戸田康光 選択 後編
松平清康の死後紆余曲折あり今橋城を攻め落とせた康光。しかしその野心はとどまることを知らない。だがその野心が結果としてとんでもない事態を引き起こす。
天文十年(一五四一)松平広忠が妻を娶った。妻の名は大。尾張知多郡の領主である水信元の妹のである。
この一報を聞いた康光は少し不機嫌であった。
「知多には戸田家の一族もいる。水野家とは争う関係だ。その者たちと縁をつなぐとは。松平家も何を考えている」
康光からしてみれば敵ともいえる家と松平家は婚姻したのだから不機嫌なのも当然である。もっとも松平家には松平家の立場があった。何より今松平家は尾張の織田家の圧力を受けている。これを凌ぐためにも水野家の助力を得たいという思惑があった。ゆえにこの婚姻に至ったのである。
さらに康光が色々調べるとどうも水野家は牧野家とも連絡を取っているようだった。
「水野家め。我らを排除するために動くつもりか」
今のところ両家の領地は隣接していない。康光の本家と水野家が争うということはあまり考えられなかった。だが警戒は必要である。
「我らとしては今川家との連携を強めるべきか」
当面の康光の目標は変わらず牧野家の排除である。水野家の動きは気になるがそこは後でいいと判断した。
しかしこの婚姻に絡む動きが思いがけぬ事態を引き起こすことになる。
広忠が婚姻した頃の松平家は常に不穏な空気をまとっていた。というのも広忠の復帰で一応収まった松平家一族の対立が表面化し始めたのである。特に近年は織田家の進出が顕著でそれも一族間の対立を加速させたのである。
そんな中で天文十二年(一五四三)広忠の伯父の松平信孝が織田家に寝返った。広忠は信孝を頼みにしていたが松平家の家臣団は信孝を警戒した。そうした関係性の軋轢から信孝は織田家への寝返りを決意したのである。そしてこの動きが翌年の天文十三年(一五四四)別の問題を引き起こす。水野家が織田家に寝返ったのである。そしてそれに伴い広忠は大と離縁した。
この動きを康光も把握していた。康光から見てこの動きはうなずけるものである。
「水野家との婚姻を推し進めたのは信孝殿。その信孝殿が織田家に寝返って信元殿も面目を失ったのだろう。そして織田家に寝返ったというわけか」
広忠と大の間には子も生まれて良好な関係であったらしい。しかしこうなるのも戦国の世の習いというものである。そして康光にとっては好都合ともいえる動きであった。
「これは良い機会だ。この際松平家を抱き込んでしまおうか」
現状戸田家は牧野家と争い水野家とも争っている。ここで松平本家を味方につけて戦況を優位に進めようと考えたのだ。そしてそれにおあつらえ向きな手段もある。そのための準備を整えると、康光は娘の真喜を呼んだ。
「何でしょう。お父上様」
真喜は野心家の父とは似ても似つかぬ穏やかな女であった。しかしその芯は意外なほど強く聡明である。もっともそれに父は気づいていないのだが。
康光は真喜に言った。
「お前の嫁入り先が決まった」
「そうですか。いずれのお方ですか」
「喜べ。曽祖父の宗光様とも縁もある松平家の当主の広忠殿だ。広忠殿は先ごろ離縁して今は妻がいない。そこにお前が入るということだ」
「そうですか。それにしても広忠様にはお子はおられるのですか? 」
「ああ、いるが気にするな。お前が子を産めば跡を継げるようにこの父が後ろ盾となろう」
自慢げに言う康光。そんな父の姿に内心呆れる真喜だがそれは表に出さない。
「(お父上様はこうしたところが浅ましい。それをご理解されておられない)」
ただ真喜は自分なりに考えて婚姻を前向きにとらえることにした。
「(広忠様もお子も悲しんでおられましょう。こうなった以上は私が精いっぱい支えましょうか)」
こうして康光の娘の真喜が松平家に嫁ぐことになったのである。
広忠と真喜の婚姻は滞りなく進み三河一帯は今川家の勢力下となった。これで戸田家も万々歳と言えるのだが、康光は不満を抱えている。というのも牧野家が今川家に降伏してその傘下に入ったのだ。牧野家の領地はそのまま保持され戸田家も牧野家を攻撃できない。
「今川家は我らに何の恨みがあってこのようなことをしたのだ。納得できぬ」
怒る康光。もっとも今川家の立場からしみてれば、勢力圏に置いた三河の内内で争いを続けられるのは問題がある。また牧野家は清康亡き後今川家への降伏を申し出ていた。しかし今川家は松平家に降伏したことを理由にはねのけていたのである。その後今橋城を戸田家に奪われるという事態が起きた。今川家も東三河の戸田家の勢力が大きくなりすぎるのも面白くないのでここで牧野家を迎え入れ、戸田家を抑えようと考えたのである。
もっとも今川家としても戸田家が水野家など織田家に従う勢力との戦いに臨むのは気にしていない。今川家としてはこれを機に戸田家に今川家の傘下の武家として歩みだすのを期待しているのである。松平家との関係性もあって粗略に扱うつもりもなかった。
だが康光はそれでも不満である。
「松平家を味方につけられたのはいい。しかしこのまま今川家にいてもどうしようもないのではないか」
日に日にそんな不満を募らせていた。尤も大勢力である今川家を裏切るような真似をすればただでは済まないことも理解している。ただここで大人しく従うのではなく今川家に逆らう手段を模索してしまうのが戸田康光という男であった。
「今川家に対抗できる勢力というとやはり織田家か。しかし我が領地は織田家と距離がある。間には松平家がいるからな。それをどうにかすれば」
そんなことを考える康光。だがここである指令が康光に下された。それは広忠の嫡男の竹千代を今川家の本拠である駿府まで護送しろというものである。織田家との最前線にいる松平家から人質を取るのは不思議な話ではない。そしてその護送の担当に選ばれたのが康光なのも広忠の舅なのだからおかしい話ではなかった。
康光は即座にこの指令の準備に移った。しかしそれと同時にある計画を進める。
「これで松平も織田家に従うようになる。そうなれば今川家も恐れる必要はない」
この計画が戸田家の運命を決めることになる。
天文十六年(一五四七)康光は岡崎からやってきた竹千代一向を迎え入れた。
「よくぞ参った。竹千代よ。あとはこの康光に任せるがよい」
「承知しましたおじい様。よろしくお願いします」
竹千代は大人しく折り目も正しい少年であった。血のつながらない祖父にも丁寧に挨拶する。康光も竹千代の態度に満足げである
「これより船で駿府へ向かおう。供の者たちも船に乗るがよい」
そう言って康光は竹千代の供たちを船に乗せた。だが竹千代の船に乗った供の者は僅かであとは戸田家の家臣で固められている。これに疑問を感じるものも居たが康光はさっさと船を出してしまった。これには竹千代も不信を覚える。
「おじい様。皆と離れてしまっています」
「何、心配することはない。其方の命に何の危険もないのだ」
やがて船は二手に分かれた。康光と竹千代とわずかな供、そして戸田家の家臣が乗った船は西に進んでいく。一方竹千代の供としてやってきていた松平家の家臣たちの船は引き返していった。そして海岸には戸田家の兵が多数いる。ここで松平家臣たちは自分たちが陥れられたことを知った。
一方船上の竹千代は驚くほど落ち着いていた。そして一言康光に尋ねる。
「私をどこに連れていくおつもりですか」
これに康光は
「すぐにわかる」
とだけ答えた。
やがて船はどこかの岸が見えてきた。そこには完全武装の侍と兵たちが並んでいる。これにさすがの康光も緊張する。
「(まさかここで私も討つつもりなのか)」
緊張する康光。一方竹千代は変わらず動じていない。
やがて船が岸につき侍たちが近づいてくる。その中の大将と思しき男が言った。
「竹千代君はそちらか」
「ああ。そうだ」
康光は強がりながら竹千代を差し出した。竹千代は一切怯えず真っすぐに大将の侍を見ている。その竹千代の様子に侍は満足げにうなずいた。
「なるほど。清康殿の面影がある」
そう言ってから康光に言った。
「貴殿は船で引き返されよ。約定は果たされた。何も心配することはない」
「む、むろんのことだ」
康光は竹千代と供の者を残して船で去る。そして暫くしてほくそ笑んだ。
「これで良し。これで織田家も我らを受け入れる。息子を人質に取られた松平家も織田家につくだろう。これで万事うまく行った」
己の策の成功を確信し喜ぶ康光。しかしここから事態は予想外の方向に進む。
竹千代が織田家に引き渡された、しかもそれを康光が行ったということはすぐに広忠の耳にも入った。伝えてきたのは康光の船に同情していた松平家の家臣である。そして康光からの口上も広忠たちに伝えた。
「こうなった以上は我らと共に織田家に味方するがよい。とのことです」
そう沈着に言うがその表情には悔しさがにじんでいた。目の前で主家の後継ぎが連れていかれた上にこのような伝言を託されたのだから当然であろう。
この時、真喜もその場にいた。広忠以外のその場にいた大半が真喜を睨みつける。しかし真喜は睨みつけられながら泰然と言った。
「父上の…… いえ、康光殿の言うことを受け入れてはいけませぬ」
これにその場がどよめく。動じていないのは広忠だけであった。真喜は広忠に平伏してこう言った。
「私の父にあたる者がこのような不始末をしでかしました。慙愧に耐えませぬ。しかしこれにより今川家は戸田家に大いに怒りましょう。そんな家と運命を共にしてはいけませぬ」
この真喜の発言に広忠は大きく頷いた。そしてこう宣言する。
「真喜の言うとおりだ。織田家は竹千代を手に入れ我らを従えようとしている。しかしそれを受け入れたところで今川家に攻められるは必定。だがその時に織田家の援軍が来る保証はない。それに従わずともそうそう簡単に竹千代を害することはできない。それをすれば我らを戦わずして従えることが出来ないからだ。まずは今川家との縁を重んじ共に戦おう。さすれば竹千代を取り戻す機は必ず訪れる。それまで我ら一丸となって織田家と闘うべきだ」
広忠は高らかに言った。竹千代のために織田家につけば今川家と闘うことになる。その時生き残れる可能性は限りなく低い。一方このまま今川家の下にいれば確かに竹千代の身に危険が及ぶ可能性はある。しかし人質は生きていてこそ価値があるのだ。そこを考えればたとえ敵対しても竹千代がすぐに殺されるようなことはない。そう広忠は考えたのである。
むろんその考えの通りに行かない可能性も大いにあった。しかし広忠の決意は固い。それを汲んだ松平家の家臣たちも広忠の決断を支持したのである。
こうして松平家は織田家の降伏勧告を拒否し戸田家とも断絶した。これにより康光の目論見は完全に破綻する。
竹千代が織田家に連れていかれたということは今川家にも知らされた。これを聞いた今川家当主の義元は意外なほど怒らなかった。というかむしろ呆れ果てている。
「このような馬鹿げたことをしでかすとは。まさか織田が戸田の者どもを命がけで守ろうなどと思うはずもない。何よりこのようなことをしでかしては織田からも信頼されぬであろうに」
一方松平家が裏切らなかったことには大いに喜んだ。
「広忠め。なかなかに骨があるのう。ひ弱そうに見えたがなかなかに清康殿の血を濃く受け継いでいるようじゃ」
実はこの時義元が喜んでいたのはもう一つ理由があった。
「それにしても広忠の嫁はなかなかのものらしいのう」
この時松平家から伝えられたことの一つに戸田家の情報もあった。これは真喜が知る限りのことを広忠に伝え、さらにそれを義元に伝えたのである。戸田家の居城である田原城の情報も多くあった。
「もはや生家との縁も切ったという事か。まああの父親では仕様がないか」
そう言ってから義元の表情が一気に変わる。そして高らかに言った。
「これより我らを裏切った戸田家を攻める。この義元を謀ったことを後悔させてやろうぞ」
義元の号令ものもあっという間に出陣の準備が整った。そしてすぐに田原城に向けて出陣したのである。
康光は今川家が攻め込んでくるという話を聞いても動じなかった。予想の反中だったからである。
「裏切った以上こうなるのは当然のことだ。しかし今我らには織田家がいるのだ。そして松平家もいざ織田家が動けば我らに味方するだろう」
この時点でも康光は松平家が今川家を離反するだろうと考えていた。そのための手を打ってそれが必ずや成功すると信じていたのである。
ところが現実は無常であった。織田家から援軍を送れないとの返事が来た。そしてその理由は松平家が今川方として抵抗しているからだという。これを知って康光は一転して大いに慌てる。
「広忠は息子の命が惜しくはないのか。だがこれはまずいぞ。なんとしてでも松平家を翻意させなければ」
康光の構想は松平家の離反を前提としている。それがうまく行かなければすべてが破綻するに決まっていた。
「とにかく真喜に使者を送ろう。なんとしてでも広忠を翻意させるのだ」
急ぎ康光は真喜に使者を送った。広忠を説得してもらおうと考えたのである。しかし戸田家の使者はつき返されて帰ってきた。
「真喜様にお会いすることもかないませんでした」
「何だと!? 真喜め。父を見捨てるというのか」
そもそもの発端は康光の無道である。それを棚に上げて康光は怒った。さらにこの時二連木城の城主であった康光の次男、宣光も康光から離反して今川家に味方した。宣光には真喜から戸田家を離反するよう促す書状が届いていたのである。
「父上も粗忽な真似を。まあ俺が生き残れば戸田家は絶えぬ。父上や兄上に悪いが」
宣光の離反もあって田原城はあっという間に今川家の軍勢に包囲された。しかもそのわずかな間に城の将兵から逃げ出すものも少なからずいたのである。もはやろくに戦えない状況であった。
「私はどこで選択を間違えたのだ。私の何がいけなかったのだ」
嘆く康光であるがもはやどうしようもない状況であった。今川家の攻勢にあい田原城はあっという間に落城する。無論康光も討ち死にであった。
こうして戦国時代の領主、大名としての戸田家は滅亡した。しかし宣光の家系は存続している。また田原城の落城の寸前に康光の弟の光忠が松平家に逃れたのでこちらの家系も生き残った。光忠の家系は松平家とそのあとを継ぐ徳川家によく仕え、最終的に田原城に復帰している。
竹千代こと徳川家康は今川家の人質に向かう際に騙されて織田家に送られた、というのは良く知られている話です。ところが近年の研究でそれは間違いではないかともいわれています。というのもこの時戸田家と松平家が同盟して織田家と今川家と争い破れた結果竹千代が織田家に送られた、という流れなのではと言われているようです。実際戸田家と松平家は婚姻関係にあたるわけですからそれほど不思議ではない話ではあります。とは言え今回は一般に知られている流れを基にしました。その方が面白いかなぁと思った次第です。ご容赦を。
さて次の話は戦国時代初期の播磨のある武将が主人公です。お楽しみに。
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