赤松義村 飛べない鳥 後編
赤松義村はひょんなことから本家の家督を継ぐことになった。しかし当主であったが力はなく、後見人と家臣達の言うがままに生きるしかできない。そんな人生に鬱屈していく義村。その闇が新たな騒動を引き起こすことになる。
幕府が将軍を義稙とし管領を高国とした体制を確立してから、赤松家はその体制を支える勢力の一つとなった。かつては澄元に味方していたとはいえ、高国からしみてれば洞松院は義理の伯母である。また播磨は高国の主な支配地域である摂津(現大阪府および兵庫県)と隣接していたのでいろいろと頼みにすることもあったのだろう。だがそれ以上に赤松家の存在感を強めていた理由が亀王丸を庇護していたことであった。この時将軍義稙は初老を過ぎているにもかかわらず子がいない。足利家の命脈を保つためには敵対していた将軍の遺児も後継者に考える必要があった。そんな亀王丸を庇護しているのだから赤松家の存在感も強まるというものである。
さてそうした事実を背景に義村も赤松家内部で存在感を増し始めていた。今までは無きものとして重臣たちからも扱われていたが、このころは幕府の命による澄元派の掃討などの活動も主体的に行っている。赤松家当主としての存在感は強まってきた。
何より義村自身自信を深めて積極的に動いていたのである。
「そもそも私が赤松家の主なのだ。私が家を差配してないが悪いのだ」
かつての大人しいころの様子はうかがえず、体は細いままであったが目つきは鋭くなってきた。ある種の威圧感のようなものも出てきている。
そんな義村の変化を複雑に思う者が二人いる。一人は後見人の洞松院。
「このところの義村殿は大名としての振る舞いが出来てきている。しかし政則さまのような浅慮も見え隠れしているのは心配じゃ」
もう一人は重臣筆頭の浦上村宗であった。
「幕府に近づき赤松家の格を高めるのは良い。しかし我らの力を奪うような真似は何とか封じなければ」
赤松家はこの両者を筆頭に義村の変化を憂うもの。一方で義村の変化を機に自らの勢力を広げようと考える者。様々な思惑が飛び交う複雑な様相を見せ始めていた。
ある時義村はこう言い放った。
「これまで赤松家の万事は皆が話し合いそれを洞松院様にお許しいただくことで成り立っていた。しかしそれでは時間がかかる。それでは対応できぬこともあるだろう。そこでこれよりは家中の仕組みを作り替えようと思う」
そう言うや義村は新たな体制の構築に望んだ。これは洞松院のあずかり知らぬことである。無論驚いて義村を強い口調で問いただした。
「其方は家臣の者たちの声を蔑ろにするつもりか」
これに義村は平然と答える。
「むしろ今まで家臣たちの言を聞きすぎたのです。そのために内内での争いがなかなか終わらなかった。これよりは私が赤松をまとめます」
そう言ってきかなかった。確かに赤松家は家臣同士での大小見えるもの見えないものの内紛が絶えない。それを抑えるために当主の権限を強化しようと義村は考えた。だがそれは諸刃の剣である。
「政則さまは己の力を過信し滅びた。其方もそうならぬよう気を付けよ」
「いらぬ気づかいです」
忠告する洞松院だが義村は聞く耳を持たない。これには洞松院も驚く。
「妾は其方のことも思ってこう言っているのですよ」
「ならば私の成すことを支えてくれればよいではないですか」
「ならばまず妾の言うことを聞いて…… 」
「もうあなたの言う事の従うだけの生き方はうんざりです! 」
そう言って義村はその場を去った。その場には唖然とする洞松院だけが残される。
義村の考えた新たな政権構想は次のようなものである。
まず義村を頂点とし、家臣の代表として二人の宿老を置く。そして義村を補佐する三人の側近を置くというものであった。これを赤松家の最高意思決定機関とするのが義村の構想である。
この二人の宿老に充てられたのが浦上村宗。もう一人は小寺則職である。小寺家は浦上家と並び古くから赤松家に仕えた家であった。代々忠誠心は高く則職もその父も主君によく言えば忠実に、悪く言えばいいなりと言った感じである。
そうした存在を家臣の筆頭である村宗と並べたのは露骨なまでの牽制である。無論村宗は不快であった。
「私に功で劣る則職ごときを並べるとは。義村様はそれ程私を邪魔に思っているのか」
義村の行動を不快に思う村宗。そして体制がいざ始動すると意外なほど義村は村宗の意見を取り入れる。一方で則職や三人の側近たちの意見も取り入れた。これがますます村宗には面白くない。
ある日こんなことがあった。その日も義村と宿老たちの会議が終わりその帰途につく時である。則職はうれし気に、一切の嫌味なく村宗にこう言った。
「これよりも我らが共に肩を並べ、義村様を支えようではないか」
則職は村宗より少し年上の、純朴でまじめな男である。侮られることはあっても気割られることのない。そうした人柄であった。今の発言も心の底からの本心で一切の邪念はない。しかしゆえに村宗の癇に障った。これ以降村宗は露骨に義村への反発を見せるようになる。
新体制の発足からしばらく経った永正十五年(一五一八)義村は村宗の出仕を差し止めとした。これは最近の村宗が義村に反発するばかりか則職とも対立するようになったこと。そして側近たちが村宗は謀反を企んでいると義村に讒言したからである。
この謀反の噂については偽りであった。ただ村宗は出仕停止の以前から赤松家の支配下から外れた行動をとっている。特に領地の国人たちには自分が主のようにふるまっていた。これがどのようにみられるか分からぬ村宗であったが、いざというときは力で対抗できると考えていたのである。
ともかくそうした事情を受けて義村は村宗の出仕を停止した。こうなると村宗も覚悟を決める。
「こうなったら義村様と一戦交えてやろう。我らがいない赤松家など張子の虎だ」
一方の義村もこの機会に浦上家の勢力を削いでやろうと意気軒昂である。
「ちょうどいい。ここで私の力を見せつけ赤松家を盛り立てるのだ。村宗はその生贄になってもらう」
こうした動きに赤松家の家臣たちは分裂した。村宗の権力を気に入らない者たちはこぞって義村の下に集う。一方義村の新体制に反発を抱いていたものは村宗の支援に向かった。 そしてどちらにも属せず日和見を決め込むものも居る。実際この日和見をする者たちが一番多い。
この時の義村と村宗の戦力差は義村の方が上であった。何はなくともやはり赤松家の当主であること。そして村宗の権力を憎むものが少なくないことが理由である。
永正十六年(一五一九)義村は則職を総大将とし村宗の討伐軍を村宗の領地である備前・美作(どちらも現岡山県)に送り込んだ。討伐軍は初戦で勝利を重ねて村宗を追い込んでいく。この結果に居城で吉報を待つ義村も満足げであった。
「これで村宗も終わりだ。赤松家の、私の武名は天下にとどろくだろう」
勝利を確信している義村。だがその確信は一転覆ることになる。
則職率いる討伐軍は当初優勢であった。そうなると則職も村宗に降伏を勧めるようになる。もとより温厚で争いの苦手な男であった。
「今のうちに義村様に謝れば浦上家の命脈は保てよう。拙者も口添えするから降伏してはくれないか。たのむ」
これに対して村宗はこう返す。
「今は降伏できぬ。義村様より身の安全が保障されたら考えよう」
好意って村宗は時間を稼いだ。義村が自分を許さないだろうと踏んでのことである。この時村宗の家臣宇喜多能家が出陣して討伐軍を錯乱していた。また義村に反発する国人達などの終結も進む。これには裏で洞松院が動いていた。
「義村では赤松家は立ち行かぬ。もはや隠居させて妾と村宗で実権を握るべきじゃ」
洞松院は村宗の支援を秘かに決意し義村に気づかれぬよう家中をまとめたのである。これにより一部の有力な家臣は義村の討伐軍に加わらなかった。
こうした動きは義村の知らぬうちに進んでいる。そして気づいたときには手遅れであった。なかなか進まぬ村宗討伐の動きにさらなる増員を行おうとしたが有力な家臣は動かなかったのである。
「まさか皆、村宗に抱き込まれていたのか。いやそれだけではない。おそらく洞松院様も…… なんということだ」
嘆く義村であるがどうしようもない。この時戦力を立て直した村宗が一転反攻に出たのだ。長く続く戦いに疲弊していた討伐軍はひとたまりもなく敗れた。
この事態に焦る義村。すぐさま立て直しを図るが従順であった小寺家は壊滅的な被害を受けていて動けない。周りにいる側近たちもみな大した軍事力はなかった。
そうこうしているうちに村宗が播磨に攻め込んできた。この段階で義村に味方する者はほとんどいなくなってしまっている。そんな義村の下に洞松院がやってきた。そしてこう告げる。
「才松丸に家督を譲って隠居なされよ。さすれば命まで取らぬと村宗は言っておる」
義村を見下ろすように洞松院は言った。もはやこれを飲み込むしかないことは義村も理解している。しかし呑み込めなかった。そんな義村に洞松院はあきれたように言った。
「この期に及んでなにも理解できぬのなら其方を選んだ妾の見込み違いじゃな」
これを聞いた義村の顔には薄ら笑いが浮かんだ。そんな義村の様子に首をかしげる洞松院。そんな洞松院を見上げながら義村はこう言い放った。
「まったくもってその通り。ならば私の子を操ったところでどうせ別の争いが起きましょう。あなたでは浦上家を抑えられませぬ」
これに対して洞松院はあきれたように告げる。
「何とでもいえばよい。其方に任せるよりは大いにましじゃ」
そう言って洞松院はその場を去った。義村の顔にはまだ笑みが浮かんでいる。
「(此度の戦、私に味方したものも少なくない。村宗を憎むものも多い。ここでまだ終わりではないぞ)」
永正十七年(一五二〇)の一一月に義村は村宗の要求を呑み隠居した。家督は嫡男の才松丸が継ぎ、洞松院が後見し村宗が支えるという体制になる。だが義村はあきらめていなかった。
「まだ私に味方するものも居る。切り札もある」
この後すぐに義村は行動を起こす。だがそれが悲劇を呼び込むことになった。
年が明けて永正十八年の正月義村は行動を起こした。保護していた亀王丸を奉じて挙兵したのである。隠居して間もないこの義村の行動に赤松渦中は騒然となった。何より将軍の候補である亀王丸を奉じての挙兵であったため、家臣たちも大いに去就を迷うことになる。
「この騒ぎに乗じて村宗を討つ。そして流れを一気に私の下に引き戻すのだ」
この素早い行動は村宗方を大いに動揺させた。二か月前に決着がついたはずなのにまた戦いが起きたのである。しかも亀王丸を奉じているということも動揺を誘った。
しかし義村の目算はすぐに外れることになる。第一にあまりに急な挙兵であったため義村に味方する者たちも集まらなかったこと。そして第二に村宗と洞松院は冷静に対応したということだった。
村宗は側近とそれに率いられる兵だけを率いて義村の挙兵を制圧しに行った。そして洞松院は才松丸を奉じて家中の動揺を治める。
「義村殿は乱心なされた。だが今の赤松家の主は才松丸。亀王丸様を奉じているからと言って従う必要などない」
この洞松院の一喝で赤松家家中の動揺は収まった。そしてそのころには村宗が義村の軍勢と交戦。やがて洞松院の命で援軍も来訪したため、一気に義村は不利となった。
「こうなったか。これも私の無力さということだろう。ならば潔く戦って死ぬか」
共に挙兵した側近たちもその気のようである。ただ義村には一つだけ懸念があった。
「村宗も洞松院様も亀王丸様に何かするとは思えないが…… 」
亀江王丸を奉じて挙兵した義村であるが、義澄に託された手前この戦いで死なせるようなことはしたくなかった。亀王丸も何かにつけて面倒を見てくれている義村を気に入っており最期まで戦いに参加するつもりである。
「この方を負けるに決まっている争いに巻き込みたくはないな」
そんなことを考えている義村の下に洞松院から使者が来た。なんでも村宗は亀王丸の引き渡しを条件に和睦をすると言っているらしい。
「ふむ、そうか。ならば受けよう。生きていれば道はあるか」
和睦など受け入れるはずないと思っていたが幸いである。うまく生き延びてもう一度再起もできるだろう。何なら播磨から逃れて別の途を探すのもよい。そう義村は考えた。
だがこれは全く甘い見通しであった。義村が和睦の締結の席に出向くとそこで村宗の手の者に捕らえられたのである。
「謀ったか村宗。洞松院様もか。まあ当然のことか」
捕らえられた義村は播磨の室津城に幽閉された。そしてその年のうちに暗殺されてしまう。刺客を放ったのは村宗。おそらく洞松院も関わっていたといわれている。ともかくこれで赤松義村の人生は幕を閉じたのであった。
そのあとの赤松家の話を少ししよう。この後村宗は赤松家で確固たる権力を得た。その権力は洞松院を凌ぐものとなる。結果洞松院の影響力は薄れ表舞台から消えていった。
「妾のできることはここまでか。義村の言う通り村宗を御することはできなかったか」
村宗は赤松家を万事取り仕切り中央政局にもかかわる。しかし高国と細川澄元の遺児晴元との争いに参加した際、元服した才松丸、改め政村に裏切られた。
「まさか父の仇を討つとでもいうのか。私が死ねば赤松家がどうなると思っているのか」
村宗はその戦で戦死した。その後政村と村宗の遺児との間での抗争が続くことになる。そうして赤松家は衰退していった。
義村の時代の前後の赤松家の内紛はすさまじくこれは弱体化するのも当然だろうといった感じです。また義村と対立した村宗には二人子がいましたがこの兄弟も後々争うことになります。そして浦上家も家臣の下克上にあい衰退していくという有様です。なんというか戦国時代の無常と混迷を濃縮したかのような姿ですね。
さて次に話の主人公は徳川家康の家臣です。家康どころかその二代前から仕えているという人物が主人公となります。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




