛利家を追い詰めるところまでたどり着く。しかしここで信長が本能寺で戦死するという事態が起きた。ここから秀吉は畿内に戻り信長の敵を討つ。そして信長の後継者として天下統一の道を歩むことになる。

 この過程でも与次兵衛は変わらず秀吉に仕えていた。これは成り行きの都合であって別に与次兵衛が秀吉についていこうと考えたとかそう言うわけではない。あくまで雇われているだけだという認識が与次兵衛にはあった。

「この仕事は長引きそうだな」

 与次兵衛にとってはその程度の認識である。

 一方の秀吉は天下統一においての水軍の重要性というものを強く理解していた。そのため与次兵衛とは別の海賊である九鬼喜隆や来島通総などを配下に加えている。そして強力な直属の水軍を作り上げようと考えていた。

 当然その中には与次兵衛も含まれる。だが当の与次兵衛にはそんな意識はいまだない。

 そんなこんなで天正十一年(一五八三)に秀吉は新たな拠点である大阪城に入城することとなった。当然この入城は軍事的な威容を見せつける理由もある。当然秀吉は軍勢を引き連れて入城した。そして大阪城に面する大阪湾には秀吉旗下の水軍が警護に当たる。与次兵衛はこの指揮を任された。

「俺が指揮をするんですかい」

 与次兵衛は不思議に思った。与次兵衛からしてみれば一介の海賊が侍も乗っているだろう船団を指揮するということは違和感がある。

 そんな与次兵衛の疑問に秀吉は直接会って答えた。

「石井の操船は天下一。その技を見せればいいのだ」

「そうですかい。なるほど」

 そう言われれば与次兵衛も悪い気はしなかった。

 こうして与次兵衛は大阪湾の海上警護の指揮を執った。確かにその操船技術は見事なものだし、伊達に永く海賊をやっていただけあって指示も的確である。

 海上で指揮をする与次兵衛は得意な気分であった。

「(侍どもに命令するのは気分がいいな)」

 与次兵衛が指揮をしている船には与次兵衛の部下と水軍に属する侍も乗っている。それらに与次兵衛は指示を出すのだが

「もっと早くしろ」

とか

「もういいから俺の部下に任せろ」

とか侍に言うと何とも言えない気分になる。

「(俺らを見下していた連中が俺に従っている。これはいい気分だ)」

 海上警護の指揮は与次兵衛の自尊心を満たしていった。それは与次兵衛が今まで味わわなかった快楽でもある。

 そして秀吉の大坂場入城はつつがなく終わった。与次兵衛は秀吉に呼び出された。

「操船も指揮も見事であった。これからも水軍の指揮を頼む」

「へ、へい」

「うむ、そうか。ああ、それとこれは褒美じゃ」

 そう言って秀吉は見事な金を差し出した。与次兵衛はそれを丁重に受け取るとその場を去る。

 その後与次兵衛はいつもより上等な酒を買った。

「うまい。今までとはまるで違う。もう安酒には戻れんな」

 与次兵衛は上機嫌で酒を味わうのであった。

 この大阪湾警護の後、与次兵衛は秀吉の水軍の一翼を担うことになる。

 

 秀吉は大阪城入城したのち天下を統一するため積極的に出兵する。天正十二年(一五八四)に同じく天下を狙う徳川家康と有利な条件で講和すると西国に手を伸ばし始める。

 西国でも四国や九州は海を隔てた場所にある。そのため水軍の必要性も高い。勿論与次兵衛の出番も多くなる。

 天正十二年には四国の長宗我部家が羽柴家に属する十河城を攻撃した。与次兵衛は長宗我部軍に包囲された十河城へ兵糧を搬入する。しかし結局十河城は落城してしまった。

「せっかく俺らが兵糧を補給したというのに。長宗我部のやつらめ。秀吉様に逆らうとは許せん」

 この頃になると与次兵衛もすっかり秀吉に心酔している。

 それはともかく四国は長宗我部家の手に落ちようとしていた。しかし天正十三年(一五八五)には秀吉が自ら出陣して四国の制圧を試みた。

 この際与次兵衛は軍勢を渡海させるための船の用意を命じられた。この船の中には秀吉が乗る予定の船もある。

 与次兵衛は秀吉に言った。

「秀吉さまの乗る船は俺自身が責任をもって指揮します。何も心配することはございません」

「そうか頼もしいな」

 しかし秀吉は病気になってしまったので渡海は取りやめとなる。そして代わりに弟の秀長が総大将となって四国に攻め込んだ。

「秀吉様に俺の腕前を見せる機会だったというに」

 与次兵衛は悔やんだが病気では仕様がない。残念に思いながらも軍勢や物資の輸送を滞りなく行い、秀吉軍も圧倒的な力で長宗我部家を打ち破るのであった。

 四国を制圧した秀吉は関白になった。そして豊臣姓を名乗るようになる。これがどれほどのことか与次兵衛にはよくわからなかったが、兎も角相当な地位についたことだけはわかった。

「俺は関白様の配下の海賊だ」

 与次兵衛は得意になって吹聴している。

 さて長宗我部家を打ち破った秀吉が次に目指したのは九州であった。九州では島津家が九州全土を治めようと軍事活動を行っている。そう言うわけで島津家を討伐すべく秀吉は軍勢を派遣した。勿論与次兵衛含む水軍も同行する。

「今度こそ秀吉さまの渡海を俺の船で行う」

 そう意気込んでみたものの、与次兵衛たち水軍は兵糧や軍勢の輸送で先発となった。一方秀吉は秀長を総大将として先に送り自分は後発の部隊と共に上陸することにしている。

「またダメか」

 与次兵衛は自分の腕前を秀吉に見せることでさらに認められ用としていた。だがそれがなかなかうまくいかない。

「仕方がない。仕事をきっちりとするか」

 そう割りきって九州に向かう。その際難関とされる関門海峡も渡った。

「これが関門海峡か。思ったほどのモノではない」

 そこはさすがに難なく乗り切る与次兵衛である。

 九州では島津家が頑強に抵抗するが結局は多勢に無勢であり徐々に追いつめられていく。またこの時の水軍は与次兵衛含む秀吉直属のだけでなく、水軍を要する大名たちも参加していた。その規模はある島津家臣の記録によれば「数千の船が海に浮かび波間も見えないほどだ」と記したほどである。

 海上から島津の兵や領民たちがおののくのを目にした与次兵衛は得意げに地上を見た。

「これが関白様の威光だ」

 与次兵衛は大阪湾を警護した時よりさらに調子に乗っていた。もっとも一介の海賊からここまで取り立てられれば調子に乗るのも仕方のないことかもしれない。

 結局島津家は秀吉に敗れ九州も秀吉の支配下にはいった。その後秀吉は海賊禁止令というものを出す。これは豊臣家に従う勢力以外の海上勢力を否定するものだった。

 この海賊禁止令が出されて与次兵衛はさらに得意になった。

「俺は関白様の公認を得た海賊だ」

 与次兵衛はますますいい酒を飲みながら自信満々に吹聴するのであった。


 島津家を従属させた秀吉は次に東国の雄の北条家の討伐を始めた。

 秀吉は大軍を派遣し北条家の本拠地である小田原城を包囲する。与次兵衛含む水軍は海上封鎖して包囲に参加した。

「(大阪湾の時を思い出すな)」

 与次兵衛は大阪湾で海上警護の指揮をしていた時のことを思い出していた。思えばあの時に秀吉に認められたからこそ今の自分がいる。与次兵衛はそう考えていた。

「(操船で俺の右に出る者はいない。それは秀吉さまも認めてくださっている)」

 そう言う自負が与次兵衛にはあった。もっとも実際の所秀吉にとって与次兵衛は豊臣水軍の一員程度の認識でしかない。かつて与次兵衛に言ったようなことはほかの皆にも言っていた。それを与次兵衛は知らない。

 実は与次兵衛は水軍として活動する中である危機感を抱いていた。それが与次兵衛の自負を強めさせている。その危機感とは水軍に所属する面々のことである

 豊臣水軍は与次兵衛のほかに海賊から大名になった面々や、海賊が所属する地域を治める大名たちが参加している。彼らの指揮する兵力は与次兵衛の手下とは比べ物にならないほど多い。そして水軍の作戦の中枢を担うのはそうした大名たちであった。

「(俺は数で負けているだけだ。船の技は俺の方が上だ)」

 与次兵衛はそう考えている。もっとも実際のところは技術にそれ程の差があるわけではない。ただそう考えなければ見放されてしまうのではないかという危機感が最近の与次兵衛には芽生えていた。

「なんとしてでも今回の戦で活躍しなければ」

 しかしながら海上での戦闘も無く北条攻めは終わった。与次兵衛は任務を遂行することができたがそれはほかの面々も変わらない。与次兵衛は焦りを募らせていくのであった。


 北条氏を討伐した秀吉は続いて東北の諸大名も従属させた。これにより豊臣家の下に日本は統一される。だが秀吉の野望はこれで終わらなかった。

 秀吉は海外に目を向け当時の中国大陸を支配していた明を征服しようと考えた。そしてその手始めに朝鮮を服属させようとしたが拒絶される。そのため秀吉は明征服の手始めとして朝鮮を征服することにした。

 この時秀吉は肥前(現熊本県)の名護屋に城を築き前線基地とした。そして指揮を執るために那古野には腰を下ろす。この時秀吉は自ら朝鮮に渡ろうと考えていた。だが母親の大政所は必死で引き留める。

「もはや私も長くありません。そんな時に息子が遠い異国の地にいるのは何とも心細い。それにあなたももう若くはないのだから異国にわたるような無茶はしないでください」

 秀吉は自分を生み育ててくれた母親を大変慕っていた。またこのところ調子が良くないことを知っていたので頼みを聞き日本にとどまることにする。

 こうして秀吉は名護屋にとどまり指揮を執った。与次兵衛も日本にとどまり国内での兵站に関わる。だがこれが与次兵衛にとっては不満であった。

「なぜ俺は朝鮮に渡れんのだ」

 この時朝鮮には豊臣水軍の将たちも渡っていた。朝鮮に渡った面子は大名クラスの者が主である。日本にとどまっているのは与次兵衛など規模の小さい水軍たちであった。

「これでは手柄を立てられん」

 与次兵衛は焦った。自分の存在意義を示せるいい機会だというのに後方支援委に回されてしまっている。

「何とか目立てないか」

 そんな焦燥する与次兵衛の願いが意外な形で叶ってしまった。なんと大阪の大政所が危篤になってしまったという。秀吉は急いで大阪に帰ることにする。

「早く船を出すのだ! 儂はとんでもない親不孝をしてしまうかもしれん! 」

 秀吉の母を思う悲痛な叫びを与次兵衛は聞いた。そして

「(今こそ俺の出番だ)」

と意気込んで秀吉の前に出た。

「俺の船をお使いください。素早く秀吉さまを大坂に送り届けます」

「石井よ、そうか。頼むぞ! 」

 秀吉は急いで準備し与治兵衛の船に乗り込む。与治兵衛は急いで船を出し大坂に向かった。

「急ぐのだ! 我らの腕の見せ所だぞ! 」

 与次兵衛はここぞとばかりに声を上げる。ここで秀吉を大坂に送り届け大政所と対面させれば自分の今後は間違いない。そう考えていた。

「(なんとしてでも送り届ける)」

 それは秀吉のことを思ってというわけではなく完全に自分のためであった。

 さて肥前の名護屋から大阪に向かうには関門海峡を抜け瀬戸内海に入る必要があった。関門海峡は海峡の狭さと潮流の速さのためかなりの難所である。そこを急いで通過しなければいけないのだから難易度はさらに上がる。

 だが与次兵衛には自信があった。この関門海峡は九州征伐の折になんなく通過している。

「関門海峡何するものぞ」

 与次兵衛は船の速度を緩めず関門海峡に突入しようとした。だがこれがいけなかったのか激しい潮流に翻弄されてしまう。そして

 ガザァ!

「な、なんだと…… 」

激しい音を立て秀吉の乗る船が座礁してしまった。この事態に与次兵衛は呆然とする。

「何をしている! 早く船を出さんか! 」

 そんな秀吉の怒声も聞こえない。与次兵衛は呆然とし立ち尽くすばかりであった。

 

 その後秀吉は与次兵衛に同行していた毛利秀元の船が救出した。そして秀吉は急ぎ大坂に向かう。

「罰は後で下す。覚悟しておるのだぞ」

 いつになく怒りを込めて秀吉は言う。怒気殺気を隠さずに言う秀吉を前に与次兵衛は何も言うことができなかった。

 失意の与次兵衛は名護屋に戻った。そして手当たり次第に酒を飲む。だが今あるのは安酒しかない。

「まずい酒だ」

 そう文句を言いながらも与次兵衛は酒を飲み続けた。酒を飲んで今日のことを忘れたい。だが秀吉の怒り心頭の秀吉の顔がいくら飲んでも消えなかった。

「ああ、もうだめだ」

 すべてに絶望した与次兵衛は腹を切った。それは責任を取ってという事か恐怖から逃げるためかそれはわからない。だがここで明石の海賊石井与次兵衛の人生は終わった。

 大阪に戻った秀吉は母親がすでに死んでいたことを聞き卒倒したという。大政所は秀吉と与次兵衛が名護屋を出発した日に亡くなっていた。

 のちに与次兵衛が座礁した灘は与次兵衛灘と呼ばれて浮世絵や講談の題材になったという。


 というわけで石井与次兵衛の話でした。珍しく、と言うか初めて一話完結としましたがどうでしたか?乾燥お待ちしてます。

 さて以前海賊大名の来島通総の話を書きました。与次兵衛も通総も共に海賊の出身で豊臣家の水軍に属したがその人生は大きく異なります。そして死にざまも与次兵衛は日本で自害し通総は朝鮮の海で戦死しました。もし与次兵衛も渡海していたら朝鮮で戦死していたかもしれません。それなら武名を残せたものの、実際の死にざまでは少し救われない感じがしますね。

 さてこの戦国塵芥武将伝も一周年を迎えました。だから何だという感じですが、読者の方々に見守っていただいたからこそ無事に一周年を迎えられました。ありがとうございます。今後とも精進していきますのでどうぞよろしくお願いいたします。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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