細川氏綱 解呪 第十三章
長慶が政長に勝ったことで京に入ることが出来た氏綱。しかしそこで実感したのは自分に何の力もないという現実であった。現実を知った氏綱はどんな選択をするのか。
天文十九年(一五五〇)の三月、伊丹親興が降伏し摂津は平定された。これで畿内の晴元派の勢力は大半が沈静化したといえる。尤も近江や京の付近では相変わらず晴元が蠢動していた。同年の五月には義晴がこの世を去ったが息子の義藤は長慶への敵対心を露わに京への帰還をうかがっている。
さて伊丹親興の降伏の際仲介役を務めたのは遊佐長教であった。長教は政長との戦いの際に目立った活躍が出来ず長慶の後塵を拝す形になってしまっている。しかし親興を降伏させた功で雪辱を果たせた形になった。
「長教殿もやっと気を取り直してくれたか。今後は畠山家一丸となって私を支えていただきたいものだ」
氏綱としては昔から恩義のある長教である。その正道邪道を合わせた知略に何度助けられたかわからない。畠山家もかつては管領を務めていた家であり氏綱としては今度も助け合いたい間柄であった。ところがその畠山家で問題が発生していた。当主である畠山政国が紀伊で隠遁してしまったのである。というのも政国は兄の植長同様氏綱支援の方針を取っていた。しかしこれは長教に畠山家の実権を握られていたからでありその本心は複雑であるし不満も抱えている。
「長教は兄の遺志を継ぐと言って家臣達を抱き込んでいる。私は飾り物だ。全く面白くない。しかし畠山家が大きくなるのならばそれでも良くはある」
そんな政国であるが一つだけはっきりと意思表示していることがあった。それは幕府や将軍とは敵対したくないということである。
「畠山家は管領も務めた名家だ。その名がある限り公方様に歯向かうことなどあり得ぬ」
長教もこれはある程度尊重していた。それもあり義晴とつながっていたのである。義晴も晴元に不満を感じていたので両者の利害が一致していたわけだ。
ところが長慶と政長の戦いの結果晴元が義晴義藤親子を連れて近江に逃れたのである。結果長教が味方する氏綱と長慶は将軍と敵対することになった。これには政国も怒る。
「公方様に歯向かうことだけは許さぬと言っていたではないか。なぜこのようなことになる。長教よ」
長教を怒鳴りつける政国。しかし長教の反応は冷淡であった。
「その怒りは晴元様に向ければよろしい。我らには何の責もありませぬ」
これには政国怒りのあまり二の句が継げなかった。他の家臣たちも長教を支持していたので結局黙るしかなくなる。そして政国はこの怒りを行動で示した。
「もはや畠山家に私の居場所はない。さらばだ」
そう言ってわずかな供だけ連れて紀伊に隠遁してしまったのである。あとは政国の息子の高政が継いだが、この事件で畠山家に大分動揺が走る。長教を批判する声が相次いだのだ。
この畠山家の情勢の変化を知った氏綱はどうにか事態の収拾を図ろうとする。
「ひとまず長教殿を我が手元に置き高政殿と今後のことを話し合いたい」
これに長慶も同意した。だが晴元や義藤との戦いで機会が設けられず天文二十年(一五五〇)になった。この年の九月に氏綱は衝撃的な事実を知る。
「長教殿が亡くなっていた? もう三月も前に? 」
畠山家から長教が亡くなったと連絡が来たのである。しかも百日ほど前のことらしい。長教は高屋城内で暗殺されたのだという。詳しい経緯は不明であるが長教に敵対する何者かの計略らしい。高政はこの緊急事態を収拾するために長教の死を百日ほど秘匿することにしたようだった。
報せを聞いた氏綱は絶句するしかない。終生の恩人と呼ぶべき男があっさりと知らぬ間にこの世を去ってしまったのだから。
長教の死の少し前に二度長慶が暗殺されそうになるという事件が起きていた。長慶は辛くも苦難を逃れて生存している。むろんこの暗殺未遂事件は晴元の刺客によって引き起こされたものであった。晴元は義藤と共にこの前後も攻撃を仕掛けて長慶たちを苦しめているが京への帰還は成し遂げられていない。
こうした情勢の中でも長慶は迎撃をすれども反撃して近江に攻め込むようなことはしなかった。これについては氏綱の家臣や京に残留している幕臣たちからも疑問の声が上がっている。
「何故長慶殿は近江の晴元殿を攻めないのだ。晴元殿がいなくなれば我らの殿が正式に管領なれるというのに」
「この際近江に攻め入って義藤様を奪還してしまえばいいものを。この後に及んで何を尻込みしているのか」
こうした声を氏綱は聞いている。そしてこう説得した。
「晴元殿には六角定頼殿がついている。定頼殿を相手取るには畿内の平定が不可欠だ。まずは畿内の安定を長慶は望んでいるのだ。ならば我らも京をしっかりと守ることが天下の静謐につながると思う」
この氏綱の説得で一応みな納得している。それほど六角家、退いては六角定頼という人物が評価されているというわけである。
だが氏綱は長慶の本心を見抜いていた。
「(長慶はやはり晴元殿と戦いたくないのだ。その上公方様を迎えている以上はその威光もある。将軍章句と管領の座を尊重する長慶にしてみれば戦いたくないというのが本音であろう)」
実際この見立ては正鵠を射ていて長慶の心中はまさしくその通りであった。長慶は幕府の体制と君臣の関係も重んじている。それに加えてやはり将軍への軍事攻撃というのはいささか体面的にも悪いという事情もあった。そのため長慶は晴元と義藤への攻撃を控えていたのである。
一方で長慶は将軍と管領の不在の京の行政に関しては真剣に取り組んだ。長慶からしてみれば将軍も管領も不在の京をしっかりと預かるという意思表示のようなものである。ただこれについて朝廷の公卿たちをはじめとした人々の評判はすこぶるよろしい。これは氏綱も聞き及んでいる。
「もはや幕府などいらず長慶が天下を差配すればいい。そんな話まで聞こえるな」
感心したようにつぶやく氏綱。これを家臣たちはたしなめる。
「長慶殿はあくまで氏綱様の家臣。京が平穏ならばそれは氏綱様の御威光によるものです」
「これよりは氏綱様が天下を差配されるのです。そのようなお考えはいけませぬ」
この家臣たちの物言いに氏綱は苦笑するしかなかった。実際このところの情勢で氏綱の名が最初に出ることはない。あくまで長慶に奉られているだけだという風にとらえられているのだろう。実際のところ氏綱も長慶への協力という形であるが様々なところで活動をしている。しかしそれも完全に長慶の陰に隠れてしまっているのだ。
ただそれを氏綱は嫌とは思わなかった。
「(もうそれでよいのではないのだろうか。もはや将軍も管領も天下を静謐にすることはできぬ)」
内心そう思い始めた氏綱。そして氏綱の運命を決める出来事がついに起こる。
長慶の暗殺未遂事件。そして長教の暗殺事件。天文二十一年に起きたこの二つの事件、特に長教暗殺事件は長慶の勢力に少なからぬ痛手を与えた。畿内で最大の支援者と言える長教が亡くなることで畠山家の立場も不鮮明になったのである。
こうした中で京を奪還すべく義藤と晴元は攻勢を仕掛けた。三好政勝率いる軍勢が京の相国寺に侵入したのである。この事態に長慶は家臣の松永久秀、長頼兄弟に兵を預けて徹底的に撃退した。政勝は静観したが義藤、晴元方は大打撃を受ける。
この流れを受けてか義藤と晴元を支援している六角定頼から長慶へ和平の打診が来た。氏綱のことでこれを氏綱に報告する長慶の表情には何とも言えない気まずさが見て取れる。尤も氏綱は気にしていなかった。
「これは当然のことであろう。むしろ良く報告してくれた」
「ありがたきことにございます。してどうなさいましょうか」
「迷うことはない。長慶の心にあることでよい」
「……! 承知しました。すぐに和睦の準備を進めます」
こうして和睦の話が進みだした。ただ氏綱と長慶はともかく義藤と晴元は難色を示しているようである。そして話がなかなか進まず年が明けて天文二十二年(一五五二)になった。この年の一月に六角定頼がこの世を去る。あとを継いだ義賢は義藤と晴元にこう言った。
「父上が亡きあともお二方を支えるつもりです。しかし父上が亡き後国内も色々と動きがあるので今までと同じようにお助けするというのはしばらくできませぬ」
これを二人とも重く受け止めたが答えは全く違った。晴元は六角家抜きでの戦いの方法を考え始めたが、義藤は京への帰還がますます遠くなるという事実を直視したのである。
「いつまでも将軍が御所を留守にしているわけにはいかない。そもそも将軍である私がいればいいのだ。だれが管領でも構わぬ」
義藤は態度を軟化させて和睦への賛意を示した。むろんこれに晴元は怒る。
「義藤様は私を見捨てるというのか」
怒る晴元だが、この時点で晴元以外の当事者は皆和睦に賛同していた。こうなってしまったらどうしようもない。和睦に関する協議が速やかに行われることになった。
和睦に関して氏綱は特に条件を付けるつもりはなかった。
「まずもって義藤様が帰京されること。それだけでよい。そのあとのことは私と晴元殿で話し合えばいい」
これに関して長慶もほぼ同意する。ただ晴元の性格を考えてこの一点だけは主張した。
「何の条件もないのはむしろ不信を招きかねません。少なくとも晴元様は信じないでしょう。ここは管領の座も要求するべきです。よしんばそれを晴元様が飲まなかったとしても義藤様との和睦は成立するでしょう」
「管領か……」
管領という単語が出た時の氏綱はどこか虚しそうであった。そんな氏綱の様子に首をかしげる長慶。すると氏綱はこういった。
「長慶よ。もはや管領の座に何の力もないのではないのか」
「それは…… そのようなことは」
「今天下を実際に差配しているのは長慶。おぬしだ。だとすれば天下を差配するのに必要なのは管領の座ではなく実際の力ではないのか」
「そのようなことはありませぬ。幕府の威光はいまだ残っております」
長慶の言葉に氏綱はうなずけなかった。そしてこう告げる。
「私はもはや管領の座に興味はない。天下を差配しようということなどは望んでおらぬ。むしろ長慶が万事取り仕切ってくれればそれで良いもと思っている」
「氏綱様…… 」
「私の務めはこの和睦を行い、義藤様を京に戻すことだと考えている。それが出来ればそれでよい」
どこかさっぱりした表情で言う氏綱。その表情にすべてを理解したのか長慶はこういった。
「…… 承知しました。しかし天下静謐のためには細川家の統一も不可欠です。この和睦で細川家も統一すべきでしょう」
「そうか。ならばどうすればいい」
「簡単なことです。氏綱様が細川家の当主として天下に認められ、そのあとを晴元様のお子に譲ればよいのです」
「ああ、そのようなことか。ならそれでよい」
氏綱はあっさりと受け入れた。そもそも氏綱の跡を晴元の子に譲るというのは堺での会談の時に氏綱の口から出ていた話である。別に何も疑問に思うことはない。
「しからばそれで和睦をまとめたいと思います」
「ああ。任せた」
長慶はこの条件を義賢に伝えた。義賢からは了承の返事が届く。そして和睦が成立することになった。
「これで天下も静謐になるか」
安堵する氏綱。この時点で氏綱に管領の座への執着も興味もなくなっていた。
氏綱長慶方と義藤晴元方の和睦は成立し、義藤は京に入った。そして晴元の息子聡明丸は長慶に預けられることになる。当初は氏綱の養子にするべきではという声もあった。ただそれだけは認められぬと晴元が聞かなかったのである。
「あくまで己の系譜は絶やしたくないということなのだろう。養父上と同じだ」
氏綱は納得していた。結局のところ晴元も高国も本質はいっしょであったのだろう。管領という座に執着しもがき続けた男たちである。
その晴元だがこの後も抵抗をつづけた。和睦の後も京に入ることなく各地を転戦し長慶に対抗していく。さらに義藤も同調し協力することもあった。長慶は旧主と将軍に長く苦しめられ続けることになる。
一方氏綱だが和睦の成立後山城国の淀城に入りここを居城とした。そしてこれ以降表立った活動はめっきり無くなっていく。これまで細川家が握ってきた幕府の実権などを長慶に委ねた形である。
「私にもはや果たすべき宿願も誰かに託された望みもない。あとは静かに朽ちていくだけ」
そう言って少ない家臣と共に淀城に引きこもった。そして永禄六年(一五六四)にこの世を去る。晩年の氏綱は自分の人生を振り返ってこう言った。
「私の人生は周りの人々に託された願いを果たすだけのものであった。それは、勝手な物言いであるが呪いのようなものであったかもしれない。だが私の最後は呪いから解き放たれることが出来たのだ。それは幸せだ」
この時畿内、いや日本全土は群雄が割拠し争っている。氏綱が願った天下の静謐は程遠い。氏綱もそれは分かっているが、それをどうにかすることもできないと理解していた。
「私だけ一足先に静かに死ぬことになるな」
氏綱は淡々と己の死を受け止めた。しかしその死に顔は少し晴れやかだった様にも見えたという。
細川氏綱の人生は管領の座につくことに費やされた人生と言っていいでしょう。そしてそれは晴元や高国にも通じることであり、ある意味細川家にかけられた呪いのようなものであったかもしれません。その意味では氏綱はその呪いを断ち切ることが出来たといえるかもしれませんね。
さて次の話は結果的にある大それたことをしてしまった男の話です。いったい誰なのか。お楽しみに。
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