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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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志岐鎮経 天草五人衆筆頭 後編

 天草での覇権をめぐり小競り合いを続ける鎮経。しかし鎮経が対応しなければならないのはそれだけではない。大きな時代の動き。それにより生じるものに鎮経も巻き込まれていく。

 鎮経をはじめとした天草の領主たちは各々の領土を守り、他の領主より抜きんでるために争い続けていた。だがその争いも所詮は九州の一地方の小競り合いにすぎず、より大きな動きには飲まれる定めである。

 そもそも天草が含まれる肥後の地は大友宗麟の影響下にあった。ところが宗麟が薩摩(現鹿児島県)の島津家との合戦で大敗を喫してしまう。すると肥後の大友家の影響力も衰えた。この時五人衆は寄り集まって今後のことを協議する。

「大友家はもう駄目だろう。とりあえず有馬殿に誼を通じておくか? 」

「いや、有馬殿ももはや龍造寺家の力に屈するところだ。龍造寺の勢いはすさまじい。ここは従っておくべきだろう」

「しかし島津家の勢いも強い。いつかは肥後にも出てくるのではないか」

「いやそれはどうだろうか」

 普段は争っている五人衆もこういう時は息が合う。鎮経も自分の生き残りに関わることでもあるので真剣であった。

 そんな議論の中で天草家当主天草久種(鎮尚の息子。先年家督を継いだ)がこういった。

「宣教師の方々の言っていたことだが有馬殿は島津家に通じて龍造寺家と争おうとしているらしい。島津家は大友家を打ち破って大層な勢いだ。ここは我らも島津家に通じておくべきでは」

 これに息をのむ一同。だがそこで鎮経がこういった。

「久種殿の申されたことは信ぴょう性がある。しかしいつ来るか分からぬ島津家を当てにするわけにもいくまい」

「それもそうだ。ならばどうする」

「ひとまず龍造寺家に下ろう。だが有馬家とも島津家とも渡りをつけておくべきだ」

 この鎮経の発言に一同頷いた。こうして当面の方針は決まったのだが、ここからさらに事態は変転する。


 天草五人衆をはじめとした天草の領主たちは一時龍造寺家の傘下に入った。ところが島津家の進出が思った以上に早く島津家と龍造寺家の対決も視野に入る。ここで天草五人衆は島津家に鞍替えすることを決めた。

 この時大きな役割を果たしたのが志岐鎮経と天草久種である。久種は同じくキリシタンであった有馬家と誼を通じて島津家との渡りをつける。一方鎮経も養子の親弘の妻が島津家の出身の女性であったので、このルートからも島津家への渡もついた。そしてついに行われた島津家と龍造寺家の決戦で島津家が大勝する。大友家も龍造寺家も打ち破った島津家が九州の統一に王手をかけた形であった。

「このまま島津家に従っていれば万事安泰か。あとはどうにか天草家の力を削げないか」

 そんなことを考える鎮経であるがここでさらに別の報せが入った。なんと天下統一を目指し畿内を制圧し東海、中国、四国、北陸などを傘下に収めた豊臣秀吉が島津家の征伐のため大軍を送り込んでくるという。この報せを受けて天草五人衆はすぐに協議を行った。

「この情報は確かなものなようです。豊臣秀吉という人物は関白の職に就きまさしく天下に号令をかけようとしているようで。宣教師の方々からもそのような情報を受け取っています」

 緊張した様子で言う久種。その言葉に嘘はないようである。だがその情報が確かなものであれば協議するまでもなく考えはまとまった。

「豊臣氏に下ろう」

 五人衆全員一致してその答えを出した。そして秀吉の九州征伐が始まると五人衆は素早く降伏。所領を無事安堵された。

 こうして天草にも平和が訪れた、と思いきやここから再び混乱が始まるのである。


 秀吉の支配下に入った肥後は、かつて越中(現富山県)の大名であった佐々成政の領土になった。つまり肥後とは何の縁もない人物が入ってきたわけである。肥後は各領主、国人たちの自立意識の強い土地であった。そう言う土地によそ者が入って、新たなという地を行うといろいろと反感を買う。さらに検地などして領土の確定などをしようものなら実力行使に出るものが多数出た。その一人が隈部親永である。

「何故よそから来たものが我が物顔でふるまうのだ。もはや我慢ならん」

 天正十五年(一五八七)親永と一部の国人たちは成政の支配に反発し一揆を起こした。これに対して成政は自ら出陣するとともに近隣国に支援を求める。秀吉もこの一揆を鎮圧することで他の地域への威圧をしようと考えたのか、一揆を徹底的に鎮圧することにした。

 この一揆に鎮経などの天草五人衆他天草の国人たちは参加していない。親永とは別に親しいわけでもなくほかの内陸部の国人たちとも誼があるわけでもない。

「勝手に争えばいい。滅びたければ滅びろ」

 この時に鎮経は他人事の様子である。おそらくは他の天草の領主たちも同様であったのだろう。

 さて肥後の国人一揆はそれ以上規模が広まらず秀吉によって迅速に鎮圧された。しかし成政は着任して早々に一揆を起こした責任を問われて領地を召し上げられ後に切腹する羽目となった。そして一揆の翌年に新しい武将が肥後に赴任してくる。赴任してきたのは二人で肥後を南北に分けて統治することになった。

 肥後の北部は豊臣秀吉の子飼いで猛将と名高い加藤清正。そして天草を含む肥後の南部を与えられたのはこれも秀吉の家臣で商家の出で俊才と名高い小西行長である。

「何者であろうと我らに面倒ごとを押し付けなければそれでよい」

 そんなことを考えていた鎮経であるがそんな都合のいいことは存在しない。着任の翌年の天正十七年(一五八九)行長からこんな命令が出た。

「居城の宇土城を普請するので資材を提供し賦役を出せ」

 この命令が鎮経の運命を決めることになる。


 小西行長からの要求に鎮経は反発した。

「なぜ我らが小西の城の普請を手伝わなければならんのだ」

 怒った鎮経は他の天草五人主を含む天草の領主たちにこう呼びかける。

「我らは秀吉様から朱印状を頂き領主として認められた。それは小西殿も同じである。だというのに我らを家臣同然の扱いにして普請をさせるのは秀吉様の命に背くことではないのか。このような無法は許すわけにはいかない」

 この鎮経の論理は正直無理があった。確かに鎮経たちにはそれぞれに秀吉から領地の所有を認められたのは事実である。一方で在地の勢力は赴任してきた大名に従うのもこれまで秀吉が天下を治めるにあたって行ってきた慣例であった。ゆえに行長に逆らうのは秀吉への反逆とも言える。

しかしこの鎮経の呼びかけに天草の領主たちはみなそろって同意して一揆を起こすことにした。別に鎮経の呼びかけを鵜呑みにしたわけではない。ただ行長の要請が自分たちの権利を侵害するというのは天草の領主の共通認識であった。ゆえにそうした行動に移ったのである。

さてこの天草の一揆を受けて頭を抱えたのは誰であろう小西行長であった。

「このようなことを行うとは。これでは豊臣氏への謀反になる。そんなことをすればどうなるのかこの前の一揆で分かっているはずではないのか」

 じつはこれまでの行長の天草国人衆への対応はどちらかというと穏やかなものである。というのも行長は熱心なキリシタンであり、天草の地がキリスト教の浸透が進んでいることを知って喜んでいたのだ。それゆえに天草国人衆への対応も穏やかなものである。また先だっての肥後の一揆に参加しなかった事実も手伝って豊臣氏、ひいては自分にも従っているものだと信じていたのだ。ところがこの仕儀に至ってしまう。こうなった以上は軍事的な対応をしなければならない。下手をすれば行長自身が佐々成政の二の舞になるからだ。

「できれば穏便に事を終わらせたいが」

 そう祈る行長であるが一揆側はそうではない。ともかくこれにより天正の天草一揆が始まったのである。


 あまり力攻めをしたくない行長は自ら出陣せずに軍勢を派遣するだけにした。行長の家臣たちもあくまで相手は天草の小領主たちだと侮り楽観的である。行長としては緒戦で勝利し早期に降伏を促したいと考えていた。

「三千ほどの兵を送れば問題なかろう」

 行長の下に入ってきた情報によればそれほどの兵は集まっていないそうだ。その情報を行長は信じている。というのも行長は鎮経を侮り軽蔑していたからだ。

「一揆を起こした志岐鎮経は周りの者たちを見下しキリシタンを迫害したらしい。そんなものの下に天草の将兵が集まるとは思えん」

 キリシタンである行長の耳には以前鎮経が行った迫害の情報は宣教師からもたらされている。その内容に行長は怒ったし、可能ならば排除しておきたいと考えているほどであった。鎮経へはそう言う悪い印象しかなかったので、天草の国人たちの一揆と言っても天草全土から集まったわけではないだろうと高を括っていたのである。

 一方鎮経の呼びかけに応じたのは天草五人衆を筆頭にほぼ全員であった。この時の彼らの頭の中にはキリシタンがどうかとかそう言うものはなく、ただ己の領地と己の家の権利を守りたいという意志である。鎮経が誰よりもそうした欲求を持っていたのである意味では強いまとまりをもっていたのだ。そして鎮経の下に集まった兵はおよそ五千。行長の派遣しようとした兵よりだいぶ多い。

「かなりの兵が集まったな。しかし緒戦で勝たなければ逃げ出すものも居るかもしれんな」

 多くの兵が集まっても鎮経はゆだんしていない。むしろ初戦での勝利に全力を注ぐ心構えである。

 こうして両軍準備が整った。小西軍は天草に向けて出陣し海を渡って天草の袋浦から上陸するつもりであった。小西軍には楽観的な空気が漂っている。負けるなどとは考えていないようであった。敵方の地に侵出するにもかかわらず。また行長の厭戦的な気分が伝播したのか小西軍はゆっくりと進軍していく。

 この楽観的でやる気名のなさそうな空気感も手伝ってか小西軍の動きは鎮経たちには筒抜けであった。ここで鎮経は必勝を期して一計を講じる。

「袋浦には上陸させてやれ」

 鎮経は上陸しようとする小西軍に攻撃を一切せず上陸させた。ゆっくりとした進軍であったので上陸した頃にはすでに夕方である。小西軍はひとまずここで一夜を明かすことにした。果たしてそれは鎮経の狙い通りである。

「まさかここで攻められるとは思わなんだろう。さあ攻撃だ」

 日も落ちてあたりが暗闇に包まれる中、鎮経たち天草一揆の軍勢は小西軍に忍び寄った。そして一気に攻めかかる。

「さあ! 散々に打ち破ってしまえ! 」

 鎮経の掛け声のもと小西軍に襲い掛かる天草の一揆の将兵たち。小西軍はまさか夜襲されるとは思っていなかったので大混乱に陥った。散々に痛めつけられて死傷者を出し、夜が明けるころには這う這うの体で逃げていったのである。天草一揆の大勝利であった。


 鎮圧に向かわせた軍勢の大敗を聞いて小西行長は嘆息した。

「穏便に済ませたかったのだが、こうなってしまっては仕様がない」

 行長には天草のキリシタンの領主や領民たちに思いを寄せる心はある。しかし自分の首と引き換えにまで助けようなどとは思っていない。

「こうなればより多くの軍勢を送って力づくでも鎮圧するしかないか」

 行長は周辺の大名に援軍を依頼した。その中の一人に肥後を分けあう加藤清正もいる。清正と行長は不仲であったがこの際仕方ない。

 こうして援軍を含めて総勢一万の軍勢が天草に送られた。鎮経たちの兵力の倍以上である。今度は油断なく上陸し散々に一揆勢を打ち破っていった。また加藤清正は熱心な日蓮宗の信徒でありキリシタンを毛嫌いしている。そのためか容赦ない攻めであった。

「これはいかん…… いかんぞ」

 鎮経と天草の国人たちは反抗するがそれも無駄に終わる。散々に打ち破られて城に追いつめられていった。こうなるともはや勝機はない。

「何とか講和して穏便に終わらせなければ」

 そう考える鎮経であるが、ここで思いもがけぬ情報が入る。なんと他の天草五人衆たちが次々と降伏して行長の傘下に下っていったというのだ。驚くべき速さである。おそらくあらかじめ話が付けてあったとしか思えない。しかしその話は鎮経には全く来ていないのである。これはどういうことか。鎮経はすぐに思い当たった。

「まさかキリシタンンお領主だけに降伏を勧めているのか」

 まさしくその通りであった。行長はキリシタンの誼を通じて鎮経以外の天草五人衆に降伏を促していたのである。さらに清正の軍勢を巧妙に鎮経の方に向かうように仕組んだのだ。清正の軍勢の攻撃は激しく、外部と連絡を取っていられない状況に追い込まれたのである。鎮経はここで理解した。

「つまりこの一揆の責めをすべて私に押し付ける気か」

 実際行長と他の天草五人衆の考えはそうであった。そもそも一揆の発起人は鎮経であるのだから当然と言えるが。

 ともかくここに至り鎮経はすべてを理解した。そして同時に決断する。

「あいにくだが私は殺されん。家は失っても死にはしない」

 鎮経は家臣に降伏する様に告げる。そして志岐城を包囲する清正の軍勢に降伏する旨を伝えに行かせた。清正と家臣たちはこれを協議し鎮経の降伏を受け入れる。清正もこれ以上の戦いは無用と考えたのだろう。鎮経の身柄は行長に渡されることになった。だがその直前に鎮経は逃げた。包囲が加藤家と小西家とで切り替わる間隙をぬったのである。両家が不仲でそこがうまく行かないだろうと踏んだ鎮経の勝利であった。

「志岐の家はどうなるか分からん。だがもはやこれで私に責はとらせられぬよ」

 責任を取らせようとした鎮経は逃げた。だが行長はほかの天草五人衆ら天草の国人たちには降伏した場合は責任を問わないと約束してしまっている。これではどうしようもない。

 何はともかくこれで天草の国人たちは完全に行長の支配下に入った。これで肥後も完全に統一されたことになる。

 逃げた鎮経は縁を頼って島津家に逃げた。その後のことは不明である。ただ非業の死を遂げたとか小西家に引き渡されたとかそう言う記録はない。穏やかに余生を過ごしたと言われている。


 よく知られている通り豊臣秀吉の天下統一事業は諸国の大名を従えることで成功しました。しかし実態として各地の国人たちなどの小勢力は自分たちの自律性を主張しそれが問題になることもしばしばありました。今回触れられた肥後での一揆もその一つで他の地域のいずれの一揆も最終的には制圧されています。これも天下統一事業の一環と言えるでしょうし、まさしく世の中にシステムが移り変わる象徴的出来事であったのかもしれませんね。

 さて次の話は近江のある名家の武将の話です。あまり派手な人物ではありませんがお楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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