松平康元 徳川家康の弟の話 第三話
叔父の水野信元の死からしばらくたった。徳川家と康元は武田家との決戦に臨む。それは新たなる激動の序章であった。康元は急転する情勢の中で兄を支えるべく奮戦する。
信元の死からしばらく経った天正十年(一五八二)。この年は徳川家にとって大きな意味を持つ年になる。
この年に武田家の木曽善昌が織田家に寝返った。これを機に信長は兵を挙げ武田家殲滅に動く。
この報せを聞いた家康はすぐさま家臣に命じる。
「この機を逃すわけにはいかん。急ぎ兵をまとめ駿河に攻め入るぞ」
家康はこの機会に武田家との決着をつけるつもりだった。
この時は康元も動員された。勿論康元もやる気満々である。
「いよいよ武田家と決着をつけるときか」
こうして康元を含む徳川軍は遠江の隣国で武田領国の駿河に攻め入った。
「きっと死に物狂いで向かって来るに違いない」
康元は三方ヶ原の戦いを思い出して気を引き締める。しかし駿河の制圧は大した抵抗もなくあっさりと終わった。これには理由がある。
武田家で駿河の支配を担当していたのは穴山梅雪という男だった。穴山家は武田家の一族に連なる家系である。その穴山家の梅雪は武田家の当主勝頼と近頃不仲であった。そこで織田家と徳川家に内通し、この機会に武田家を離反したのである。
「なんという事だ。曲がりなりにも主君の一族の者が裏切るとは」
康元はあきれ果てる。そしてこれで康元の脳裏には恐ろしい強さの武田家への畏怖もどこかに消し飛んだ。
「盛者必衰とはこのことか」
何とも言えない郷愁に浸る康元。それはともかく駿河の制圧は順調に進んだ。
離反はその後も続き、結局武田家はあっという間に滅亡した。その後家康は信長の軍勢と合流する。そして武田攻めの褒美として駿河を与えられた。
「もはや我々も信長殿の家臣と言う事か」
康元はため息をつく。実際織田家と徳川家との間には大きな力の差があった。もはや対等な同盟とは言えない状況である。この後も家康は徳川領国を通って凱旋する信長の接待をした。完全に上下関係が出来上がっているという事である。
しかし家康がこの状況を受け入れている以上は康元も文句は言わない。
「これが徳川の家を生き残らせるなら私も兄上に従うだけだ」
康元のやることは兄を支えることだけである。
さて武田家を滅ぼした信長は近江(現滋賀県)の安土に帰還した。その後家康は戦勝を祝うために安土に向かう。そして信長の勧めもありしばらく上方に滞在することにした。だが信長が家臣の明智光秀に襲われ殺されてしまう。いわゆる本能寺の変であるがこの事件で上方は大混乱に陥った。
家康はその混乱から何とか逃れ岡崎に帰還する。康元も家康を迎えた。
「兄上。よくご無事で」
「死ぬかと思ったよ。三方ヶ原以来だ」
「そうですか…… お兎も角体を休めてください」
「いや、いい。それより兵を出す。信長殿の弔い合戦だ」
そう言って家康は急ぎ兵を挙げた。そして光秀を討伐するべく出陣したが、一足早く織田家臣羽柴秀吉が明智光秀を討ち果たす。
「猿め。素早いことだ」
家康は忌々しげにつぶやいた。康元は家康に尋ねる。
「この後はどうするのですか」
「こうなれば甲斐、信濃(現長野県)を手に入れる」
そういう家康の目は野心に燃えていた。今まで康元が見たことも無いような目である。
「(これまでにないくらい兄上は生き生きしているな。もしかしたらこれが本来の姿なのかもしれんな)」
康元は驚きながらも喜んだ。今まで何かと気苦労の多かった兄がここまで生き生きとしているのである。康元もやる気になった。
「行きましょう兄上」
「ああ。これよりは徳川の名を世に知らしめるぞ」
「はい! 」
こうして意気を挙げた家康は甲斐、信濃に侵攻。同じく甲斐、信濃を狙う関東の雄北条家と抗争を繰り広げた。
その後両家は和睦し甲斐、信濃は徳川家の領国となるのであった。
家康は甲斐、信濃を制圧した後は積極的に出陣することは無かった。新たに手に入れた領地の安定に務めたのである。これは次なる飛躍に向けての準備であり、家康がまだまだ上を目指すという意思もあった。
一方で信長亡き後の織田家は混迷を極めた。羽柴秀吉をはじめとする有力家臣は信長の亡きあとを狙い活動する。それは信長の息子や孫をないがしろにしているともいえた。
そんな中で秀吉は同じく有力家臣であった柴田勝家を天正十一年(一五八三)に滅ぼし大いに躍進した。これで天下人に最も近い存在になったのである。勿論天下を窺う家康にとってはうれしくない話であった。
「あの猿が天下人とは」
家康としては何とか手を打ちたいところであった。そんな時にある話が舞い込んでくる。
その兆候を康元は母からの手紙で知った。
「このところ伊勢よりの使者多し、か」
於大からの手紙の内容はいつも通りの近況報告である。しかしそのなかで伊勢から死者が多く来ているということが書かれていた。
「伊勢と言えば信雄殿か」
伊勢には織田信長の次男織田信雄の本拠地があった。信雄は信長亡き後の織田家の実質的な当主となっている。そういう立場だから織田家の家臣から逸脱しつつある秀吉とは険悪な関係になっていた。
「父の代からの同盟を頼りにしようという事か」
信長が死んだ者の徳川家と織田家の同盟はいまだ有効である。もっともこのころには徳川家と織田家の力関係は逆転していたが。
「(兄上は信雄殿と手を組み秀吉殿に対抗するつもりらしい)」
康元は家康が秀吉の勢力拡大を忌々しく思っていることを知っている。
「(兄上はここで一度雌雄を決しようと考えているのだろう)」
信雄の要請という形であれば大義名分は立つ。そういう意味もあって信雄と連絡を取り合っているのだろう。
於大からの手紙には最近の家康は若返ったかのように精力的になっていると書かれていた。そして於大はそれを支えようとも思うが心配でもあるとも書かれている。さらにまた織田家と深く関わり合いになるのが不安だとも書かれていた。
「母上も心配なのだろうな」
康元は母の心中を察した。於大からしてみれば実兄を死に追いやった家である。のちに詫びて家を復興させたといえども不信感は簡単に消えるものではない。
だが、康元に出来ることは決まっている。自分に出来る範囲で兄を支えることだ。
「尾張か伊勢か。どちらにせよ私も出陣するのだろう」
康元は来るべき戦いに備えて準備を急いだ。
この後、家康と信雄は手を組み秀吉への敵対を明確にする。小牧・長久手の戦いの始まりであった。
天正十二年(一五八四)の三月。信雄は秀吉に内通した嫌疑を持つ重臣を殺害する。これは実質秀吉への宣戦布告であった。家康はこの動きに合わせ浜松を発ち岡崎に兵を集る。
勿論康元も岡崎に向かい家康に合流した。
「いよいよ秀吉殿とことを構えるか」
康元は緊張した面持ちで出陣を待つ。康元は、いや徳川家の重臣の多くはこの戦いの行方で家康の天下への道が左右される。そう考えていた。
家康率いる徳川軍は信雄の待つ清州へ向かった。そして家康と信雄は今後の動向を協議する。
その後数度の合戦を経て家康は小牧山城に移った。家康は小牧山城に入ると防備を固める。これにより秀吉は容易に小牧山城を攻撃することができなかった。
このころ家康は情報の収集を続けて羽柴軍の動向を探った。徳川・織田連合軍の兵力は羽柴軍に劣っている。何とかその差を覆す策を探っていた。
ひっきりなしに斥候が出入りする陣中で康元は過ごしていた。この時は弟の定勝が康元を訪ねてきている。
「兄上も必死なのだな」
落ち着いた様子でつぶやく康元。一方の定勝は落ち着かない様子だった。
「我々にできることは無いのでしょうか」
「今できることは無いな」
鷹揚に康元は言った。その言い方に定勝は焦った。
「ですが」
定勝は意を乗り出して何か言おうとする。だが康元はそれを制した。
「落ち着け。兄上は機を窺っているのだ」
「機を? 」
「ああ。そして機が来れば動くことになろう」
康元がそう言うと家康からの使者がやってきた。
「ご出陣の支度を」
「わかった」
そう言うと康元と定勝は出陣の準備を始めるのであった。
家康は羽柴軍が別働隊を三河に向けて出陣させたという情報を得た。これは三河を攻撃し小牧山城から家康を引きずりだそうという作戦である。
だがこの別動隊は規模が大きくその動向は丸わかりであった。
「見え見えな動きだ」
家康は羽柴軍に悟られることなく小牧山城を出陣し小幡城に入る。そして先陣に羽柴家別動隊を攻撃させた。
思いがけぬ攻撃を受けた羽柴軍は大混乱に陥る。そしてさらに康元を含む徳川軍本隊が突撃した。羽柴軍も体勢を立て直し応戦する。そして両軍入り乱れる激戦となった。
康元も自ら槍を振るい奮戦する。
「徳川のため何としても勝利するのだ! 」
戦いは徳川軍優勢のまま昼過ぎで終わった。羽柴軍は将兵を多く失い潰走する。その後秀吉は自ら兵を引きいて救援に向かうがすでに徳川軍は撤退した後であった。
この戦いは家康の大勝に終わる。
家康はこの勝利を盛んに喧伝する。康元もこの勝利を誰よりも喜んだ。
「これで兄上は大きく天下に近づいた」
しかし現実はそううまくいかなかった。
小牧・長久手の戦いにおいて家康は局地戦に勝利した。これは家康の声望を大きく高める結果につながっている。その後戦局は膠着状態に入った。
膠着状態になった中で徳川軍は尾張の蟹江城を攻略することに成功する。この時定勝は戦功第二に賞された。
「やりました。兄上」
嬉しそうに言う弟に康元の顔もほころぶ。
「よくやった。兄上も喜ぼう」
「いえ。私は私のできることをしたまでです」
この戦功を康元と定勝の兄弟は喜び合った。しかし大局に変化はない。
蟹江城の落城からしばらくして和睦の話が出るようになった。しかし家康はこれを一蹴する。
「話にならん」
だが家康の同盟者である信雄は徐々に和睦に傾きつつあった。そしてついに信雄は秀吉と和睦する。その内容は信雄が秀吉に人質と領地を差し出すというものだった。事実上の敗北である。
「なんという事だ。助けを求めておきながら勝手に降伏するとは」
康元は憤慨した。しかし徳川家だけで羽柴家に対抗するのは難しい。結局、家康も秀吉と和睦することになった。
家康は領地を差し出すようなことにはならなかったが人質を差し出すことになった。だがここで問題が噴出する。
ある日康元は家康に呼び出された。
「いったい何ですか」
家康に面会した康元はそう言った。生憎呼び出されるようなことは思いつかない。
康元に問いかけられた家康は大きくため息をつくと話し始める。
「実は差し出す人質についてのことだ」
「……? それは兄上の重臣たちに尋ねるべきでは」
「いやそれがな」
家康が言うには秀吉は人質に定勝を要求したという。しかもただの人質ではなく養子にするつもりらしい。
それを聞いて康元は考え込む。
「そうなると羽柴家と我々との関係が複雑になりますな」
「いや、そこではないのだ」
家康は康元の発言を否定した。康元は不思議そうな顔で家康を見る。家康は少し情けなさそうに口を開いた。
「母上がな」
「母上がどうしました」
「定勝を養子に出すのは嫌だと」
それを聞いて康元の肩から力が抜けた。そして家康の意図を察する。呼び出しの理由は於大の説得であった。
家康の意図を康元は理解した。そして理解したうえで言う。
「私は母上に賛成です」
「康元…… 」
「母上は子を引き離される苦しみを味わってきました。またそれを味わえというのはさすがに酷です」
「だが定勝がだめなら於義伊(家康の第二子。のちの結城秀康)を差し出すことになる。今度は儂の妻が子と引き離されるぞ」
「それはわかっています。ですが母に二度同じ苦しみは味合わせ得られません」
康元はきっぱりと言った。そんな康元を見て家康はため息をつく。
「仕方あるまいか」
「はい。申し訳ありません」
「お前が謝ることではない。それに儂も母上を苦しませたくはない」
「左様ですか。ありがとうございます」
こうして羽柴家には於義伊が贈られることになった。後日康元の下には於大から手紙が届く。
内容は家康を説得してくれてありがとうと言ったものだった。
「兄上をあきらめさせたのは母上ですよ」
そう言って康元は苦笑した。
こうして家康は秀吉に人質を送った。これを家康が秀吉に臣従した証と取るかどうかは難しい話である。それはともかく家康の置かれる状況は徐々に悪化していった。
家康は複数の大名や勢力と同盟し秀吉に対抗した。しかしそれらの勢力は次々と秀吉に屈していく。さらに重臣の石川数正が出奔し秀吉に下るという事件まで起きる。
そして秀吉は関白に叙任され政権を担うことを天下に示した。
「兄上はさぞかし苦しんでいるのだろうな」
康元は於大からの手紙で兄の苦しみを知る。だが康元に出来ることは無い。
「この先どうなるのか」
このままでは家康が天下を取るどころか家の存続すら危うい。
「私は最後まで兄上に従う。それだけは絶対だ」
そう康元は心に決めた。だが事態は急激に変化していく。
何を思ったか秀吉は家康に縁談を持ち掛けた。確かに現在家康に正室はいない。だが家康の相手に選んだのは秀吉の実の妹の旭姫であった。
この話を聞いた康元は仰天した。
「秀吉殿は我々と親戚になるつもりなのか?! 」
もとよりこれは家康を懐柔するための策である。それでも実の妹を差し出すとは驚くばかりである。
「兄上はどうするつもりなのか…… 」
康元が困惑する中、家康は縁談を了承した。そして晴れて旭姫と夫婦になる。しかし秀吉に臣従はしなかった。
その後康元がどうなるのかと気をもんでいると、今度は旭姫の見舞いということで秀吉の母親の大政所がやってきた。これは実質人質である。
「実の母親まで利用するのか。秀吉殿は」
これには康元は憤慨する。一方の家康はここまでされれば折れるしかなかった。
ついに家康は上洛し秀吉に臣従した。こうして徳川家は羽柴家、のちに豊臣家に臣従することになったのである。
「兄上は無念だろうな」
康元は兄を思いやる。そして何より兄の天下を見られず康元自身も無念であった。
この後徳川家は豊臣家の下で従順に働いた。そして天正十八年(一五九〇)に行われた北条家の征伐、小田原攻めでも活躍する。その結果徳川家は関東に転封することになった。
この転封は領地が増えるので褒美と言える。しかし徳川家臣にとっては代々の土地を奪われるわけであるから勿論不服であった。康元もその一人である。
「私は納得いかんぞ…… 」
康元は苛立ちを隠さず言った。しかし今の徳川家は従うしかなかった。
「父上。申し訳ありませぬ」
父の俊勝は隠遁していたが三年前に亡くなっていた。康元の領地は父の功績で手に入れたものである。それだけに康元は父親の面目をつぶした気持ちになるのであった。
こうして康元を始め徳川家臣たちは関東に移った。秀吉に言われるがままに領地を移す家康にもはや天下を窺う野心はない。家臣たちや康元もそう思った。しかしそれが間違いであることをのちに知ることになる。
今回は武田家滅亡から一気に小田原攻めまで行きました。と言ってもメインは小牧・長久手の合戦で、小田原攻めはほとんど描写しませんでした。
小牧・長久手の合戦の後に家康は秀吉に人質を要求されます。これで於義伊こと結城秀康が人質になったことは知られていますが、その前に定勝が指名されていたことを知っている人は少ないと思います。というか私自身この話を書くまで知りませんでした。こういう今まで知らなかったことを知れるのもある意味歴史ものを書くことの醍醐味だと私は思います。
さて松平康元の話は次で最後の予定です。家康と徳川家がどうなるかは皆さんご存知でしょうが、康元がどうなるのかは知らないでしょう。ご期待ください。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




