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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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松平康元 徳川家康の弟の話 第四話

 豊臣秀吉の指示で徳川家は関東に移った。康元から見る家康にはもはや野心は感じられなかい。

 だが戦国の激動はまだ終わってはいなかった。そして激動の果に康元の終わりが近づいてくる。

 関東に入った徳川家臣団には新たに領地を与えられた。勿論、康元にも新領地が与えられる。

「ここが関宿か」

 康元に与えられたのは下総(現千葉県)のうちから二万石。大名と言える石高である。居城は関宿城となった。

 関宿城を含む地域は利根川水系など関東の水運に関わる要地である。ここを康元が任されたのは信頼の表れと言えた。康元も兄の期待に応えるべく領地の掌握に努める。

 さて関東に入った家康は江戸城を本拠地とし一心不乱に新領地の開発に努めた。康元を始め家臣たちを関東の要所に配置し、自身の直轄領には代官を派遣して統治する。関東にはまだ北条家を慕う風潮もあったが家康はそれにも配慮して領地運営を進めていった。

 そんな家康を見て康元は少しだけ物悲しくなった。

「もはやあの時の野心は兄上にはないという事か」

 康元から見る限り今の家康に天下を窺う野心は見受けられない。織田家に従っている頃に戻ったかのようだった。

 そんな家康は秀吉に従順に尽くした。天正十九年(一五九一)に陸奥(東北の太平洋側)で起きた九戸の乱にも兵を送っている。この時康元も出陣し先陣として戦功をあげた。この功績により康元は二万石も加増されている。しかし康元は手放しに喜べなかった。

「私は秀吉殿の手先となって戦いたいわけではない。いくら手柄を立てても秀吉殿が喜ぶばかりでは…… 」

 そんなことを康元は考えていた。

 そんな康元の思いとは別に家康は秀吉に、豊臣家に尽くした。

 文禄四年(一五九五)に秀吉の甥で後継者とも目された豊臣秀次が自刃しその妻妾、子女が処刑されるという事件が起きた。秀次事件である。

 この事件は豊臣政権に動揺を生じさせた。これを受けて秀吉は各大名を上洛させる。勿論家康もいた。

秀吉からの信任を受けていた家康はこのころから上方に滞在するようになる。しばらくの間は江戸に帰らず長い逗留になった。このことについて於大の手紙が康元に届く。

「兄上はまだ江戸に帰るつもりはなさそうだな」

 於大からの手紙には家康がなかなか江戸に帰ってこないこと、京で何か起きないか心配であることなどが書かれていた。そして家康はまだ京でやることがあると言っているらしい。

「秀吉殿の許でやることとは何か…… 」

 康元は考えた。しかしわからない。

「(まさかゴマをするわけではなかろう。しかし兄上は何を考えているのか)」

 いくら考えても答えは出ない。ともかく康元に出来ることは領地を無事に治めることである。というかそれしか今は出来ない。

「まあ、何が起ころうと兄上についていくだけだ」

 結局のところ康元にはそういう答えしか出せなかった。

 この後も家康は豊臣政権に、秀吉に尽くした。そのかいもあって家康は豊臣政権内で重きをなしていく。さらに一部の大名などからも声望を集めるようになっていった。

 そうした中で慶長三年(一五九八)に秀吉が六三年の人生に幕を閉じた。跡を継いだ息子の秀頼はわずか五歳であり、政務をとれるはずもない。

 秀吉の死に豊臣政権は動揺する。そしてそれこそが家康の待ち望んでいたことだった。だが康元はそれを知らない。

「いったいどうなるのだ」

 ただ立ち込めてきた暗雲に眉を顰めるのであった。


 秀吉死後も家康は上方に残った。これは秀吉死後の豊臣政権の運営のためである。康元は顔を合わせるどころか領地にも帰らない兄を心配していた。ところがその兄が突然帰ってくる。なんでも会津の上杉家を討伐するためらしい。

「なんと急な」

 康元は急ぎ出陣の準備をする。だがここから事態は急変していった。

 会津に向けて出陣した家康率いる上杉討伐軍。だがその途上に上方で石田三成が挙兵したという情報が入った。これを受けて家康は反転し三成の討伐に向かう。

 家康は上方に向かう前に領内の守りを固めた。領内各地の重要拠点に武将を配置し万全の守りを固める。康元も領内の防備の担当となった。

 康元は家康直々に指示を受ける。

「それで兄上。私は何処を守ればよいのですか」

 康元は落ち着いた様子で尋ねる。一方の家康はあまり落ち着かない様子だった。康元にはそれが気になる。

「(会津に向かう前はあんなに落ち着いていたのに)」

 兄のこの変わりようが康元には不安を感じる。それは事態が悪い方向に向いているという事の証でもあるからだ。

 そんな康元の心配をよそに家康は言った。

「お前には江戸城の留守を任せる」

 これを聞いて康元は驚いた。周知のとおり江戸城は現在の家康の本拠地である。そこの留守を任せるということは大変なことであった。

「私がですか」

「ああ、そうだ」

 驚きが収まらない康元に家康は頷いた。そしてこう続ける。

「今度のことは正直儂の予想を上回る事態になっている」

「それはどういうことですか」

「石田の小僧が何かしでかすかもしれんと言う懸念はあった。だがまさか毛利が石田につくとは…… 」

 家康は忌々しげにつぶやいた。今回の三成の挙兵に家康につぐ実力者である毛利輝元が味方したのである。これが家康にとっては予想外のことであった。

「毛利が味方したおかげで秀頼さまも三成方に着いた。これで儂は謀反者ということになっている」

「それは…… 」

「一応豊臣子飼いの者どもに関しては手を打ってあるが正直どうなるかわからん」

 一言一言口にするたびに家康の空気は重くなっていく。だが康元は違った。

「兄上」

「なんだ」

「手は打ってあると」

「ああ。豊臣に尽くしてきたのは子飼いどもの信頼を集めるためだ。それにいろいろと縁をつないでおいた」

「そうですか。ならば大丈夫でしょう」

 康元は自信満々に言った。それに家康は苦笑いする。

「何の根拠があるのだ」

「兄上がここまで準備をしてきたのならば間違いありません」

「答えになっていないな」

「どちらにせよ私も皆も兄上に今まで通りついていくだけです」

「そうか…… 」

 家康は瞑目した。康元は居住まいを正すとこう宣言する。

「留守中のことは何も心配いりません。この康元、一命を賭して成し遂げて見せます」

 そう言い放つ康元。それを見て家康の表情は明るくなった。

「そうか。ならば心配はいらんな」

「はい。あとは兄上の思うように」

「ああ。行って来る」

「はい」

 そう言って二人は笑いあうのであった。

 この後上方に向かった家康は関ヶ原で石田三成等と戦い、勝利した。この勝利で家康は豊臣政権を完全に掌握する。

 家康勝利の報を聞いた康元はすぐに母の於大に報告した。

「兄上が勝ちました。これで兄上の天下です」

 すると於大は心底ほっとしたようだった。

「命があって何よりです。天下も何も生きていなければどうしようもありません」

 それを聞いて康元は苦笑しながらも母の思いやりに感激するのであった。


 関ヶ原の戦いに勝利した家康は豊臣政権を掌握する。そして天下人への道を歩み始めた。

 家康は伏見で政務を行っていた。一方於大は江戸にとどまっている。もう年でもありあまり活発に動くことはでいなくなっていた。康元はそんな母親を心配している。

 そんな折に康元の下に定勝がやってきた。定勝は遠江の掛川を治めている。慶長七年(一六〇二)のことだった。

 康元は定勝に尋ねる。

「いったいどうしたのか」

 定勝は言った。

「実は兄上から母上を伏見に招きたいとの話が出ていまして」

「母上を? 」

 興奮気味に定勝は言った。一方康元の顔色は優れない。

「このところ母上は元気が無くてな」

「ゆえに兄上の下に連れて行こうという事です」

「それはそうだが伏見まで持つかどうか。まあどちらにせよ母上次第か」

「わたしもそう思います」

 そう言うと二人は連れ立って於大の下に向かう。そして於大に家康の計画を話した。

「どうでしょうか」

 家康の計画を聞いた於大は静かに言った。

「あとどれくらい生きられるかわかりません。ですが今なら体力もあります。行きましょう」

 静かだが強い言葉であった。康元と定勝の兄弟は母の思いをくみ取ることにする。

 伏見までの道中は康元と定勝の息子の定行が同行することになった。

「領地のことは良いのですか」

 於大は康元に尋ねた。

「心配いりません。今は息子たちもしっかりしています」

「そうですか」

「それに私も兄上に負けず親孝行をしたいのです」

「そうですか…… ありがとう康元」

 こうして於大一行は伏見に向かった。その道中にさしたる問題もなく無事に伏見に到着する。

 伏見に到着した一行を家康は直々に迎えた。

「よくいらっしゃりました。母上! 」

 家康は子供のように喜んで母を迎える。

「はい。本当に立派になりましたね。竹千代」

「これも母上が丈夫な体に生んでくれたおかげです」

 そんなふうに喜び合う母と兄を康元は優しく見守っていた。

 伏見で於大は穏やかに過ごした。康元も家康に許可を取り一緒に過ごす。

「本当に夢のようです」

「夢ではありませんよ母上」

 於大は秀吉の正室であった高台院を訪ねたりした。さらには後陽成天皇に拝謁もしている。於大にとっては本当に夢のような日々であったに違いない。

 しかし旅の疲れか病に伏せてしまった。家康や康元は手を尽くしたがそのかいもなく慶長七年の八月に伏見城でなくなった。享年七五歳。一度は離れ離れになった息子に看取られながらの死であった。

 康元は兄と共に丁重に母を弔った。そして領地に帰ると母のために寺を建立した。康元は名を弘経寺としようとする。しかし

「光岳寺の方が良い」

と家康に命じられた。康元はそれを素直に受け入れ光岳寺とする。そしてこの寺を菩提所とした。家康も小石川の伝通院に母を葬るのであった。


 於大を懇ろに弔った康元。母の今わの際に立ち会えたのはある意味幸運であったと言える。弔いを終えた康元は改めて兄をそして徳川の家を支えようとけついする、が。

「むう…… 」

 このところ康元も体調がすぐれなかった。

「(兄上は今だ元気だというのに情けない)」

 家康は康元より十歳ほど年長であったかまだまだ元気に働いている。

「私も頑張らなければ」

 そう気合を入れる康元だが体調は徐々に悪くなっていった。

 一方で家康は順調に天下を掌握していく。そして家康は慶長八年(一六〇三)の二月に征夷大将軍に任じられた。これにより家康は天下を差配する資格を得たといえる。

 この出来事に徳川家中は喜んだ。

「これでいよいよ家康さまの天下だ」

「ああ。我らも尽くしてきた甲斐があるというものだ」

「本当にそうだ」

 康元は関宿城の自室でこの知らせを聞いた。知らせに来たのは息子の忠良である。

「これで天下は叔父上の者です。いえ、もはや叔父上と呼ぶべきではありませんね」

「そう固くなるな。公の場ならまだしもここには私とお前しかいない」

 興奮気味に報告する忠良。それに対して康元は苦笑しながら言った。

 忠良は興奮が収まらない様子だった。それもそうであろう。叔父にあたる人物が武家の棟梁となったのである。若い忠良には一大事であった。

 そんな忠良に康元は尋ねた。

「お前はいくつになった」

「はい。今年で二一になります」

「そうか…… 」

 康元は自分が同じくらいの年齢であったときのことを思い出す。その頃はちょうど三方ヶ原の戦があったころだった。

「(信じられんな)」

 あの時は武田軍の圧倒的な力の前になすすべもなく敗れる。そして今は亡き叔父の信元共々逃げ延びることで精いっぱいであった。

 今では武田家はもう存在しない。ともに逃げた叔父の家は再興され徳川家に仕えている。

「本当に信じられん」

「父上? 」

 思わず出た康元のつぶやき。それに忠良は怪訝な顔をする。康元は忠良に優しく微笑んだ。

「なんでもない。それより知らせてくれてありがとう」

「いえこれしきの事。では私はこれで」

 そう言って忠良は部屋を出ていった。

 一人部屋に残された康元はぼんやりと天井を見上げる。この部屋で寝泊まりして十年以上経つ。もう見慣れた天井であるのだが時々違和感を覚えることがあった。もっともその理由もわかっている。

「まだ体は上之郷の事を覚えているのだな」

 関宿には十年と少しだが上之郷には三十年近く住んでいた。やはりそちらの方に馴染みがある。

「(そう言えば父の墓に行っていないな。だが三河は少し遠い。やはり関宿に寺を作るか? いや父上はあちらの方が良いと言うに決まっている)」

 次に思い起こされるのは父の事であった。そもそも上之郷は父から譲られたものである。それがあって働くことができ、結果四万石の大名になったと言える。

「(父上には感謝してもしたり無いな。それだけに叔父上のことが悔やまれる)」

 康元の人生で後ろめたいのはそれぐらいであった。それ以外では堂々と生きてきたと胸を張れる。

「(すべては兄上が母上に会いに来た時から始まったのだな)」

 結局のところ康元の人生は兄との出会いから始まったといっても過言ではない。兄についていき、その兄はついに天下人になった。これほどうれしいことは無い。

「本当に…… いい人生だったな」

 そんな言葉が康元の口から自然と出た。まるで人生の終わりを知らせているようである。


 家康が将軍に就任した六ヶ月後、慶長八年の八月に松平康元は息を引き取った。享年五二歳。関宿の宗英寺に葬られる。兄の戦いを陰から支えた人生であった。

 息子の忠良は後年に起きた大坂の役で活躍し美濃の大垣に加増転封された。しかしその後は不幸が続き幕末の頃には旗本となっている。

 康元をはじめとする久松俊勝の息子で幕末まで大名だったのは定勝の家だけであった。この家は明治維新の後に松平から久松に改めている。

 康元の家がどうなったのかはわからない。


 本文中でもありましたが康元は家康より十歳ほど年少でした。しかし兄に先立ち死んでしまいます。さらにその家は幕末まで大名として残ることはありませんでした。

 なお幕藩体制で徳川家の親族を親藩大名と呼びますが、これは家康の息子の家系に限られました。ですので康元や弟の定勝の家はあくまで譜代大名の扱いだったそうです。一応の理屈はあるのでしょうがなんだかかわいそうな気がします。

 さて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人は俗に三英傑とも呼ばれます。この中で信長の弟と言うと謀反を起こした信行(信勝とも)とか有楽町の名前の基になった有楽斎。秀吉の弟というと兄を支え続けた秀長が思い浮かびます。彼らに比して康元の知名度は大きな差があります。これは個人のエピソードの無さなどがあるのでしょうが曲がりなりにも天下人の弟でもあるのにもう少しどうにかならないのかなと思います。そしてこの作品が康元の知名度上昇の手助けにでも本作にも大きな意味があったと言えるでしょうね。これはほかの作品の主人公にも言えることですが。

 まあ今後もそんなことを考えながら筆を進めていきます。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

 

 

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