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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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赤松義村 飛べない鳥 前編

 播磨(現兵庫県)の武将赤松義村の話。義村は分家に生まれたが本家の婿養子になった男である。一見栄達に見えるこの出来事は、義村の人生を狂わせることになる。

 赤松家は足利幕府初代足利尊氏に味方し活躍した家系である。播磨(現兵庫県)を中心として複数の領地を持つ大勢力であった。しかし後年当時の将軍足利義教を暗殺してしまう。これにより幕府の追討を受け一時滅亡した。

 そんな赤松家を再興したのが赤松政則であった。政則は良く言えば勇猛、悪く言えば思慮の足りない男である。見栄を気にする性分もあり気位も高い。滅亡した赤松家の再興を行えるほど精力的に活動したが無理な攻めが祟って敗北したこともある。その時は重臣の浦上則宗が幕府に

「政則様は国主の座にふさわしくありませぬ」

と申し出て一時追放されかけることもあった。

 それでも政則は則宗ら家臣の助けもあり赤松家を再興しその勢力を全盛期並みに持っていった。そして時の管領である細川政元の姉を妻に娶り幕府との大きなつながりを得る。そして朝廷から従三位の位を授けられた。

「この俺にふさわしい位がやっと手に入った。これで赤松家もますます大きくなるだろう」

 喜んだ政則であるがこの二か月後に急死してしまう。そして跡を継いだのが赤松義村であった。この義村も波瀾万丈の人生を歩むことになる。


 義村は政則の実子ではない。分家の七条家の出身であった。そして政則には男子がいなかった。子は先妻との間に生まれた小めしだけである。そこで分家の義村を小めしの婿として迎え入れたというわけであった。

 ところが政則が急死してしまった。そして家督を継承する予定の義村はまだ成人していない。当の義村本人もまだ覚悟もできていなければ当主としての務めなど右も左も分からない有様であった。

「わたしは政則さまの跡を継げと言われた。しかしいったいどうすればよいのか」

 当時の赤松家は幼い当主がどうこうできる家ではない。当時の赤松家は政則を支えた重臣たちが力を持ち当主の権威を凌ぐほどである。

 この緊急時にまず動いたのが重臣筆頭の浦上則宗であった。則宗は義村の支持を表明して幕府や家中にも義村の家督相続を認めさせている。

「義村様は政則様が選んだ正統な後継者。あとを継ぐのに何の問題もありはしない。我らが支えればよいだけだ」

 こう表立って発言しているが本心はいささか違う。その本心は幼い主君を立てていよいよ実権を手にしようというものである。

「政則様の存命の頃から赤松家は儂が差配してきたのだ。これからは儂の一族が赤松家を動かしていく」

 そんな野心を隠して義村を支持していたのである。尤もそんなことは誰が見ても明らかであった。そのため則宗と同族の浦上村国が別の後継者を擁立した。

「義村様は幼い。この危機を脱するために我らは赤松勝範様を擁立する」

 むろん村国が勝範を擁立したのは己の為である。則宗の権力が増大するのを防ぎ、あわよくば自分が筆頭の重臣になろうという考えである。

 ともかくこうして則政が亡くなってから赤松な内部での対立が生じてきた。だがここでさらに別の動きが生まれる。

 動いたのは重臣の別所則治であった。

「義村様が家督を継がれるのに文句はない。しかし義村様がまだ幼いのは事実だ。ここは洞松院様に義村様の後見をしていただき、しばらくは赤松家を差配してもらってはどうか」

 洞松院めしは政則の後妻であり先に記した細川政元の姉である。先妻の子である小めしとは血がつながっていない。赤松家に己の血のつながりのある人はいなかった。それでも権力を持っていたのは管領の細川政元の姉であるという事。そしてもう一つは洞松院自身がすぐれた能力を持つ女傑であったということであった。

「この状態をうまく治めるには義村に家督を継がせそれを幕府に認めさせること。そして則宗に抗することのできるものを家中に立てること。この二つじゃ」

 洞松院は則治の考えに乗った。ただ便乗しただけでなく自分が出ることで赤松家内部の争いの調停を円滑に進めるためである。洞松院としては則宗の権力がこれ以上増えることは望まないが、則宗の優秀さも必要としていたのだ。この相反する事情をどちらも叶えるために洞松院は則治の誘いに乗ったのである。


 洞松院が動き出したことで赤松家の内紛は終息に向かいつつあった。義村を洞松院が後見するという構想は多くの赤松家臣に受け入れられるものである。特に幕府の実力者である細川政元との強力なつながりができること、則宗の権力の伸長を抑えながらもその力量を生かすことが出来る体制であること。この二点が特に受け入れられたのである。

 則宗も自分をけん制したいという思惑は読み取っていた。しかし何も言わず則治の構想を受け入れている。この時思いのほか村国と勝則の直接攻勢が強く劣勢であったのも理由の一つであった。だが則宗には別の思惑もある。

「(洞松院様を敵に回せば家中の多くのものを敵に回す。そのようなことをすれば今の勢力すら失いかねぬ。まあ洞松院様も儂の力を必要としている。則治もそうだ。ここはひとまず飲み込むとしようか)」

 ここで欲を出して破滅するような真似をする則宗ではない。ともかくこれで則宗方と洞松院、則治方が手を組んだ。これにより状況は一気に義村擁立派に傾く。それまで日和見を決め込んでいた重臣たちもこぞって義村の擁立を認めたのだ。そして同時に洞松院が後見することも決定する。義村に不安を持つ者たちも洞松院の後見があれば問題なく則宗の権力の伸長を阻めるとなれば否やはなかった。

 こうして赤松家家中の意見は統一されていく。それでも村国は勝範の擁立をあきらめず抵抗したが、赤松家家中の大半を敵に回してはどうしようもない。今度は逆に攻撃を仕掛けられ追いつめられる始末であった。

 こうして勝範と村国は追い詰められた。則宗は村国を討ち取ってしまおうと考えるが、そこで洞松院からの待ったがかかる。

「これ以上の戦は無用。村国の罪を許して争いを収めるのじゃ」

 これに則治も賛同し則宗にこう言った。

「貴公が戦を続けたければ続ければいい。我らはもう引き揚げさせてもらう」

 そう言って他の者たちと共に引き揚げてしまったのである。こうなるも則宗も村国を討つことをあきらめた。

「これ以上戦えばわが身が滅ぶか。まあそれでよい。村国ももう立ち直れぬだろう」

 則宗は村国への攻撃を中止し自身の城に引き上げた。この時まだ村国は戦うつもりであったが、ここで管領細川政元からの和睦の勧告がもたらされる。洞松院が政元に要請していたのだ。

「赤松家は我らに連なる者たち。これからも私を助けてもらいたい。そのためにも和睦をしてもらいたい」

 こうなっては村国もあきらめざる負えなかった。

 こうして赤松家の内紛はひとまず収まる。この時義村は小めしと共にただただ事の激動に戸惑うばかりであった。

「私は何のためにここにいるのだろうか」

 そんな疑問が思わず口から出る。だがそれに答えてくれるものが誰もいない。


 赤松家の内紛が終息し義村はいよいよ当主となった。だが手にしている権限はほとんどない。何か決める際には必ず洞松院の許可を受け家臣たちの承認も得なければならない。

「これよりは妾が其方を後見しよう。万事任せるがよい」

 そう堂々と言う洞松院。義村はこの義母が苦手であった。

「(洞松院様は恐ろしい。取って食われてしまうのではないか)」

 義村の背丈は少し低い。だがそれとしても洞松院とは身長差があった。それだけ大柄な女であったということである。そして目つきは鋭く眉もその強い意志を示すかのように太い。他の顔の造作も正直厳ついと言ってよいものであった。そんな女性に見下ろされているわけだから、体格は細くそれに見合うような大人しい気性の義村はいちいち恐縮してしまう。

「しょ、承知しました。お頼み申します」

 そう言うのが精いっぱいである。だがこの返答が洞松院の気に障った。

「其方は武家の主なのだ。そのように弱弱しく返事をしてはいかぬ」

 強く低い声でたしなめる洞松院。これを家臣の前でもやられるのだから義村の面目は家中であってないようなものであった。無視されるようなことはないが重要な議題を持ちかけられることは一切なく家臣たちの話し合いで進む。義村の参加できるような会議で何か発言しても洞松院にたしなめられた。

 一応洞松院は義村に当主としての教養などを教えようとした。義村も素直に学んでいったがそれは信頼関係や情なのではなく恐怖心からくる行動である。義村は教養や知識を会得していったが洞松院との信頼関係は成り立たない。

「私はいつまで洞松院様の陰にいなければならないのか」

 そうした不満は当然芽生えた。しかしそれを口に出せるほどの勇ましさは義村にはないのである。結局鬱屈した感情が義村に蓄積していくだけであった。


 義村が家督を継いでから三年後の文亀二年(一五〇二)浦上則宗がこの世を去った。享年七四歳。当時としては相当の高齢で死ぬまで権力の座に居座り続けた。ある意味で傑物であったといえるだろう。

さて浦上本家の家督は則宗の養子(嫡男は政則の次代に戦死してい)の祐宗が継いだが翌年に急死してしまう。そのため分家で備前(現岡山県)の守護代職を務める浦上村宗が本家の名跡ごと継ぐことになった。村宗は則宗に勝るとも劣らない器量だと言われている。そしてその野心も則宗と同様であった。

「今でも赤松家は浦上家なしでは立ち行かぬ。この先もそうであるべきだ。しかしそれを成すには慎重に動かなければならない」

 則宗の跡を継いだ村宗は洞松院やほかの重臣たちと協調する方針を取った。則宗はその権勢を警戒されたが村宗も同様の目で見られている。無論村宗もそれは分かっているので大人しくしていた。尤も現段階でも浦上家の権力は赤松家の中で最大のものであるのだが。

 兎も角こうして世に出た浦上村宗は義村の人生に大きな影響を与える存在であった。もっともそれをまだ義村も知らないが。


 洞松院の後見を受けながら義村は何とか家を保った。尤もそれは洞松院や重臣たちの奮闘のおかげで義村の器量によるものではない。それは義村自身分かっている。

 そんな中で永正四年(一五〇七)畿内近国を激震させる事態が起きた。管領細川政元が暗殺されたのである。将軍を除いた幕府の最高権力者が暗殺されるという前代未聞の事態は大きな混乱を招き後に禍根を残していくことになる。

 この事件は当然赤松家にも衝撃を与えた。洞松院の弟である政元は現赤松家の体制の後ろ盾である。その政元が死ぬとなれば衝撃を受けるのも当然であった。

 重臣たちは義村、洞松院を交えて今後のことを協議する。その中で洞松院は真っ先にこう発言した。

「政元が死のうとも細川家がなく割るわけではない。家も管領の座も養子の澄元が継ぐだろう。我らは何も動ぜず細川家とのかかわりを続ければよいのじゃ」

 この発言に誰も異を唱えなかった。確かにこの衝撃的な事件は様々な影響をもたらしているが別に細川家が亡くなるわけではない。それに跡を継ぐ予定の澄元の実家とは赤松家もつながりがあった。ある意味好都合ともいえる。

 ところが事態は急変してしまう。というのも政元の養子の一人である高国が細川家家督と管領の座の継承をねらって動き始めたのだ。高国は政元暗殺の実行犯を討伐しているという実績がある。そしてさらに政元に追い出された将軍足利義稙を呼びだし後ろ盾にしたのだ。むろんこの高国の動きに現将軍足利義澄も反発する。結果義澄、澄元方と義稙、高国方の争いとなった。この争いに当然赤松家は義澄、澄元方に付く。洞松院が強く主張したし重臣たちはこの時も反対しなかった。

 ところがこの両者の争いは義稙、高国方の勝利で終る。最後の決戦である船岡山の合戦に義村は参戦していた。

「このような決戦に参陣することになるとは」

 義村は珍しく興奮して勇躍している。だがいきなり予想外のことが起こった。義澄が急死してしまったのである。もともと体の弱い義澄は戦の前に京を追われていたがそれによる心労で心身を衰弱させてしまったのだ。

 義澄には男子が二人いた。何を思ったか義澄は長男の亀王丸を義村に預けている。

「赤松家に預ければ心配ない。私はそう信じている」

「それは……ありがたき幸せにございます」

 思いもがけぬ義澄の行動に心打たれる義村。しかし義澄は死に義村も奮闘するが敗北した。そもそも敵方には西国の雄大内義興が大軍を率いて参戦していたため勝ち目は最初からなかったともいえる。澄元も本拠地のある四国に退去した。

 戦後洞松院は高国に謝罪し赤松家は何の罰を受けることもなかった。これにより洞松院の声望は高まる。しかし義村は内心不満であった。

「そもそも洞松院様が決めたことではないか。出向いて謝ることなど当然のことだろう。それを見事だと褒めるのはおかしいのではないか」

 この時義村は義澄の遺児を任せられたことで気が大きくなっていたのかもしれない。ともかく積年のうっ憤もあり義村の胸の内に洞松院への不満が大きくなっていったのであった。そしてそれはこの後に大騒動を引き起こす。


 今回の主人公赤松義村の人生を語るうえで外せないのが洞松院です。彼女の来歴のおおよそは作中の通りですが、実際は彼女もなかなかの人生を歩んでいます。ただなんにせよ義村の後見として赤松家を取り仕切ったのは事実で女戦国大名ともいわれる人物であります。後々ある事件に加担するのですが、個人的にはえげつなさを感じています。ただそうした面も含めて傑物と言っていい人物だと思いますね。

 さて次の話からはいよいよ義村が主体的に動き出します。しかしそれが赤松家に騒動を引き起こすことになります。果たして義村を待つ受ける運命とは。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では


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― 新着の感想 ―
いつも楽しく読ませていただいてます。 ただ今回は、誤字と固有名詞の並列が凄い量で、政則が頻繁に則政だったり、洞松院と大めしが同一人物であることが説明されていなかったり、洞松院の名前がめしということが…
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